例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11、20 Mai 1964)
他方、主体の発生による喪失は次のように説明されている。
S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何かquelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(S17、26 Novembre 1969)
こうして対象a と呼ばれるものは、少なくとも二種類あることが分かる。
…………
現実の領域は対象a の除去の上になりたっているが、それにもかかわらず、対象a が現実の領域を枠どっている。 le champ de la réalité ne se soutient que de l’extraction de l’objet a qui lui donne son cadre (Lacan,E.554,1966)
◆ミレールの古典的な注釈(Jacques-Alain Miller,Montré à Prémontré 1984)
対象を〈現実界〉として密かに無視することによって、現実の安定が「ひとかけらの現実」として保たれているのだ、とわれわれは理解している。だが、〈対象a〉がなくなったら、〈対象a〉はどうやって現実に枠をはめるのか。
〈対象a〉は、まさしく現実の領域から除去されることによって、現実を枠にはめるのである。 〈対象a〉というのはこのような表面の断片であり、それを取り除くことが、それに枠をはめることになるのである。主体とは、すなわち斜線を引かれた主体とは、存在欠如であるから、この穴のことである。存在としては、この除去されたかけらにほかならないのである。主体と〈対象a〉は等価である、とはそういうことなのである。(ミレール,1984)
…………
さて、ミレールはどちらの対象aを語っているのか、《永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant》か、それとも《S1 が「他の諸シニフィアン autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」》ときに生ずる対象aか? 上の説明はどちらにも当てはまるように読める(ただし1984年という比較的初期ミレールであり、用語遣い等も含め現在では古くなっている箇所もある)。
ラカンはセミネール11で、《二つの欠如が重なり合う Deux manques, ici se recouvrent》と言っている。
一方の欠如は《主体の到来 l'avènement du sujet 》によるもの。つまりシニフィアンの世界に入場することによる象徴的去勢にかかわる欠如。そして、《この欠如は別の欠如を覆うになる ce manque vient à recouvrir,…un autre manque 》。
この別の欠如とは、《リアルな欠如、先にある欠如 le manque réel, antérieur》であり、《生存在の到来 l'avènement du vivant》、つまり《性的再生産 la reproduction sexuée》において齎された欠如のこと。
続いて同じ内容を重ねて強調している。このリアルな欠如は、生存在が性的な形で再生産された時に、己れ自身の部分として喪失した欠如である、と。《Ce manque c'est ce que le vivant perd de sa part de vivant : - à être ce vivant qui se reproduit par la voie sexuée》
このセミネール11の段階から、ラカンは対象aをさらに吟味・厳密化していく(参照:「一の徴」日記②)。
ここではその展開を端折り、ジジェク2012による、対象aの厳密な定義の試みを掲げる。核心的と思われる三か所をやや長く引用するが、下の文には三つの区分がなされている。
①欲望の(空虚の換喩的形象化としての)対象a
②欲望の対象-原因(空虚自体)としての対象a
③欲動の対象・喪失自体を上演する(絶え間ない循環運動としての)対象a
欲動は「超越論的」であり、その空間は原初に喪われた対象(モノ)の空虚を穴埋めする幻想の空間である。……この喪失と重なり合う対象としてのラカンの対象a ーー、それはまさに喪失の瞬間に出現する(乳房から声・眼差し迄の全ての幻想的化身は、空虚・無の換喩的形象化である)ーーこの対象a は、欲望の地平内部にあるままである。真の欲望の対象-原因としての対象a は、幻想的化身によって穴埋めされる空虚自体である。
他方、ラカンが強調しているように、対象a はまた欲動の対象である。ここでの関係性は欲望の対象a とは徹底的に異なる。もっともどちらの場合も、対象と喪失の繋がりはきわめて肝要ではある。
欲望の対象-原因としての対象の場合、原初的に喪われた対象がある。それはそれ自体の喪失と一致する。喪失として出現するのである。
欲動の対象としての対象a の場合、「対象」とは喪失それ自体である。欲望から欲動への移行において、われわれは喪われた対象から対象としての喪失自体へと向かう。
言い換えれば、「欲動」と呼ばれる奇妙な運動は、喪われた対象への「不可能な」探求によってドライブ(欲動)されるのではない。それは直接的に「喪失」自体ーー裂け目、切り傷、距離ーー自体を上演する。
したがって、ここで為されなければならないのは二重の区別である。幻想的な地位の対象a とポスト幻想的な地位の対象a とのあいだの区別だけではない。そうではなくまた、ポスト幻想的領域自体内部において、欲望の対象-原因と欲動の対象-喪失とのあいだの区別が必要である。
ゆえに次のように主張するのは誤謬である、「純粋な」死の欲動は、(自己)破壊への不可能な「全的」意志・エクスタシー的自己消滅であるとするのは。そこでは主体は母親なるモノの全体性に融合しようとするが、その意志は実現されえず、遮断され・「部分対象」に付着して身動きがとれなくなっている、とするのは誤謬である。
このような考え方は、死の欲動を欲望とその喪われた対象へと再翻訳するものである。すなわち、ポジティヴな対象が不可能なモノという空虚の換喩的代役であるのは欲望においてである。全体性への憧憬が部分対象へと移転されるのは欲望においてである。これがラカンが欲望の換喩と呼んだものである。
ここで我々は、ラカンの核心を見失なわないように(欲望と欲動を混同しないように)殊更厳密でなければならない。欲動は、部分対象のうえに固着されたモノへの無限の憧憬ではない。「欲動」は固着自体である。どの欲動にもある「死」の次元はここに帰される。欲動は、堰き止められ解体された(近親相姦的モノへの)普遍的渇望ではない。欲動はこの歯止め brake 自体である。本能への歯止め、その「凝固 stuckness」(エリック・サントナー曰く)である。(……)
さらにもっと的確に言おう。欲動の対象は、空虚の充填物としてのモノとは関係ない。欲動とは文字通り欲望への対抗運動である。欲動は、不可能な融合に向かって奮闘し、そして断念を余儀なくされて、その残余としての部分対象に凝着させられるものでは〈ない〉。欲動 drive は、極めて文字通り、まさに「ドライブ」である。欲動は、我々が埋め込まれている全ての連続体を粉砕し、その連続体のなかに根源的不均衡を導入する「ドライブ」である。そして欲動と欲望のあいだの相違はまさに、欲望においては、この切れ目、この部分対象への固着が、あたかも「超越論的に」モノの空虚の代役に変換されることである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
以下、同ジジェク、2012だが、別の章から。
ラカンのセミネールXVI へのミレール注釈は、対象a 、欲望の対象-原因の地位の決定的変化を詳述している。すなわち、身体上の標本(部分対象:乳房、糞便…)から純粋な論理的機能への移行。このセミネールで、《ラカンは本当は、対象a を身体上の標本として叙述していない。彼は、対象a を論理的一貫性、生物学の場のなかにある論理的存在として構築している。この論理的一貫性は、身体が、異なった身体的演繹を通して満足せねばならぬ機能のようなものである》(Jacques‐Alain Miller, “A Reading of the Seminar From an Other to the other,” 2007)。
この移行とは、外部の侵入者、徴示化機械 signifying machine のなかの砂粒ーーその砂粒が機械のスムーズな機能を邪魔するーーから、機械に完全に固有の何かへの移行である。
ラカンが、象徴空間の内部が外部に重なり合うこと(外密 ex‐timacy)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもないのだ。
ミレールは最近、「構成された不安 constituted anxiety」と「構成する不安 constituent anxiety」というベンヤミンの区別を提案した。この区別は、欲望から欲動への移行に関わって決定的である。前者は我々に纏いつく怖ろしくも魅惑的な不安の深淵の標準概念を示す。我々を惹き込み脅かす悪の渦巻である。後者はそのまさに喪失において構成された対象a との「純粋な」遭遇を表す。
ミレールはここで二つの特徴を正しく強調している。構成された不安と構成する不安を分け隔てる相違は幻想についてに対象の地位に関わる。構成された不安の場合、対象は幻想の領域内にある。構成する不安が齎されるのは、主体が「幻想の横断」を経て、幻想的対象によって埋め合わせられた空虚・裂目に遭遇するときのみである。
とはいえ明瞭判然としているのは、ミレールの定式は対象a の真のパラドックス、あるいはむしろ、対象a の両義性を見失っていることである。その両義性とは次の問いに関わる。対象a は欲望の対象として機能するのか、あるいは欲動の対象として機能するのか?
すなわちミレールが、対象a をその喪失と重なり合う対象、まさにその喪失の瞬間に出現する対象(したがって乳房から声・眼差し迄の全ての幻想的化身は、空虚・無の換喩的形象化である)として定義するとき、彼はいまだ欲望の地平内部にとどまっている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)
さらに資本の論理を語るなかでの対象aの叙述箇所。
ジャック=アラン・ミレールに従って、欠如と穴とのあいだの区別がされなければならない。「欠如とは空間的で、空間内部の空虚を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す」(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” excerpted at www.lacan.com )
ここに、欲望と欲動とのあいだの相違が横たわっている。欲望は、その構成的欠如に基づいている。他方、欲動は、穴・存在の秩序の裂目のまわりを循環する。
言い換えれば、欲動の循環運動は、歪んだ空間の奇妙な論理に従っている。その歪曲空間では、二つの点の最短距離は直線ではなく曲線である。欲動は、目標 aim を実現するための最速の方法は、目的 -対象 goal‐object のまわりを循環することであるのを「知っている」。
資本主義はもちろん、各個人に差し向けられた直接的水準においては、諸個人を顧客・欲望の主体として扱い、絶え間ず新しい倒錯的な、かつ過剰な欲望を誘引する(彼らを満足させる生産物を提供する)。さらに資本主義は明らかに「欲望することの欲望」を巧みに操作する。まさに絶えず新しい対象と快楽の様式を欲望することの欲望を喧伝する。しかしながら、もし資本主義が、「最も基本的欲望は欲望としてのそれ自体を再生産することの欲望(そして満足を見出せないことの欲望)である」という事実を踏まえて既に欲望を操作しているなら、この水準においては、我々は未だ欲動には至っていない。
欲動は、もっと根本的・体系的水準において、資本主義に固有なものである。全き資本家機械へと駆り立てるものとしての欲動は、拡張された自己再生産の絶え間ない循環運動に従事する非人格的衝迫である。我々が欲動モードに入るのは、資本としての貨幣の循環がそれ自体目的になったときである。というのは価値の拡張は、絶えず更新される運動内部でのみ起こるのだから(人はここで念頭に置いておくべきである、ラカンのよく知られた欲動の目標 aim と目的 goal とのあいだの区別を。目的 goal とは、欲動がそのまわりを循環する対象である一方、欲動の本当の目標 aim は、この循環の絶えまない継続自体である)。
したがって資本家の欲動はどんな特定の個人にも属さない。むしろ資本の直接的「代理人」(資本家自身・経営者)として振舞う諸個人がそれを露にする。
(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
…………
柄谷行人は『トランスクリティーク』にて、三番目の「欲動の対象・喪失自体を上演する(絶え間ない循環運動としての)対象a」の相を見事に把握している。
マルクスが資本の考察を守銭奴から始めたことに注意すべきである。守銭奴がもつのは、物(使用価値)への欲望ではなくて、等価形態に在る物への欲動――私はそれを欲望と区別するためにフロイトにならってそう呼ぶことにしたいーーなのだ。別の言い方をすれば、守銭奴の欲動は、物への欲望ではなくて、それを犠牲にしても、等価形態という「場」(ポジション)に立とうとする欲動である。この欲動はマルクスがいったように、神学的・形而上学的なものをはらんでいる。守銭奴はいわば「天国に宝を積む」のだから。
しかし、それを嘲笑したとしても、資本の蓄積欲動は基本的にそれと同じである。資本家とは、マルクスがいったように、「合理的な守銭奴」にほかならない。それは、一度商品を買いそれを売ることによって、直接的な交換可能性の権利の増大をはかる。しかし、その目的は使用することではない。だから、資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』P25-26)
これは柄谷行人初期からのマルクス読解に由来するすぐれた成果である(ラカン派でさえ、この欲動の対象aを把握している人はすくない)。
マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。物象化とは、このことを意味する。それは、「人間と人間の関係が物と物と物の関係としてあらわれる」とか、関係が実体化されることを意味するのではない。(……)
くりかえしていえば、マルクスは、価値形態、交換関係の非対称性が経済学において隠蔽されていることを、指摘したのである。同じことが、言語学についてもいえるだろう。それは、いわば、教えるー学ぶ関係の非対称性を隠蔽している。非対称的な関係を隠蔽するということは、関係を、あるいは他者を排除することと同じである。それゆえに、言語学は、ヤコブソンがそうであるように、古典(新古典)経済学と同じ交換のモデル、たとえばメッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)というモデルから出発している。それは、共同体のなかでの交換のみをみることである。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年、P.17)
「対称的であり且つ合理的な根拠」/「社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係」とは、「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」/「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)」である(C-M-C/M–C–Mʹ)。
" Mehrlust "、すなわち「剰余享楽 plus-de-jouir」は" Merhwert(剰余価値) "と相同的である。(ラカン、S.16,D'un Autre à l'autre)
主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。
そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 la plus-value と呼ばれるものである。この喪失は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。(ラカン、S.16)
フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(Lacan,S.21)
【快原理を蝕む倒錯性】
リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。
【フロイトの快の獲得 Lustgewinn とマルクスの M– C–M】
唯一の現実は、貨幣を消費してより多くの貨幣を獲得することである。そしてマルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの・別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換は、究極的には虚構である。もっともこの虚構は、交換過程の「自然な」基盤を提供している(たんに金、もっと金じゃないよ、交換のすべての核心は、具体的な人間欲求を満たすことさ!)。ーーここにある基本のリビドー的機制は、フロイトが Lustgewinn(快の獲得)と呼んだものである。Samo Tomšič の『資本家の無意識』はこの概念を巧みに説明している。
《「快の獲得 Lustgewinn」は、快原理の恒常性 homeostasis が単なる虚構であることの最初の徴である。しかしながらそれが証明しているのは、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みだしえないことである。それはちょうど、どんな剰余価値も C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に生じないように。
剰余享楽・快と営利 profit making との連携は、快原理の想定された恒常的特性を掘り崩すわけでは単純にはない。それが示しているのは、恒常性は欠くべからざる虚構であり、無意識的生産を構造化し・支えていることである。それはちょうど、世界観的機制のイマジネールな獲得が閉じられた全体ーーその総体的構築において亀裂のない全体--を提供することで成り立っているように。
「快の獲得 Lustgewinn」はフロイトの最初の概念的遭遇である、後に快原理の彼岸・反復強迫に位置づけられたものとの。それは精神分析に、M– C–M(貨幣– 商品–貨幣)と等価なものを導入することになる。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2014)
「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作働する。人はその目的を見失い、人はその運動を反復する。何度も何度も試みる。したがって真の目標は、もはや意図された目的ではなく、目的に到ろうとする反復運動自体である。
これは、形式と内容の用語に置き換えうる。「形式」とは、欲望された内容に接近する形式・様式を表わす。一方で欲望された内容(対象)は、快を提供することを請け合う。他方で剰余享楽は、目的追求のまさに形式(手続き)によって獲得される。
いかに口唇欲動が機能するかの古典的事例がある。一方で乳房吸啜の目的は、乳で満腹になることである。他方でリビドー的獲得は、吸啜の反復運動によって提供され、したがってそれ自体が目的となる。(……)
「快の獲得」の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快への断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は抑圧の欲望へ反転する、等々。これらすべての事例において快の獲得は、「パフォーマティヴ」の水準で起こる。目的に到達することではなく、目的に向かって作働する「パフォーマンス」自体がその獲得を産出する。
【快の獲得 Lustgewinn と剰余価値 Mehrwert 】
…我々は「快の獲得 Lustgewinn」 と「剰余価値 Mehrwert」とのあいだに歴然とした繋がりを観察しうる。快の獲得過程の目標は、公式的目的(欲求の満足)ではなく、過程自体の拡張された再生産である。たとえば、母の乳房を吸啜する目標は乳で満腹になることではなく、吸啜行為自体によってもたらされる快である。そして正確に相同的のあり方で、剰余価値の交換過程の目標は、自身の欲求の満足ではなく、資本自体の拡張された再生産である。
ここで決定的なのは C-M-C から M-C-M' への反転である。C-M-C(諸個人は商品をその欲求よりも過剰に生産する。彼らはその商品を交換する。そして貨幣とは、生産者が必要とする生産物を求めて彼の過剰生産物と交換するための、単なる仲介要素である)、ここから M-C-M' (私が所有する貨幣を以て、私は商品を購買する。そしてより多くの貨幣を獲得するために商品を販売する)への反転。もちろん二番目の作用が働くのは、私が購買した商品がその価値よりももっと多くの価値を産出するために使用された場合に限る。そしてこの商品とは労働力である。
要するに、M-C-M' の条件は、自己言及的捻りのなかで、商品自体を産出する労働力が商品となることである(ここで別の捻りを付加しよう。遺伝子工学の爆発的な発展、すなわち諸商品を産出する一つの商品を科学的に産出することの行く末…)。
【人間の生産活動の倒錯性】
ここで耐えねばならない誘惑は、C-M-C から M-C-M' への移行を、より基本的過程の疎外・脱自然化として捉えてしまうことである。一見自然で妥当に見える、人が生産しうるが自らにとっては実際の必要でない品を、他者によって生産された必要品と交換するのは。この全過程は私の欲求によって統制されている。だが事態は奇妙な転回を起す。それは仲介要素(貨幣)にすぎなかった筈のものが、目的自体になるときである。そのとき全運動の目的は、私の実際の欲求における拠り所を失い、二次的手段化であるべき筈のものの終わりなき自己増殖へと転じる…。
C-M-C を自然で妥当と見なしてしまう誘惑に対抗して、人は強調しなければならない。C-M-C から M-C-M' への反転(すなわち自己を駆り動かす貨幣の妖怪の出現)は、既にマルクスにとって、自己駆動化された人間の生産活動の倒錯的表現である。マルクス的観点からは、人間の生産活動の真の目標は、人間の欲求の満足ではない。むしろ欲求の満足は、ある種の理性の狡知のなかで、人間の生産活動の拡張を動機づけるために使われる。(ジジェク、2016)
…………
フロイトの概念「快の獲得Lustgewinnung」は1908年にたしか初出するが、ここでは1920年の『快原理の彼岸』から抜き出しておく。
現実原則は、最後まで快の獲得Lustgewinnungの意図を断念することはないが、満足を延期し、満足のさまざまな可能性を断念し、長い迂回路をへて快に達する途中の不快を一時甘受することを、促し強いる。(フロイト『快原理の彼岸』)
子供が苦痛な体験を、遊戯(fort-da)として繰りかえすことは、どうして快感原則に一致するのであろうか。(……)偏見なしに観察すれば、子供は別の動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受動的 passivであって、いわば体験にとらえられたのであるが、ついに能動的な役割 aktive Rolleに移り、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として繰りかえしたのである。この努力は、回想そのものが快いものであるかどうかにはかかわりない態度をとる支配欲動 Bemächtigungstrieb に帰することもできよう。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供を置きざりにした母親にたいする、日ごろは抑圧されていた復讐衝動 Racheimpulses の満足であるともいえる。(……)この支配衝動が不快な印象を遊戯の中に反復したのは、この反復に、種類はちがってはいるが、ある直接的な快の獲得 Lustgewinn が結びついているからこそであろう。(同『快原理の彼岸』)