2016年11月24日木曜日

ロラン・バルトのなかのフロイト・ラカン

「ロラン・バルトのなかのフロイト・ラカン」とはあまりにも当たり前かもしれない。バルトは両者の熱心な読者だったのだから。

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dérive と命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20)
享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』)

『彼自身によるロラン・バルト』に最初に書かれている文は(表表紙の裏)、《ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである》である。

『声の肌理』には《私は、私という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる》とある。

こういった言明と類似した表現は数限りなくバルトのなかにある。

……たとえば、カフカは、《自分の不安を根絶する》ために、いいかえれば、《救いを得る》ために日記をつけた。私にはこの動機は自然とは思えない。少なくとも終始不変とは思えない。伝統的に「私的日記」に与える目的についても同様である。もはやそれが適切とは思えない。それは《誠実さ》(自分を語る、自分をさらけ出す、自分を裁く)の効用や威光と結びつけられてきた。しかし、精神分析、サルトルの底意批判、マルクス主義のイデオロギー批判が告白を空しいものとしてしまった。誠実さは第二度の想像物〔イマジネール〕でしかない。そうだ。(作品としての)「私的日記」を正当化する理由は、純粋な意味で、懐古的でさえある意味で、文学的でしかあり得ないだろう。 (ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収)

ーーサルトル、マルクスと並んで「精神分析」とある。ここで言われている精神分析とは、まずはフロイトの《自我は自分自身の家の主人ではない》の類がその代表的な依拠だろう。

ほかにもフロイトから「転移」をめぐる叙述をふたつほど抜き出してみよう。

……このように私は転移に驚かされ、私が彼女にK氏を思い起させることになったある未知の事情(X)のために彼女がK氏に復讐したのと同じように私に復讐し、K氏にあざむかれて捨てられたと思ったのと同じように私を捨てたのである。ドラは彼の記憶や空想のもっとも本質的な部分を治療のなかで再現するかわりに実際に演じたのである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』1905年)
要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agieren のである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復 wiederholen しているのである。

たとえば、被分析者は「私は両親の権威にたいして反抗的であり、不信を抱いていたことを思い出しました」とはいわないで、(その代わりに)分析医にたいしてそのような反抗的、不信的な態度をとってみせるのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』1914)

実際ーーツイッターを例にだせばーー、誰かが誰かを批判・嘲笑・罵倒しているツイートを眺めるとき、このような転移現象を疑いたくなるときがままある。

バルトの「省察」の記述に戻って「より標準的」にいえば、「私」は日記をつけるとき・何かを話すとき・ツイートをするとき、いくら誠実に振る舞っても、何か別のものに駆り立てられている。「私」は単なるその何かの代理人にすぎない。

これは誰にも否定しがたい事実であるはずだ。もちろん人はそんなことを忘れていることはできるし、「あなたのツイート」を他人がそんな風に読んでいる可能性を微塵も感じていない人もいるだろうが。

だが精神科医の中井久夫なら次の通り。

精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』)
…精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」)

もちろん精神科医だけの習慣ではない。

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。(『彼自身によるロラン・バルト』)

よく知られているようにロラン・バルトはフロイト・ラカン以上にプルースト読みである。

…なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは(……)、なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。(プルースト「見出されたとき」)

バルトはかのラ・ロシュフーコーの箴言でさえそのように読んでしまう。

ラ・ロシュフーコーは二つのやり方で読むことができる。引用するか、または続けて。第一の場合、わたしはときどき本を開いて、ある思想を取り出し、その妥当性を味わい、それを自分のものとし、この無名の形式をわたしの状況または気質から出た声そのものとする。(……)

第二の場合、わたしは格言を、物語かエッセーのように一歩一歩読んでいく。だが、その結果、この本はわたしとはほとんど関係がなくなる。ラ・ロシュフーコーの格言はあくまで同じことを言っているので、格言がわれわれに伝えるのは作者のことであり、彼の強迫観念であ(る)。(ロラン・バルト「ラ・ロシュフーコーの『格言集』」『新=批評的エッセー』所収)

さてかなり寄り道してしまったが、少し前に戻ってーーつまりフロイト文脈に還ればーー、「私」は単なるその何か(底にある真理、あるいは無意識)の代理人にすぎないという事実は、人のナルシシズムをひどく傷つける。だからフロイトはこれを人間における第三番目のナルシシズムの屈辱と呼んだ(コペルニクスが人間を宇宙の中心から追い出し、ダーヴィンが人間を生物界の特権的位置から追い出したのに引き続く第三の屈辱として)。

したがって、ナルシシストがかつてにもまして跳梁跋扈する現在では、フロイト・ラカンなど知りたくないという人が多くなっているはずだ。

ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics,2004,私訳)

フロイトは、上に記した第三番目のコペルニクス的転回を言い放つ文脈のなかで、冒頭近くに記した《私は自分の家の主人ではない dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus》と言っている(『精神分析入門』)。

このフロイトの言葉のラカン版が「シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant」である。

そしてこのラカンの言葉の最も基本的な図式は、「四つの言説」理論のベースとなる次の「形式的構造」図である。



ここでは最も基本的な注釈のみを掲げる。


話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )

さてこの注釈を前提として、以下のバルトの文を読んでみよう。「語る人」とは上の図の agent、「他者」とは autre、「剰余」とあるのは production のことである、と読める。

精神分析的記述(ラカンの記述である。語る人なら誰でも、ここで、その洞察の鋭さを確かめ得るだろう)に従えば、教師が聴講者にしゃべる時、「他者」はつねに存在し、彼の言述に穴をあける。そして、たとえ彼の言述が無謬の知性で完結し、科学的《厳密さ》や政治的急進性で武装していても、やはり穴はあけられるだろう。私がしゃべりさえすれば、私のパロールが流れさえすれば、私のパロールは外に流出するのである。もちろん、すべての教師が精神分析の被験者の立場にあるとはいっても、受講する学生が逆の状況を利用できるわけではない。なぜなら、まず第一に、精神分析的な沈黙には、何ら優越する点がないからである。第二に、時折、被験者が殻を破り、こらえることができず、パロールに身を焼き、弁論の淫らなパーティーに加わるからである(たとえ被験者が頑固に押し黙っているとしても、彼はまさに自分の沈黙の頑固さを語っているのだ)。

しかし、教師にとって、受講する学生は、やはり、模範的な「他者」である。なぜなら、彼らはしゃべらないふりをしているからであるーーしたがって、また、その無言の外見の中から、それだけに一層強く、あなたの中で語るからである。彼らの表に出ないパロールは私自身のパロールなのであるが、彼らの言述が私の中を満たさないだけに一層、私に打撃を与えるのである。

これが公的なパロールというものの背負う十字架である。教師がしゃべるにせよ、聴き手がしゃべるように要求するにせよ、いずれの場合も、まっすぐ(精神分析用の)長椅子に向かうのだ、教育の関係はその関係によって促される転移以上のものではない。《学問》、《方法》、《知識》、《観念》が群をなしてやってくる。それらは余分にあたえられるものであり、剰余である。(ロラン・バルト『作家、知識人、教師』1971,Tel Quel)

このようにして読むと、この文のなかには明らかにラカンの「四つの言説」理論がある。

ほかにも「穴が開く」とあるが、これは「語る人」、あるいはその発話内容に穴が開くということである。

・無意識は常に、主体の裂け目のなかに揺らめくものとして顕れる。l'inconscient se manifeste toujours comme ce qui vacille dans une coupure du sujet,ラカン、S.11)

・現実界は見せかけのなかに穴を開けるものである。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S.18)
精神分析とは、見せかけ semblant を揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。la psychanalyse fai les semblants , le Witz fait vaciller les semblants(ジャック=アラン・ミレール,1996
悟り(「禅」における出来事)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺らめかせるもの qui fait vaciller la connaissance, le sujet である。つまり、悟りはパロールの空虚 un vide de parole を生じさせてゆく。そして、パロールの空虚こそがエクリチュール écriture をかたちづくる c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture。(ロラン・バルト『記号の国』)

「見せかけ semblant」とは、四つの言説の形式的構造における文脈では、代理人 agent、もしくはその発話内容のことと捉えられる。

ーーさて、「この私」がこのようにブログ記事を記した今、その隠された動因(真理)はなんだろう。ときにはそうやって自分の文章を読みかえす習慣をもたなくてはならないはずである・・・

他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)