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2015年10月29日木曜日

音声言語の裏に常に張りついている漢字表象

記銘における兆候性あるいはパラタクシス性は、言語化によって整序されているとはいえ、その底に存在し続けている。それは日本語の会話において音声言語の裏に常に漢字表象が張りついているという高島俊男の指摘に相似的である。想起においても兆候性あるいはパラタクシス性は、影が形に添うごとく付きまとって離れない。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』p.73)
非漢字民族の留学生を観察していると、漢字を一つの流れとして把握するのは十歳後半以降は非常に困難で、一般に図形として記憶されるようである。ちなみに、漢字は図形でなく一字一字が一つの流れである。漢字を思い出すのに指を動かすのは日本人も中国人もする。また活字に習熟し崩し字に苦しむわれわれには信じにくいことかもしれないが、江戸の庶民は草書は読み書きができたが、楷書は読めても書けない人、読めもしない人がむしろ普通であったと聞く。そもそも中国においても草書のほうが早くかつ広く普及したという。(中井久夫「記憶について」『アリアドネからの糸』p.120)

《かなと漢字の分担に関して、常識的には、かな(訓読み)こそが漢字(音読み)を注釈していると見なしたくなる。(……)だが、ラカンは、まったく逆に、漢字が、かなを注釈することにおいて、無意識を触知可能なものとして浮上させていると暗示したのであった。今や、ラカンのこの暗示に、日本語の書字体系に対する深く、正確な洞察が含まれていたことが明らかになる。述べてきたように、日本語にあっては、漢字は、かなから区別されることで、外来性を明示し続ける。発話に必然的に随伴するあの「残余」は、つまり無意識は、この漢字の外来性に感応し、そこに表現の場を見出すのである。》(大澤真幸『思想のケミストリー』)

たとえば、平安時代に、各地の人々が京都の宮廷で話されている言葉で書かれた「源氏物語」を読んで、なぜ理解できたのか。それは彼らが京都の言葉を知っていたからではありません。今だって各地の人がもろに方言で話すと通じないことがあるのに、平安時代に通じたはずがない。「源氏物語」のような和文がどこでも通じたのは、それが話されていたからではなくて、漢文の翻訳として形成された和文だったからです。紫式部という女性は司馬遷の『史記』を愛読していたような人で、漢文を熟知している。にもかかわらず、漢語を意図的にカッコに入れて『源氏物語』を書いたわけですね。(……)

私はつぎのように書きました。《ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導き出した理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよい。精神分析は無意識を意識化することにあるが、それは音声言語化にほかならない。それは無意識における「象形文字」を解読することである。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識においてもあらわれる。そこでは、「無意識からパロールへの距離が触知可能である」。したがって、日本人には「抑圧」がないということになる。なぜなら、彼らは無意識(象形文字)をつねに露出させているーー真実を語っているーーからである》。したがって日本人には抑圧がないということになる。なぜなら彼らは意識において象形文字を常に露出させているからだ。したがって、日本人はつねに真実を語っている、ということになります。(柄谷行人『日本精神分析再考(講演)』(2008)より

ーーこの柄谷行人の見解には異論があるのは知っている。だが文脈上の参照のために掲げている。

…………

「あたしを嫌いなくせに。あたしだって好きじゃない」

その言葉が、奇妙に僕の欲情を唆った。僕は娘の顔を眺めた。うっすらと荒廃の翳が、その顔に刷かれていた。僕は娘の躯を眺めた。紡錘形の、水棲動物めいた躯が衣裳のうえから感じられた。(吉行淳之介『焔の中』1956年)

《「翳」という文字がある。たとえば、日の光を受けた街路樹が、地に落すかげ、重なり合った木の葉のかげが、地面でチラチラ動く、そういうかげのときは、「翳」を使わないとおさまらない。心の具合が顔や軀の上に惨み出てユラユラ動いている場合も、「翳」である。》(吉行淳之介)

日本の作家の場合、このように漢字を「象形文字」として使う場合がある。吉行は初期には上のように「躯」と記したが、後に「軀」への偏愛を後に示したことは比較的よく知られている。 

吉行淳之介はかつて三島由紀夫の文体を《漢字の美的感覚に寄りかかり過ぎている》と批判している。だが後年《あの発言は自分の嫉妬からだった》と洩らすことになる。

清顯は聰子の裾をひらき、友禪の長襦袢の裾は、紗綾形と亀甲の雲の上をとびめぐる鳳凰の、五色の尾の亂れを左右へはねのけて、幾重に包まれた聰子の腿を遠く窺はせた。しかし清顯は、まだ、まだ遠いと感じてゐた。まだかきわけて行かねばならぬ幾重の雲があつた。あとからあとから押し寄せるこの煩雑さを、奥深い遠いところで、狡猾に支へてゐる核心があつて、それがじつと息を凝らしてゐるのが感じられる。

やうやく、白い曙の一線のやうに見えそめた聰子の腿に、清顯の體が近づいたときに、聰子の手が、やさしく下りてきてそれを支へた。この恵みが仇になつて、彼は曙の一線にさへ、觸れるか觸れぬかに終つてしまつた。 
和尚の男根は巨松の根のやうにわだかまり、和尚の顔は恐悦の茶いろの舌を出してゐる。若後家の、胡粉で白く塗られた足の指は、傳來の畫法によつて、悉く内側へ深く撓められてゐる。からめた白い腿から顫動が走つて、足指のところで堰かれて、曲られた指の緊張が、無限に流れ去らうとする恍惚を遁がすまいと力んでゐるように見える。
……目の底には、繪巻の女の一途な足指の撓みが殘つてゐる。その卑猥な白さの胡粉の色が殘つてゐる。

それから起つたことは、あの梅雨のものうい熱氣と、伯爵の嫌惡からとしか言ひやうがない。(三島由紀夫「春の雪」) 
 

以下の吉行淳之介の文はーー三島由紀夫の文とは異なって現代の若い人たちでもそれほど違和なく通用するだろうがーー、「軀」だけでなく、数多くの「象形文字」の散乱による眩暈を覚えないではない、と言っておこう。


■『砂の上の植物群』(1964)より

旅館の玄関に立って、案内を乞うと、遠くで返事だけがあってなかなか人影が現れてこなかった。少女と並んで三和土に立って待っている時間に、彼は少女の軀に詰まっている細胞の若さを強く感じた。そして、自分の細胞との落差を痛切に感じた。少女の頸筋の艶のある青白さを見ると、自分の頸の皮が酒焼けで赤黒くあんっており、皮がだぶついているような気持になった。

待っている時間は、甚だしく長く感じられた。ふたたび、何かが軀の中で爆ぜ、兇暴な、危険な漿液が軀に満ちてくるのを感じた。
京子に加える荒々しい力は、そのまま彼女の中に吸い込まれ、やがてその軀は皮膚の内側から輝きはじめる。
そのときA女の軀が燃え上がった。重ね合わさった二人の女の軀のすべての細胞が白い焔を発して燃え、やがてB女の軀は蛍光色に透きとおってA女の軀に溶接された。男の眼の前には、B女の背のひろがりがあり、不意に彼の鼻腔にある匂いが流れ込んできた。それはB女の肩のあたりから立上がってくるのか、あるいはその下に在るA女の胸から発するものか判別ができなかったが、太陽の光を十分に吸い込んだ牧草の匂いである。娼婦たちの軀が熱したときに漂ってくる、多くの男たちの体液の混じり合った饐えたにおい、それに消毒液の漂白されたようなにおいの絡まり合った臭気とは全く違ったものだった。
制服の布地には、授業中の教室の鎮まり返ったにおいが滲み込んでいる。その布地は少女のにおいを吸い込んで、明子の胸をひっそり包み隠しているようにみえる。(……)

明子の眼に映る札束は、金銭としてのものではない。明子に純潔を説いてやまぬ姉の京子の軀の裂目から露出した臓物のようなものとして、明子の眼には映っている筈だ。
その瞬間から、明子が溶けはじめた。

赤い唇を中心にして、波紋が拡がってゆくように明子の硬い顔を溶けてゆき、ついには唇が軽く外側にめくれ上がった。そのめくれ上がった唇を中心に、ふたたび硬直がはじまるか、と彼は見詰めたが、そのことは起らなかった。

全身の筋肉がほどけ、明子はやわらかく溶けて横たわっていた。はじめて、真赤な唇と紺色の制服との対照が、彼の予期していたものになった。明子の軀は、溶けて、淫らにセーラー服から食出していた。さまざまの刺激が、長い時間かかって明子の細胞の内側に届き、いま一斉にその細胞が伊木に向かって花開いたようにみえた。

今まで見たことのない明子の顔が、彼の足もとに在った。しかし、見覚えのない顔ではない。そのことが、彼には不思議に思えたが、間もなく理由が分かった。それは、京子の恍惚とした顔に、酷似していたのだ。
長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくこととがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。