このブログを検索

2016年11月23日水曜日

欲望は大他者の欲望ではない le désir n’est pas désir de l’Autre

またなんかいってくるヤツがいるが(基本版:現代ラカン派の考え方)、なんの矛盾もないよ。

欲望とは、常に-既に「欲望の欲望/欲望への欲望」である。すなわち「大他者の欲望」のすべてのヴァリエーションは次の通り。

①私は私の他者が欲望するものを欲望する。
②私は私の他者によって欲望されたい。
③私の欲望は、大他者ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
④私の欲望は、リアルな他の物 autre chose の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)

ーー他のモノ autre choseは 対象a の初期ヴァージョン(フィンク、1995)

核心は④だが、①②③もあるってだけだ。

・欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。
・「欲望は大他者の欲望 Le désir est désir de l'Autre」が意味したのは、欲求との相違において、欲望は、言語作用の効果 un effet de l'opération du langage だということです。それが現実界を空洞化し穴をあける évide le réel, y fait trou。この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件です。(…)そしてラカンが言ったように、私はひとりの大他者として欲望する。というのは、言語が組み入れられているから。けれども、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら、「欲望は大他者の欲望」ではありません le désir n’est pas désir de l’Autre。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »

しかも L'Autre、c'est le corps ! (大他者は身体である、S14)でもある。つまり大他者の欲望ってのは「身体の欲望」としたっていい。日本ラカン派の寝言ばっかりきいてるから矛盾に感じるだけさ。

そもそもおまえさん、大他者を人物のことだと思い込んでるんじゃねえか? 大他者じゃなくて l'Autre だぜ、まずなりよりも大他者というのは言語だ。

・先ず、語 symbole は物の殺害 meurtre de la chose として顕れる。そしてこの死は、主体の欲望の終わりなき永続化 l'éterrusation de son désir をもたらす。(ラカン、ローマ講演)

・主体は、言わば、話すのではなく話させられる。 le sujet, peut-on dire, est parlé plutôt qu'il ne parle(ラカン、ローマ講演)

・フロイトの観点からは、人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。Dans la perspective freudienne, l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3)


それに他の享楽 JȺ:(S.23)ってのも身体の享楽 jouissance du corpsだよ(基本版:現実界と享楽の定義)。

Ⱥ とあるようにちゃんと穴が開いている。