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2017年4月20日木曜日

資本の言説と〈私〉支配の言説

ラカンにはデモクラシーならぬ« je-cratie » という表現がある。これは「〈私〉支配」ということだが、「ボククラシー」とでも意訳できる(ボクラシイとすれば、ここで記したいことによりいっそう合致する)。

デモクラシーが大衆による支配という意味であるように、ボククラシーとはボクによる支配のことである。

Il en est tout autre chose de ce qui se trouve à l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité qui s'affirme de son égalité à soi-même, de cette « je-cratie » dont je parlais une fois, et qui est, semble-t-il, l'essence de toute affirmation dans la culture qui a vu fleurir entre toutes ce discours du Maître. (Lacan, S17, 11 Février 1970 )

ーーラカンは《真理のなかでの主体と主人の出現の地平 l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité》において、 《それ自体、等価 égalité à soi-même》となることを、《〈私〉支配 je-cratie》と呼んでいることになる。

sujet-Maîtreとあるように、「分割された$」と「主人のシニフィアンS1」の合体を示唆している。

わたくしはこのラカンの叙述をあえて「誤読」して、資本の言説の図式ーー上の言明があった時点においては、ラカンはいまだ「資本の言説」概念を提示していないーーとともに読んでみた。すなわち真理のポジションにおかれたS1(Maître)と$sujet)との合体として。

その試みのひとつは、「フロイトの「資本」論と「快の獲得」」にて示した。

それは同じセミネール17の次の文に依拠しつつである。

主人の言説は主体の支配とともに始まる。主人の言説が、超限定された神話・それ自身のシニフィアンに同一化すること [ $ ≡ S1 ] によってのみ支えられる傾向がある限りで。(S17、18 Février 1970)

 $ ≡ S1 は、主人の言説においても資本の言説においても合体してしまえば、相同的な図式となる。







【註】
ラカンは別に《〈私〉支配 Je-cratie》を、大学人の言説もしくは哲学者の言説を批判する文脈のなかで、《理想の〈私〉の神話…支配する〈私〉…言表行為者が自己と同一化する〈私〉le mythe du Je idéal… - du Je qui maîtrise, - du « Je » par où au moins quelque chose est identique à soi-même, à savoir l'énonciateur》(S17)と語っているが、これは何も大学人の言説に限らない。むしろ「主人S1の言説」を隠された真理 vérité cachée のポジションにもつ「大学人S2の言説」における症状を指摘しているのであり、核心は主人の言説における S1 と$ の妄想的一致傾向である。セミネール20では、これに対抗するために《横にずれる存在 être à côté》あるいは、《寄生存在 par-être → paraître》等と言っている。横にずれるとは、フロイトやボードレールのユーモアの定義に近似したものであり、これは次の聖人をめぐる話とともに読むことができる、《聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本の言説 discours capitaliste からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない》(テレビジョン、1974)

ところでS1とはなんだったか?(最晩年のラカンのS1の定義、ーーミレールによる「ひとつきりのシニフィアンsignifiant tout seul 」=《身体の出来事 un événement de corps》(ラカン、1975)ーー、つまり人間の自閉症的核(享楽の原子)にかかわる定義はここでは外す)。

S1、……この主人のシニフィアンは、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ポール・バーハウ、1998)

ーーここにもあるように、S1(主人のシニフィアン)とは、シニフィアン〈私〉が最も典型的なものである。



S1(主人のシニフィアン) が「他の諸シニフィアンS2 autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何か quelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

人はこの分割された主体であることに常に意識的でなくてはならない、とは言うまい。だがどうして時に気づかずにいられよう。柄谷行人の名高い「この私」の議論もそれをめぐっている。

私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、いつもそこに「この私」が抜けていると感じてきた。哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。それを主観といっても実存といっても人間存在といっても同じことだ。それは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜けおちている。私が哲学になじめなかった、またはいつも異和を感じてきた理由はそこにあった。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

ラカンは「私」をめぐって、とても愉快なことを言っている。

「私は思う Je pense」に「私は嘘をついている Je mens」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている Je pense que je pense」という意味。

これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」 、 「彼女は私を愛していると私は思う Je pense qu'elle m'aimeと言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。 (ラカン、セミネールⅨ「同一化」ーー僕と私と俺

ラカン派では、「言表内容の主体 sujet de l'énoncé」 と「言表行為の主体 sujet de l'enonciation」 が一致している思い込んでいる人々の言説を「妄想的(パラノイア的)信念の言説」と呼ぶことがあるが、この言表行為の主体と言表内容の主体の区別は「知識人」のあいだでさえ曖昧化されつつある(SNSの影響大だろう)。それは書物における文体にまで顕著に影響を与えている。

もちろん時代がすでにそうなってしまっているのだから、この一致に居直る仕草もあるだろう。

そのようなことに気遣って文章を書いている作家は、もはや旧世代の僅かな生き残りでしかなく無視すべきだという立場をとることさえできる。

たとえば古井由吉。

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(……)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス』)

あるいは古井由吉よりも一年はやく生まれている蓮實重彦。

「私」という語彙のごく日常的な言語操作に難儀する者はまずいないだろうが、だからといって、人称代名詞としての「私」がそのつど確かな指示対象を持っているかといえば、これは大いに疑わしい。それは「私」にかぎられたことではなく、「転位語」と呼ばれている「あなた」だの「ここ」だの「昨日」だのに見られる一般的な特徴にほかならず、その指示対象を確保するには、「私」を主語とする言説の主体が聞き手に現前していなければならない。すなわち、自分を「私」と呼ぶ何者かの存在は、そう口にする瞬間、その声と同様に視覚的にも認識されるという空間的な状況が成立した場合、そのときのみ、初めてその指示対象は明らかになる。だが、それに対して、聞き手もまた自分を「私」と名指しつつ応えることになるのだから、「私」が、「空」だの「花」だの「草」だののように固有の指示対象を持っていないことは明らかである。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

さらにはまた、デリダの《いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立会いから分離されたエクリチュールーーーこうしたエクリチュールによる本質的な漂流……》(『署名、出来事、コンテクスト』)ーーこんなことを気にしている「思想家」は今ではデリダ派にも稀有なのかもしれない。

言表行為の主体と言表内容の主体の区別に意識的であるとは、 私が話すとき、“私自身”が直接話しているわけでは決してないことを常にーーいや「ふと」でもよいーー念頭におくことである。

私は、私という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理』
私は己れの象徴的アイデンティティーの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭い”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、2012ーーソクラテスのイロニーとプロソポピーア

他方、ボククラシ―(〈私〉支配)とは、「私は私の主人である」という錯覚のまま生きることである。究極的には象徴的去勢の排除、あるいは象徴的去勢の否認のもとに生きることである。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (Lacan,S17)

すなわち、言語によって去勢されていることを忘れて生きることが、ボククラシーの姿である。

人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)

こうしてボククラシ―とは、精神病者(排除)でなければ、フェティシスト(否認)であることになる。

〈自己〉とは主体性の実体的核心のフェティッシュ化された錯覚である。そこには実際は何もない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ところでラカンは、ボククラシーに相当する症状をもった人間を、S1に「支配されたマヌケcon-vaincu」とも呼んでいる。

私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたマヌケ con-vaincu のことである。

je suis m'être, je progresse dans la m'êtrise, le développement c'est quand on devient de plus en plus m'être, je suis m'être de moi comme de l'Univers. Ouais, c'est bien là ce dont je parlais tout à l'heure : de con-vaincu.(Lacan, S20, 13 Février 1973)

これは前期ラカンも同様なことを言っている、《自分を王だと思う人間が狂人 con だとすれば、自己を自己だと思う人物も狂人con 以外の何ものでもない〉(S2、摘要)

つまりは、フロイトがみずからコペルニクス的発見と呼んだ次の言葉に我カンセズの人間を「狂人」と呼んでいることになる。

私は自分の家の主人ではない dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus(フロイト『精神分析入門』)

くり返せば、「私」=S1 という主人シニフィアンに妄想的信念をもつことは、「私は私自身の主人だ」という立場をとることである。

ラカンの《自己という小さな主人 petit Maître, comme « moi »》や《主人の小さな市場 le petit marché du Maître 》(S17)という表現も、マヌケ(私支配)のヴァリエーションである。

こういった思考は、なにも精神分析の領野だけの話ではない。たとえばヘルダーリンの指摘。

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」

あるいはニーチェの指摘。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

このような洞察を失念しているか、無知あるいは不感症かの存在を、《〈私〉支配 je-cratie》のマヌケと呼ぶ。

ここで二人の詩人の名高い言明をかかげておこう。

《「私」とは他者である ''JE est un autre''》 ( ランボー)

《私は他者である ''Je suis l'autre''》 (ネルヴァル)

この極めてシンプルに言明されている「私は他者である」ーーこれがなによりも言語という道具を使わずには生きていけない我々の生の核心である。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳)

このヴァレリーの他者もまずなによりも「言語」である(訳者の恒川氏は指摘しているように)。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

ところで、ラカンは主人の言説から資本の言説への移行を、1972年に語った。いくらかの詳細は、「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」に記したが、ここではポイントを絞って記すことにする。

とはいえ、次のラカン自身の言葉は再掲しておこう。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)


資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

上の図にある「主人の言説から資本の言説への移行」とは、「〈私〉支配 je-cratie 」、「S1に支配されたマヌケcon-vaincu」、「主体 sujet=主人 Maître」になることと捉えうる。資本の言説の特徴を「去勢の排除」としていることがそれを示している。

ここで資本の言説をめぐる直近の論文(Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016, pdf)から抜き出してみることにする。まずこの移行には、上の図に明らかになっているように、三つの「突然変異」と呼ばれるものがある。

① $ とS1 は場所替えをしたこと。

② 左側の上方に向かう矢印ーー古典的言説では到達不能の「真理 vérité」を示す--が、下方に向けた矢印に変更されたこと。

③「動作主agent」と「他者autre」との間にあった上部の水平的矢印が消滅したこと。

これは上に掲げた図の 「$ とS1の場所替え」以外に、(言説のベースにある形式的構造の)次の図の左から右への移行を叙述している。




以下、同様にStijn Vanheule 2016から私訳引用する。

三つの変更の影響は、四つの言説に固有な数多くの障害物が、五番目の言説の特徴ではなくなった。われわれは資本の言説内部で、レースのゴーカートのように、循環しうる。事実、資本の言説において、非関係 non-rapport は回避される。

Samo Tomšič は、これを次のように叙述している。

《矢印が示しているのは、資本の言説は全体化の不可能性 (動作主と他者との間の impossible)の「排除」を基盤としていることである。他の諸言説(四つの言説)は、全体化の不可能性に特徴づけられており、それは次の事実に決定づけられている。すなわち、シニフィアンは差異の開かれたシステムを構成するという事実に。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2015)

とりわけ、標準的な四つの言説において、「真理」のポジションは、矢印によって標的になっていない。そして「動作主」と「他者」のポジションは、二つの(相互的に関係性しない)他のポジションによって影響を受けている。それが、言説の機能を構造的に逸脱させる。

実際に、資本の言説の構造的特徴は、四つのポジションは元のままでありながら、矢印によって作り上げられる進路は変わっている。すべてのポジションに一つの矢印が到達する。従って、矢印の閉じられた円環が形成される。四つの言説を特徴づけていた構造的逸脱は、見出されない。言わば車輪のように廻る(無限∞の形になっている:引用者)。……

…資本の言説において、主体性は腐蝕させられる。これについての主要な構造的理由は、$ と a との間の距離が喪われていることである。すなわち、剰余享楽に固有の、身体上の緊張が主体を混乱させる。(Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016, pdf


さらに注目すべきは次の叙述である。



(資本の言説における)$ から S1 への動きは、主体の分割の構造的質の否認をもたらす。資本の言説は主体の分割から出発する。しかし、S1 に向かう動きが暗示するのは、主体の分割は、主人のシニフィアンへの疎外(同一化)を通して克服されうるということである。

これは倒錯的運動を物語っている。《倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する que le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, 》(ラカン、S18)

資本の言説においては、S1 は主体の穴を補填するように促されている。

どちらの場合も、主体の穴は埋め合わせ可能だと信じられている。この理由で資本の言説はしばしば一般化された倒錯の用語で叙述される(Mura, 2015)

《主体の分割$は、主人のシニフィアンS1への疎外(同一化)を通して克服されうる》とある。これはまさに主体と主人のシニフィアンの合体のことを言っている。

このStijn Vanheule=Andrea Muraの指摘は、上に引用したラカンの《主体ー主人が真理のなかで、sujet-Maître dans une vérité》《それ自体、等価 égalité à soi-même》(S17)、という文とともに読むことができる。これが資本の言説の特徴のひとつである。

すなわち、真理のなかで主体 sujet=主人 Maître となることは、

・自己という小さな主人 petit Maître, comme « moi »(S17)
・主人の小さな市場 le petit marché du Maître (S17)
・ 〈私〉支配 «je-cratie » (S17)
・S1に支配されたマヌケcon-vaincu(S20)

であり、ボククラシーの言説が、資本の言説の際立った特徴ということになる。

何度か記しているが、資本の言説という用語に惑わされてはならない。この意味はまずは、後期資本主義の生産様式の時代、あるいは消費至上主義の時代に育った(多大な影響を受けた)人々の言説(社会的つながりの仕方)ということである。もちろん1980年代には、おそらく大量消費社会にかかわっただろう、「新人類」という言葉が流通していたのだから、わたくしも免れている筈はまったくない。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり)の機能を作り上げるものである。

Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social(ラカン、 Milan, le 12 mai 1972)

こうして資本の言説の図式は、実は次のように変奏して記せるのではないか(この図は、わたくしの知る限り、誰もそう図示していないが)。





この図は、マルクスのM-C-M' (資本ー商品ー資本+資本)と等価である(参照:フロイトの「資本」論と「快の獲得」)。

これがボククラシーの言説であり、わたくしがかねてから「ボク珍の言説」と呼んでいるものと等しい・・・別名、夜郎自大の言説とも呼ばれる。現在、この言説がいっそう猖獗しているのは明らかである。

ところで、いま示した資本の言説の変形版は、藤田博史氏による想像的ディスクール(日本的幻想)の図と類似した構造をもっている。


セミネール断章 2013年 5月11日講義より


ラカンはセミネール18で、われわれの現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」であるといっている(前期ラカンの見せかけの定義に反して)。そもそも「シニフィアンはすべて見せかけである」(ミレール)。とすれば、 S2≒As(Autre semblant)である。こうすれば藤田マテーム φーAsー-φとは、次のように記せる。



これはイマジネールなボク φ が、見せかけAsを介して、イマジネールなオチンチン-φとお話しするという図式であり、まさに倒錯の言説(資本の言説の変形版)と相同的である(イマジネールな他者(オチンチン)とは、ようするに「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちのことである)。

この図は藤田氏が次の図式の中段にて示していることと、ほぼ等価のはずである。




…………

何も一人称単数代名詞を使用していけないわけではない。だがそれは象徴的なシニフィアンに過ぎず、〈この私〉とはけっして一致しないことを常に心得ておくこと。それが、《〈私〉支配 je-cratie》の言説から《横にずれる存在 être à côté》(S20)へと逃れる最初の手蔓であるだろう。

・ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。

・人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」はパラノイアを発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』ーー「ロラン・バルトのなかのフロイト・ラカン」)

だがこんな考え方はもはや通用しない世界になってしまっているように思える。現代では次のような図式の形態にてマガオで振る舞う人物が、日本の代表的「思想家」らしいから。




本書でぼくが言おうとしているのは、観光客とは小さな人類学者であるべきだという提言として要約できるのかもしれない。(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』)

東浩紀氏の「小さな人類学者」とは、おそらくラカンの次の表現のほうがもっとふさわしいのではなかろうか?

・自己という小さな主人 petit Maître, comme « moi »(S17)
・主人の小さな市場 le petit marché du Maître (S17)
・ 〈私〉支配 «je-cratie » (S17)

さらに言えば、次の道のりをしっかりと歩んでいるとも憶測される。

・S1に支配されたマヌケcon-vaincu(S20)
・S1を自己だと思う狂人con (S2)

浅田彰は、かつて《他人の評価に飢え取り巻きを作り褒められ安心したい僕を見て褒めてのヒステリー君》と要約される東浩紀への評言を吐いたが、まだ単なる「ヒステリー君」であるなら「すくい」があったのではなかろうか・・・なにはともあれ、藤田スキーマにおける想像的オチンチンのレスポンスが彼の原動因に近似したものになっているように(すくなくともツイッター上の振舞いをうかがう限りは)感じざるをえない。すなわち時代の典型的症状の体現者である(だが批評とは、何よりもまず時代の症状を批判し、その症状という釈迦の掌の上に乗っている猿ーー誰もが免れがたい猿としての〈私〉ーーを自己吟味することではなかったか)。

浅田彰)  …僕はレスポンスを求めないために書くという言い方をしたいと思います。 東浩紀さんや彼の世代は、そうは言ったって、批評というものが自分のエリアを狭めていくようでは仕方がないので、より広い人たちからのレスポンスを受けられるように書かなければいけないと主張する。… しかし、僕はそんなレスポンスなんてものは下らないと思う。

蓮實重彦) 下らない。それは批評の死を意味します。

――中央公論 2010年1 月号、「対談 「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦+浅田彰)

他方ここで、人類学者のレヴィ=ストロースの文を想い起しておこう。

私は旅や探検が嫌いだ。それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている。だが、そう心に決めるまでにどれだけ時間がかかったことか!(……)

研究の目的に到達するために、これほどの努力とむだな消耗が必要だということは、私たちの仕事のむしろ短所とみなすべきで、なんらとりたてて賞賛すべきことではない。私たちがあれほど遠くまでさがし求めにいく真理は、このような挟雑物を取り去ったのちに、初めて価値をもつのである。(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』川田順造訳)

レヴィ=ストロースの言っていることを、ラカンの四つの言説の構造に当てはまれば次のようになる。



…………

ところで、資本の言説が倒錯の言説(社会的つながり)だとして、どうして倒錯で悪いのか、と素朴に問うこともできるだろう。たとえばドゥルーズは「倒錯」を顕揚したではないか、と。

それについては、「倒錯者の言説(マゾヒストの言説)」にいくらか記した。ここでは「個人の症状」としての倒錯のポイントとなる二つの文だけ再掲しよう。

臨床的叙述が何度もくり返して示しているのは、倒錯的シナリオは権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。この権力は純粋に身体的次元には限定されない。さらに先に進んで、倒錯者はとてもしばしば、快楽の新しい倫理の唱導者となる。したがって彼は、自らの権力の掌中となる取り巻き連中を創造する。(ポール・バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II)
ほとんどの事例で、男性の倒錯者は、彼が事態を支配しなければならないとしてさえ、大他者の全的享楽の対象として自らを表す。女性の倒錯者は母のポジションから出発する。その意味は、彼女は自身の欠如を埋め合わせる対象として他者を定義づけるということである。(……)

要約しよう。母は自分の子供を想像的ファルスの位置に保ったままにする。父は受動的観察者の位置に還元される。母の想像的ファルスの位置に同一化した息子は、大他者の位置にある他者に対して同じ過程を能動的に反復する。娘は彼女自身の子供に焦点を当てる傾向がある。こうして原初の過程を反復する。(同 Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF