2016年11月23日水曜日

プラトンのなかのフロイト・ラカン

プラトンの邦訳文には「快楽」と「欲望」という語が次のように現れる。ここには「Wunsch(願望と欲望)とLust(快と欲望)」にて引用したニーチェやフロイトがすでにいるといってよいだろう。

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)
いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)

ーーもちろん原語がどうなっているのかは調べていないが、ニーチェやフロイト・ラカン文脈を念頭におけば言いたいことがとてもよくわかる文である。「快楽」は「享楽」、そして「欲望」は「欲動」に置きかえることができるとしてもよい。

※欲動と享楽の微妙な相違については「欲動と享楽の相違」を参照。

ラカンはフロイトの「女性的マゾヒズム」を享楽 jouissance とした。

……この女性的マゾヒズムは、原初の、性的 erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924)
現実界の享楽は…フロイトが観察したように…マゾヒズムを包含している。…マゾヒズムは現実界によって与えられる主要な形式である。

la Jouissance du réel comporte… ce dont FREUD s'est aperçu …comporte le masochisme… Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, (Lacan, S23, 10 Février 1976)
私が享楽と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張・強制・消費の審級、搾取とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れる始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。

… ce que j'appelle jouissance au sens où le corps s'éprouve, est toujours de l'ordre de la tension, du forçage, de la dépense, voire de l'exploit. Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur, et nous savons que c'est seulement à ce niveau de la douleur que peut s'éprouver toute une dimension de l'organisme qui autrement reste voilée.(ラカン,Psychanalyse et medecine,1966)

「苦痛のなかの快」--プラトンが言っている通りである。

そして、Trieb(欲動・衝迫)とは、何かが主体を駆り立てることである、自分自身が行きたくない処にまで。

フロイト曰く「欲動は我々の神話だ」と。これは、アンリアル l'irréel への言及として理解してはならない。何故なら、神話的に欲動するものがリアル le réel だから。神話が通常そうであるように。ここには現実界がある。主体と喪われた対象とにあいだの関係において、神話=欲動のなかに再生産によって欲望を創出するリアルである。(ラカン、Écrits, 853« Du ‘Trieb' de Freud et du désir du psychanalyste », 1966)

これだけでは分かりにくいかもしれない。ヴェルハーゲの叙述で補おう。

我々のなかには抵抗できない何か起こる。理性と意志を超えた何かが。私のなかにある無思慮の気まぐれ。しかしながら、それは私の意志に反してして私を占領する。…欲動は現れるとき、意識・自己統御は占領されてしまう。…

欲動とは、何か別のものに駆り立てられて、そのなすがままになるということだ。統御不能の得体の知れないどこか別の場所から来るもの。欲動の領野は意識の外部に横たわっている。奇妙なしかし不可避の混淆、攻撃性とエロスの融合。 (Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ,1998,私訳ーー享楽に対する防衛

まさにプラトンは既にこれらのことを記している。

べつに『パイドロス』からも引こう。

……魂の似すがたを、翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力であるというふうに、思いうかべよう。――神々の場合は、その馬と馭者とは、それ自身の性質も、またその血すじからいっても、すべて善きものばかりであるが、神以外のものにおいては、善いものと悪いものとがまじり合っている。そして、われわれ人間の場合、まず第一に、馭者が手綱をとるのは二頭の馬であること、しかもつぎに、彼の一頭の馬のほうは、資質も血すじも、美しく善い馬であるけれども、もう一頭のほうは、資質も血すじも、これと反対の性格であること、これらの理由によって、われわれ人間にあっては、馭者の仕事はどうしても困難となり、厄介なものとならざるをえないのである。(プラトン『パイドロス』)

ああ、なんというフロイト的プラトン!




おそらくフロイトはプラトンをパクったのである。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較される。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923)

晩年のフーコーはドゥルーズに対して《自分は欲望 désir という言葉に耐えられない(……)僕が「快楽 plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ》と語ったそうだが(ドゥルーズ「欲望と快楽 Désir et plaisir」)、『性の歴史』でギリシャまで遡ったのフーコーが、その「快楽」概念でこういったことを考えていなかったはずはない。

フーコーがギリシャ文化から取り出した概念、enkrateia(克己)、sophrosyne(節制)などは、欲望の統御ではなく、「エスという奔馬を統御する騎手」、すなわち欲動の統御(自己陶冶)にかかわると捉えうる。