以下、メモ。
ーーグレアム・グリーンと吉行淳之介の文章はネット上から拾った。
ぼくはずいぶん長い間、あの時期のことを思い返すたびに、まるで石の下の虫のように復讐欲が生きながらえているのに気がついたものである。唯一の変化は、 石の下を見ることがだんだん頻繁でなくなってゆくことであった。ぼくが小説を書きはじめると、過去はその力の一部分を失うようになった。それは書かれることによって、ぼくから離れたのである。(グレアム・グリーン『復讐』)
《これでは、まるで復讐の武器として小説を選んでいる印象を与えるが、それだけのことではあるまい。少年のころ、激しく傷つくということは、傷つく能力があるから傷つくのであって、その能力の内容といえば、豊かな感受性と鋭い感覚である。そして、例外はあるにしても、その種の能力はしばしば、病弱とか異常体質とか極度に内攻する心とか、さまざまなマイナスを肥料として繁ってゆく。そして、そういうマイナスは、とくに少年期の日常生活において、大きなマイナスとして作用するものだ。さらに、感受性や感覚のプラス自体が、マイナスに働くわけなので、結局プラスをそのままプラスとして生かすためには、文学の世界に入って行かざるを得ない。》吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』)
文学作品をつくる場合、追究するテーマというものがあり、もちろんそれを追究する情熱というものがあるわけだが、これはいわば「近因」である。一方、その作者がむかし文学をつくるという場所に追い込まれたこと、そのときの激しい心持ち、それが「遠因」といえるわけで、その遠因がいつまでもなまなましく、一種の情熱というかたちで残っていないと、作品に血が通ってこない。追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。
だが語れば語るほど「話が厄介に」なってくるのは……
一人前の作家として世間に認められたとき、『遠因』が消え失せてしまう、とおもわせるところがある。(……)しかし、グリ ーンもそんなことでは埋めることのできない、深い暗い穴を心に持っていた、と考えるべきであろう。
ーーもちろん吉行淳之介の考え方への批判はあるだろう、たとえば吉行の小説の《主人公は「母性を欠いた女」つまり「娼婦」として、あるいは娼婦のようにしてしか女性と交渉を持てないが、それは「母の拒絶」「女の裏切り」に会ってしまった男の、ありふれた「女嫌い」の物語に過ぎない。》(上野千鶴子)
十五歳で吉行栄助と結婚したあぐり安久利は、十六歳で長男・淳之介を生んでいる。このとき栄助は、文学を志して東京にいた。栄助を追うようにして地元・岡 山から上京した安久利は、日本の洋髪の草分けである山野千枝子のもとに弟子入りした。そのとき、安久利は、姑の言いつけに従って、一歳にも満たない淳之介 を岡山に置いてきている。安久利の修行中、淳之介は、岡山と東京を往復しながら、ほとんどを祖母・盛代と過ごした。お礼奉公を三年勤め上げた安久利が、一 旦岡山に帰れたとき、淳之介は四歳になっていた。母の帰郷を知らされた淳之介は、「ママが帰ってくるの? この畳の上に?」と言って、大喜びしたという。 (復讐のために ──吉行淳之介論──吉田優子)
《小説を書く場合、私は依然として読者を意識することができない。(略)自分の中にいる一人の読者だけを意識して作品を書き上げた後に、私は自分と精神構造や感受性の似た少数の読者が、あるいはこの作品を愛読してくれるかもしれぬ、とはかない期待を抱く。しかし、大して大きな数字を予想することはできない。》
それでは食えないので、小説以外の雑文(エッセイ)を書く。
《ところが、私はそのような文章においては、自分自身以外の読者というものをはっきり頭に置いて書くことができる。いかにも、自分は職業に従事しているという心持ちになれる。》(吉行淳之介全集 第12巻)
ーー特に感想なし。上野センセは中井久夫ににはゾッコンらしいが。
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。
幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識 System Bewußt (Bw)・システム前意識System Vorbewußt (Vbw)」 と「システム無意識System Unbewußt (Ubw)」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
……ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が「全てではない not all 」ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)
※参照:「原抑圧の悪夢」
…………
フロイトは《経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況》と呼び、《現在の状況(トラウマ的状況)がむかしに経験した外傷経験を思いださせる》(『制止、症状、不安』1926年)としている。
…………
以下、手許の(主に)中井久夫の書から。
《たまたま、私のすぐ前で、教授が私の指導者で十年先輩の助手を連続殴打するということがあった。教授の後ろにいた私はとっさに教授を羽交い締めした。身体が動いてから追いかけて「俺がこれを見過ごしたら一生自分を卑劣漢だと思うだろうな」という考えがやってきて、さらに「殿、ご乱心」「とんだ松の廊下よ」と状況をユーモラスなものにみるゆとりが出たころ、教授の力が抜けて「ナカイ、わかった、わかった、もうしないから放せ」という声が聞こえた。 これだけのことであるが、しかし、ただでは済まないであろう。その夜、私はクラブの部室を開けて、研究者全員を集め、「今までもこういうことがなかったか」と詰問した。「あったけど、問題にしようとすると本人たちがやめてくれというんだ」「私は決してそうはいわない」ということで、けっきょく教授が謝罪し、講座制が一時撤廃され、研究員全員より成る研究員会による所長公選というところまで行った。これはまたしてもジャーナリズムに出さないということで成功した。札幌医大から来た富山さんと私と二人で、5階建ての新ウィルス研究所棟の部屋割りを3時間でやり遂げたまではよかったのだが、そのうち、若い者たちが所内の人事を左右するような議論が横行するようになった。私は、革命の後の権力のもてあそびは、こんな小さな改革でも起こるのだな、とぞっとして、東大伝染病研究所の流動研究員となって、東京に去ることにした。》(中井久夫「楡林達夫『日本の医者』などへの解説とあとがき」)
フロイトは《経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況》と呼び、《現在の状況(トラウマ的状況)がむかしに経験した外傷経験を思いださせる》(『制止、症状、不安』1926年)としている。
我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)
現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))
…………
以下、手許の(主に)中井久夫の書から。
笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかった……(中井久夫「知命の年に」1984年初出『記憶の肖像』所収)
……私は対人関係に不器用であり、多くの人に迷惑を掛けたし、また、何度かあそこで死んでいても不思議でないという箇所があったが、とにかくここまで生かしていただいた。振り返ると実にきわどい人生だった。(中井久夫「私の死生観――“私の消滅”を様々にイメージ」1994年初出『 精神科医がものを書くとき』所収 )
私がヴァレリーを開くのは、決って危機の時であった。(……)
私には二十歳代は個人的にも家庭的にも職場的にも危機が重なってきた。私はそれらを正面から解決していったが、ついに、医学部の構造を批判的に書いた匿名の一文が露頭して私は“謝罪”を拒み、破門されて微生物の研究から精神科に移った。移った後はヴァレリー先生を呼び出す必要は地震まで生じていない。(中井久夫「ヴァレリーと私」2008.9.25(書き下ろし)『日時計の影』所収)
《たまたま、私のすぐ前で、教授が私の指導者で十年先輩の助手を連続殴打するということがあった。教授の後ろにいた私はとっさに教授を羽交い締めした。身体が動いてから追いかけて「俺がこれを見過ごしたら一生自分を卑劣漢だと思うだろうな」という考えがやってきて、さらに「殿、ご乱心」「とんだ松の廊下よ」と状況をユーモラスなものにみるゆとりが出たころ、教授の力が抜けて「ナカイ、わかった、わかった、もうしないから放せ」という声が聞こえた。 これだけのことであるが、しかし、ただでは済まないであろう。その夜、私はクラブの部室を開けて、研究者全員を集め、「今までもこういうことがなかったか」と詰問した。「あったけど、問題にしようとすると本人たちがやめてくれというんだ」「私は決してそうはいわない」ということで、けっきょく教授が謝罪し、講座制が一時撤廃され、研究員全員より成る研究員会による所長公選というところまで行った。これはまたしてもジャーナリズムに出さないということで成功した。札幌医大から来た富山さんと私と二人で、5階建ての新ウィルス研究所棟の部屋割りを3時間でやり遂げたまではよかったのだが、そのうち、若い者たちが所内の人事を左右するような議論が横行するようになった。私は、革命の後の権力のもてあそびは、こんな小さな改革でも起こるのだな、とぞっとして、東大伝染病研究所の流動研究員となって、東京に去ることにした。》(中井久夫「楡林達夫『日本の医者』などへの解説とあとがき」)
夫人には話さずじまいだったが、当時の私は最悪の状態にあった。事実上母校を去って東京で流動研究員となっていて、身を寄せた先の研究所で自己批判を迫られていた。フッサールという哲学者の本を読んでいるところを見つかったのである。研究室主宰者は、「『プラウダ』がついに核酸の重要性を認めたよ」と喜びの涙を流しておられた、誠実で不遇のマルクス主義者だった。傘下の者が「ブルジョア哲学」にうつつを抜かすのを許せなかったのであろう。筆名で書いたものもバレて、そのこともお気に召さなかった。
しかし、私にはやはり理不尽に思えた。「かつて政党に加入したこともない者が政治的な場でもないここでなぜ自己批判か」と返して、押し問答になった。結局、私は「自己批判」を拒否した。(……)
破門は私が現状打開を図る機の熟さないうちに起こった。時あたかも、長男の義務を果たすこと乏しくて私の家は傾き、友の足は遠のき、また「知りしひと皆とつぎし」頃であった。 (中井久夫「Y夫人のこと」1993年初出『家族の深淵』所収)
私は高校二年の時、「隠れた人生が最高の人生である」というデカルトの言葉にたいへん共感した。私を共鳴させたものは何であったろうか。私は権力欲や支配欲を、自分の精神を危険に導く誘惑者だとみなしていた。ある時、友人が私を「無欲な人か途方もない大欲の人だ」と評したことが記憶に残っている。私はひっそりした片隅の生活を求めながら、私の知識欲がそれを破壊するだろうという予感を持っていた。その予感には不吉なものがあった。私は自分の頭が私をひきずる力を感じながら、それに抵抗した。それにはかねての私の自己嫌悪が役立った。 (中井久夫「編集から始めた私」1998年初出『時のしずく』所収 )
……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」2000年初出『徴候・記憶・外傷』所収)
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。
しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (同上、中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
……一般に、語られる外傷性事態は、二次的な体験、再燃、再演であることが多い。学校でのいじめが滑らかに語られる時など、奥にもう一つあると一度は考えてみる必要がある。(……)…………
しかし、再燃、再演かと推定されても、当面はそれをもっぱら問題にしてよい。急いで核心に迫るべきではない。それは治療関係の解消あるいは解離その他の厄介な症状を起こす確率が高い。「流れがつまれば水下より迫れ(下流の障害から除去せよ)」とは下水掃除の常道である。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収)
頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。
小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。
しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)
…………
もし、あのまま私がブラチスラヴァの研究所に赴いていたらーー当時私はひとり身で血も今より熱かったーーひとりの日本人留学生が1968年に彼地で行方不明になったという小記事が昨年あたりどこかの新聞に載ったかも知れない。モンゴル出身者を含め多くの留学生がチェコスロヴァキア学友の側に立って銃をとったからである。(中井久夫『治療文化論』1990年)
古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1997年)
「病者への畏敬」ということは軽々に語るべきことではなく、シュヴァイツァーふうの神々しさにも問題はある。神々しい治療者には患者は俗っぽい悩みーー九割九分はもとを辿れば四大欲望のからむ通俗的苦悩であるーーを語れず、煎じつめれば「あるべきか、あらざるべきか」ということになり、「あるべきである」という必要十分の理由など人生にないーーだから人生は面白いのだがーーから、「あるべき根拠の不足」によって死ぬという不幸になりかねない。しかしなおごく低声で、私はこの畏敬について語りたい。そもそもいったい誰が「殺せ、殺せ」という幻の声を内に聞きつつ、なおひとりも殺さずに、むしろ恐縮して生きているというりっぱな生き方ができるであろうか。私だと一人二人は危ういおそれがある。(中井久夫『治療文化論』1990年)
…………
ーー中井久夫の幼児期記憶のひとつ、「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」(ロラン・バルトの想起記述と中井久夫の幼児型記憶)
◆Schumann - Davidsbündlertänze, Op. 6 - 「Wie Aus Der Ferne 遠くからやってくるように」(Walter Gieseking)
父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。 (中井久夫「私が私になる以前のこと」『時のしずく』2005所収)
……「治療文化論」は時々引用された。なぜか必ず奈良盆地についての三ページであった。(……)あの一節には私をなかだちとして何かが働いているのであろうか。たとえば、私の祖父――丘浅次郎の生物学によって自らをつくり、老子から魯迅までを愛読し、顕微鏡のぞきと書、彫刻、絵画、写真、釣りに日を送り迎えた好事家、自らと村のためにと財を蕩尽した旧村長の、一族にはエゴイストと不評の祖父。あるいその娘の母――いくらか傷害を持ち、末期の一カ月を除いて幸せとはいえぬ生涯を送り、百科事典を愛読してよく六十四歳の生涯を閉じた母の力が……。(『治療文化論』「あとがき」1990)
ーー中井久夫の幼児期記憶のひとつ、「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」(ロラン・バルトの想起記述と中井久夫の幼児型記憶)
◆Schumann - Davidsbündlertänze, Op. 6 - 「Wie Aus Der Ferne 遠くからやってくるように」(Walter Gieseking)
立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『『砂の上の植物群』)