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2017年2月20日月曜日

呼んでもやってこない「理想の女」

漱石の『虞美人草』を今頃はじめて読み通した。彼の朝日新聞デヴュー作(1907年6月 - 10月)であるが、肩に力が入り過ぎていたのか、文体的に凝り過ぎている印象などもあり、かつてのわたくしには読みがたかった(この作品は若書きだと思いこんでいたが、1867年生れの漱石の40歳の作品であることも今頃知った)。以下はその読書による派生物である。

…………

ボードレールの名言として知られる「女と猫は呼ばない時にやって来る」。だが、これはたぶん誰かがそう意訳したのではなかろうか、正確にこの文に相当することをボードレールが言ったのかどうかは(わたくしには)不詳である。

いずれにせよこの文の核心は、女も猫も呼ばないときにやってくるだけではなく、呼んだときにやってこない、ときに拒絶する存在だということだろう。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)

漱石のほとんどの小説ーーおそらく例外はあるだろうがわたくしはその例外を失念したーーこの行ったり来たりする母=女を書いているのではなかろうか? 今は比較的初期の作品から《長い廊下を何度往き何度戻る》那美さんと、《男を弄ぶ》蛇女藤尾さんをめぐる叙述を掲げておく。

一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿のすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側を寂然として歩行て行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。 

花曇りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄干に、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間の中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭寥と見えつ、隠れつする。

女はもとより口も聞かぬ。傍目も触らぬ。椽に引く裾の音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩行いている。腰から下にぱっと色づく、裾模様は何を染め抜いたものか、遠くて解からぬ。ただ無地と模様のつながる中が、おのずから暈されて、夜と昼との境のごとき心地である。女はもとより夜と昼との境をあるいている。 

この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装をして、この不思議な歩行をつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。(夏目漱石『草枕』)
緑りの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩どる中に、楚然として織り出されたる女の顔は、――花下に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。 

余が視線は、蒼白き女の顔の真中にぐさと釘付けにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯を伸せるだけ伸して、高い巌の上に一指も動かさずに立っている。この一刹那!(同『草枕』)
「清姫が蛇になったのは何歳でしょう」「左様、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」「安珍は」「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」(……)

「私は安珍のように逃げやしません」 これを逃げ損ねの受太刀と云う。坊っちゃんは機を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。

「ホホホ私は清姫のように追っ懸けますよ」 男は黙っている。「蛇になるには、少し年が老け過ぎていますかしら」 

時ならぬ春の稲妻は、女を出でて男の胸をするりと透した。色は紫である。(夏目漱石『虞美人草』)
藤尾は男を弄ぶ。一毫も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則を外れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨い潮の満干で、はたりと天地の前に行き逢った時、この変則の愛は成就する。(夏目漱石『虞美人草』)

さて、いささか長い挿入となったがラカンに戻る。

(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(ポール・バーハウ1998,Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

原初のトラウマ的体験ーー《経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況》ーーとは、行ったり来たりする「不気味な」母にかかわり、そしてそれは母なる全能性に変換される。

そしてその〈母〉は、極度に高い価値をもつ存在である。

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我の分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365、一部変更)

呼んでもやってこない「猫」と呼ばないときにやってくる「猫」とは、究極的には、分離不安と融合不安という人間の最も根源的な原不安にかかわる。

最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的 somatic な未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。「原不安」は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では「最初に世話する人」としてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに「分離不安」である。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「融合不安」呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別にである。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的なエラボレーションとさえ言いうる。原不安は二つの対立する形態を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。

ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる大他者 (m)Other に享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。それはフロイトの受動的ポジションと同様である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009PDF

フロイトにとって原初の母子関係における「受動的立場 passive Einstellung」とは原トラウマ的という意味である。

…………

「母の欲望」とは、事実上、「原穴(原トラウマ )の名 le nom du premier trou 」である。あるいはそれを母の法と呼び変えてもよい。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである。(Lacan.S5)


我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

ラカンは《身体は穴である corps……C'est un trou》(ラカン、1974)とも言っている、なぜ身体には穴が開いているのだろうか。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

大文字で書かれる「母の欲望 Désir de la Mère」とは、母子関係の最初期においては、実際の母の欲望とはあまり関係がない。むしろ全能の権力にかかわる。

ラカンによれば、《母の欲望 Désir de la Mère》を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における (子供の)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィ アン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。(ロレンツォ・キエーザ2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

いわゆる"去勢されていないnon‐castrated"全能の貪り食う母、真の母に関して、ミレール=ラカンは次のように注釈している。

満足していない母というだけでなく、またすべての力をもつ母である。そしてラカンの母の形象のおどろおどろしい様相は、彼女はすべての力を持ちかつ同時に不満足であることである。(Miller, “Phallus and Perversion,”)

ジジェクはこのミレールの文を引用して(『LESS THAN NOTHING』)、次ぎのように言っている。

ここには、パラドックスがある。母がよりいっそう"全能"として現れば現れるひど、彼女は不満足(その意味は欠如である)なのである。「ラカンの母はquaerens quem devoretと一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として。」(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)

だが男たちには究極的には、女に貪り喰われたい秘かな隠された願望があったらどうだろう?(参照:最愛の子供を奈落の底に落とす母の癖)。あるいはこう言ってもいい、《あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) 》(ポール・バーハウ1999)に吸い込まれたい願望と。S(Ⱥ)とはサントームの記号、原抑圧の記号である。

我々が、この機能について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」(参照)の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。((ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002ーー基本版:現代ラカン派の考え方)


ラカン派でサントームと言われるもの、あるいはフロイトの原抑圧と呼ばれるものーーラカンはサントーム=原抑圧としている(S23)ーーとは、先ずなによりもこの「原穴(原トラウマ )の名 le nom du premier trou 」、あるいは「母の法 loi de la mère」として理解されなければならない。

サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)


フロイトはこの徴をつける母を「誘惑者 Verführerin」と呼んだ。

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933)
母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版1940、私訳)

この誘惑者による徴のことをラカンは、《享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance 》(S17)と呼び、あるいは次のようにも語った。

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死への徴付けmarqué pour la mort としてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印の戯れ jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、S17、10 Juin 1970)

ここでの死とは何か?

私は言おう、死とは、ラカンが享楽と翻訳したものだ、と。(ミレール1988,Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES
死への道とは、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance (ラカン、S17)

母との(現実的には不可能な)融合があれば、そのとき主体は消滅する。それが死の意味である。

生の欲動 Eros は、融合と統一の状態への回帰を目指す。エロスは、分離した要素を結びつけることによって、これをする。それは、緊張(不安)の増加をもたらす。逆に、タナトスは、分離の状態への回帰を目指す。死の欲動は、結びついた要素のあいだのすべての結合を破壊することによって、これをする。それは、すべての緊張の低減をもたらす。もし、必要なら、ゼロ度まで。その意味は、事実上、死である。

ラカン理論は、この「生と死の問い」の言い直しを可能にさせてくれる。生の欲動は、「他の享楽l'autre jouissance」を目指す。結果として、大他者のなかに主体は消滅する。したがって、分離した存在としての主体の死をもたらす。死の欲動は「ファルス享楽la jouissance phallique」を目指す。それを通して、主体は大他者から己を分離する。したがって、この大他者から独立して、孤立した存在としての歩みを進める。このラカンの読解においては、生と死の概念は、ひどく相関的である。すなわち、フロイトの生の欲動は、主体の死、主体の消滅を意味する。フロイトの死の欲動は、主体の生の継続を意味する。(ポール・バーハウ2001、PAUL VERHAEGHE、Obsessional Neurosis. The Quest for Isolation).

…………

吉本隆明は漱石の理想の女について次のように言っている。

漱石の理想の女性像はだれかとか、作品の中ではどれだと考えてみると、僕らが客観的に考えれば、それは二人います。一人は、最初期の作品ですが、『虞美人草』のお糸さんという娘さんがいます。それが漱石の理想の女性像だと思います。それからやはり初期の作品ですが、もう少しあとの『坊ちゃん』の中に出てくるお清という婆やさんがいますが、これがやはり漱石の理想像だと思います。

この二人とも描かれた作品の中では、たとえ『虞美人草』の中では藤尾がモダンで、美人で、そして教養もありという新時代の女性ですが、この女性は悪いほうの代表というかたちで描かれています。いいほうの代表のお糸さんは、何も言わなくても男の考えている心の中をちゃんと察してくれて、かゆいところに手が届くようにしてくれる、そういう女性で、これは逆に女性のほうから見たら何てわがままなやつだと思うかもしれないように描かれています。でも漱石にとっての理想の女性像はそうなのです。

これは、現存する女流作家の人が、『虞美人草』の中でだれが理想の女性かということに対して、それは藤尾だと言っているのを読んだことがありますから、女の人から見るとそのほうが理想的なのかもしれないけれども、漱石から見るとどうも始末が悪い、どうしようもないという女性になっているわけです。(吉本隆明「作品に見る女性像の変遷」

だが「理想の女」というシニフィアンは、想像界的なもの、象徴界的なもの、現実界的なものの三つの観点から見なければならない。 お糸は想像界的な理想の女ーー内気を装い、欲望を掻き立てる女ーーであり、お清は象徴界的な理想の女ーー子供に食物を与える母であり、子供を見守る母ーーである。漱石は那美や藤尾という現実界的な理想の女ーー行ったり来たりする母であり、弄びはぐらかす(拒絶する)女ーーを初期から書いた。それは遺作『明暗』における清子に至るまで。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。………」
「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後を向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上り口の電灯がぱっと消えた。津田は暗闇の中で開けるらしい障子の音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍の小さな部屋で呼鈴の返しの音がけたたましく鳴った。 

やがて遠い廊下をぱたぱた馳けて来る足音が聴こえた。彼はその足音の主を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室の在所を教えて貰った。(夏目漱石『明暗』)

逆に呼ばないときにやってくる不気味な女も漱石にはふんだんにある。ここでは初期作品『三四郎』の叙述を想い起すだけにしておこう。

例の女が入口から、「ちいと流しましょうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、「いえ、たくさんです」と断った。しかし女は出ていかない。かえってはいって来た。そうして帯を解きだした。三四郎といっしょに湯を使う気とみえる。べつに恥かしい様子も見えない。三四郎はたちまち湯槽を飛び出した。
それから西洋手拭を二筋持ったまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。「失礼ですが、私は癇症でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し蚤よけの工夫をやるから御免なさい」 三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布の余っている端を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。
元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。(漱石『三四郎』

もちろんラカンの想像界・象徴界・現実界は、ボロメオの環が示すとおり、それぞれの環は重なってはいる。だが人は、現実界的なほうに傾いた「理想の女」を忘れがちである。それをすぐれて痛切にーー《手の爪には血》を滲ませてーー書こうとした代表的作家の一人は(日本近代においては)安吾だろう。

ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。

誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。

だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。

誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。

我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。

ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。

だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。

私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。

だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。(坂口安吾『理想の女』)

このように記す安吾は、マゾヒズム的悦楽をよく知っている。とはいえマゾヒズム的悦楽と地獄とどう異なるのか? さあて・・・とはいえ地獄を経験したものでなければ愛は語りえない・・・

この安吾の側面については、「私の好きな女が、みんな母に似てるぢやないか!」にいくらか記した。

今はごく標準的に「常識的な」文ーー「女と猫は呼ばない時にやって来る・呼んだ時にやって来ない」のプルースト版ーーを引用しておくのみにする。

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほうⅡ』)
出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている。(プルースト『逃げ去る女』)

…………

すぐれた批評家であったには相違ない吉本隆明ではあるが、理想の女についてはイマジネールな領域に閉じ籠っている、とわたくしは思う。他方、吉本が言っている、《現存する女流作家の人が、『虞美人草』の中でだれが理想の女性かということに対して、それは藤尾だと言っているのを読んだことがあります》という女流作家の見解を尊重したい。

人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)
ファウスト

もし、美しいお嬢さん。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。
(……)

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。 それからあの手短に撥ね附けた処が、 溜まらなく嬉しいのだ。(ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳)

ーーマルガレエテはのちに「魔女」に化けるのはよく知られている。

 男は誰に恋に陥るのか? 彼を拒絶する女・つれないふりをする女・決してすべてを与えることをしない女に恋に陥る。(ポール・バーハウ、Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe、1998、PDF

これらは穏やかに言えば、女の媚態にかかわるといってもいい。《媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである》(九鬼周造『いきの構造』)。

媚態〔コケットリー〕とは何であろうか? それは相手に性的な関係がありうるとほのめかし、しかもその可能性はけっして確実なものとしてはあらわれないような態度と、おそらくいうことができるであろう。別ないい方をすれば、媚態とは保証されていない性交の約束である。(クンデラ『存在の絶えられない軽さ』)

もっとも『草枕』の那美さんと、『虞美人草』の藤尾さんは、さらに高度に戦略的な媚態の様相を呈した女であるといえるかもしれぬ・・・

自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚びである(ラ・ロシュフーコー)

そしてその高度な戦略を見破ったつもりでいるほどよく聡明な=凡庸な男、修行が足りない若い男には嫌悪を催させることは十分ありうる。わたくしが那美にも藤尾にも抵抗がありつづけたのはそのせいではなかったか・・・

いずれにせよ今それなりに熱心に『虞美人草』を読めば、吉本隆明が理想の女とする糸子の媚態などひどく低レベルの媚態なのである。

「ホホホホそれでも家の兄より好いでしょう」「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退けたが、急に気がついて、羽二重の手巾を膝の上でくちゃくちゃに丸めた。「ホホホホ」

藤尾にあっさら見破られている。 この糸子の態度は、どの娼婦もよく知っている典型的な男性ファンタジー、「女の救出」願望を誘い出す二流の媚態、その変奏にすぎない。若きウブな男性の皆さんはくれぐれも用心しなければならない。この罠に嵌ったら安易に奈落の底に吸い込まれてしまう・・・仮に吸い込まれたい願望があるにしろ、これではいかにも狐に騙されたかのような底の浅い奈落であり、真の奈落の底、あの愛の悪魔的スキル・綱渡りの揺らめきから突如凋落して眩暈をもたらす深淵の底の感覚に徹底的に欠けている。いまどきの高級娼婦ーーたとえば祇園のバーの女、銀座の女は知らないが格の高い店の女ーーはこんな安手の媚びは使わないはずである・・・吉本隆明の修行の足りないのはこの点である・・・「ホホホホ」という気味の悪い笑いを連発する藤尾のほうがいいにきまってんじゃないか、ウブだねえ、彼は。「ホホホホ」による究極のマゾヒズム的悦楽を知らないなんて。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を楽しむことが可能です on peut jouir du manque à jouir。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(コレット・ソレール2013,Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013

とはいえ吉本隆明だけではなく、あのすぐれたマゾヒズム論を書いたドゥルーズでさえ、あと一歩のところで惜しくも核心を逃がしてしまっている、《愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している》などと記しているのだから。だがそうではない、最初の誘惑者による徴付けが愛の起源である。

母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

もちろんここでドゥルーズの概念 「潜在的対象 l'objet virtuel」を持ち出して彼を救う手立てがないではない。だが今はそれに触れないでおく。

そもそもドゥルーズには、 次のようなより簡潔な文がある。

反復は本質的に象徴的なものであり、シンボルやシミュラークルは反復自体の文字 lettre である。la répétition est symbolique dans son essence, le symbole, le simulacre, est la lettre de la répétition même.(ドゥルーズ『差異と反復』)

この「文字」がーーそして母による文字の徴付けがーーわれわれの愛の起源である(参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」)。

晩年のラカンの「文字lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着(原抑圧)」あるいは「刻印」を理解しようとする彼なりの方法である。(バーハウ、2001、摘要)
無意識は「文字」によって翻訳されうる。l'inconscient peut se traduire par une lettre(ラカン、S22)

これが《ひとりの女はサントームである》の核心である。

une femme est un sinthome pour tout homme(Lacan,S23)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)


以上、いささか断定的に記したが、わたくしの記すことは常に《真理と嘘とのあいだには対立はない》でいくらか詳述化したことがベースとなっているので、蛇足ながらふたたび強調するためにここで断っておく。ようするに「このおっさん、なにをバカなこと言ってんだ!」と嘲弄しながら読まなければならぬ。