2016年12月17日土曜日

狭き門と男なんざ光線とかいふ問題

《幸福に至る門は狭い。狭き門より力を尽くして入れ。》(アンドレ・ジイド)

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。

toujours le désolera de son angoisse l’apparition sur la scène d’une forme de femme qui, son voile tombé, laisse apparaître un trou noir, ou qui se dérobe insaisissable à son étreinte.(Lacan, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)



《隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時は、なんでも「不気味なunheimilich」と呼ばれる。》(シェリング)

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『不気味なもの』)

ーー「不気味なもの」は、仏語ではそれに相応しい言葉がない。だから、フロイトの『不気味なもの (Das Unheimliche)』は、L'inquiétante étrangeté.と訳されている。すなわち「不穏をもたらす奇妙なもの」。これは奇妙な訳語であり、ラカンはそのかわりに、《外密という語を発明した》(ムラデン・ドラ―、Mladen Dolar,I Shall Be with You on Your Wedding-Night": Lacan and the Uncanny,1991、PDF

『不気味なもの』1919とはフロイトがタナトス概念を初めて公にした『快原理の彼岸』1920の前年の論文である。

……同種のものの繰返しの不気味さがいかにして幼児の心的生活から演繹されうるかを、ここではただ示唆するにとどめて、そのかわりこれについてはすでに、これを別の関連において詳細に論じた仕事のあることをお知らせしておく。つまり心の無意識のうちには、欲動生活から発する反復強迫の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので、心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ不気味なものとして感ぜられると見ていいように思う。(フロイト『不気味なもの』)

上の文から判然とするように、フロイトはすでにこの時点でタナトス≒反復強迫を暗示している。

ラカンの外密extimitéも、もちろん快原理の彼岸にかかわる。

私の最も内にある《親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(S.7)

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネールⅩⅥーー防衛と異物 Fremdkörper
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité

《あなたは私自身の内部よりもなお内部だった。[tu autem eras interior intimo meo]》(アウグスティヌス『告白』3.6.11)




私は長い沈黙のうちに瞑想にふけりました。人間は愚かにも、みずからのもっとも高貴な部分をなおざりにして、さまざまなことに気を散らし、むなしい眺めにわれを忘れては、内部にこそ見いだせるはずのものを外にもとめているのだと(ペトラルカ「『自然と人間との再発見』)

《神は自己の外部に求められるべきではない。なぜなら、神はすでに「内部」のそこにいるから。神は、私が私自身である以上に私にとって永遠に親密なものである。私自身の「外部」にあるのは「私」なのである。内部の神が、探求を開始し・動機づけ・道案内をする。したがって、その場のなかに神は見出される。》(Denys Turner,The Darkness of God: Negativity in Christian Mysticism)




「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23、 サントーム)

わたくしはあなたの知らないうちに
お尻から柔らかい手をつきこんで
あなたの生きぎもとはらわたを
いただいていますありがとう
そのおかえしのお礼として
わたくしの懐中電灯をあなたの
おなかのなかに残してゆきます
さああなたのなにがうつるのでしょうか

ーー宗佐近「河童の墓」





・この年になって、もっとしっかり女性器を見ておくんだった、と後悔している。

・目もだいぶみえなくなってきたが、
女性器の細密画をできるだけ描いてから死にたい。

ーー金子光晴、対談当時、79歳ーー吉行淳之介対談集『やわらかい話』)



私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.](ラカン、セミネール11)

《おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語「Extimité」である。それは主体自身の、実に最も親密な intimité 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外 ex に現れ、捉えがたいものだ》(Richard Boothby、Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN,2001)

予は節子以外の女を恋しいと思ったことはある。他の女と寝てみたいと思ったこともある。現に節子と寝ていながらそう思ったこともある。そして予は寝た――他の女と寝た。しかしそれは節子と何の関係がある? 予は節子に不満足だったのではない。人の欲望が単一でないだけだ。(……)

余は 女のまたに手を入れて、手あらく その陰部をかきまわした。しまいには 5本の指を入れて できるだけ強くおした。・・・ ついに 手は手くびまで入った (啄木のローマ字日記)



男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より

……この問題をめぐって、ラカンはきわめて精緻な臨床的指示を残してくれた。エクリのなかには僅かしかない。しかしそれらは治療・治癒への鍵である。

その中のひとつ。ヒステリー的幻想に本質的なものは、常に「他の女」の機能である。我々は臨床上の一般化に至るとき慎重でなくてはならない。とはいえ我々は言いうる、ヒステリー的主体に出会うときは毎度、cherchez la femme(女を探す)と。我々は探し求めなければならないのだ…「他の女」を。というのは、ヒステリーにおいて生じる大他者の欲望の問いのあり方は、常に性についての問い・主体の性についての問いを通しているから・・・

ヒステリー的主体において、「他の女」はこのような支配的機能を持っている。なぜなら性についの問いは、常に「他の性」についての問いだから。ここに相互関係があるとするのは誤謬である。というのは「他の性Autre sexs」は、両性にとって女性の性だから。「女性の性」とは男たちにとっても女たちにとっても「他の性Autre sexs」である。したがって、根本的人間の問いが十全な強度を持っているヒステリー的主体は、常に女を通して答に至ろうと希求する。…




古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。…

この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(ミレール、Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasm) 


我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋める combler le trou dans le Réel ために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(トロウマ troumatisme = トラウマ)」である。(ラカン、S21、19 Février 1974 )

人間の構造的トラウマが、この穴ウマである。今後、この意味で使うときはトラウマではなく、トロウマ troumatisme と記すことにする・・・




いややはり古典的に「玄門」と呼ぶべきか。

《谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ》(老子「玄牝の門」)

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader(1996)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ,1998、私訳)



……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(…)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)