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【転移:騙すものとしての現実性/反復:欺かないものとしての現実界】
【出会い損ねとしての反復】
ーーここにはオートマンという語彙しか出てこないが、「出会い損ねrencontre manquée」とあるようにテュケーについて語っている。つまりオートマン/テュケーの対比を「古典的には正当的」に指摘している。
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ところで「古典的には正当的」な注釈とは反するミレールの注釈もある。
Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours (mercredi 9 septembre 2005、PDF)には次のような図が示されている。
症状/サントーム
真理/享楽
欲望/欲動
テュケー/オートマン
欠如/穴
存在欠如/存在
主体/話す存在
幻想/身体
ーーという対比がなされている。テュケー/オートマンとあるように、このミレールの図示によれば、オートマンがテュケーよりもより根源的なものと言っていることになる。
なぜ右側の項目がより根源的なものなのかは次の文が示している。
この文脈のなかでオートマンが右側にあるわけでーーわたくしは最初は目を疑ったぐらいだがーー、この話にはあまりかかわりたくないのだが、後学?のために今こうやってメモをしている。
おそらくすべては「話す身体」、「法のない現実界」などの晩期ラカンにかかわるのだが、主流ラカン派の権威でさえ10年のあいだにまったく正反対の注釈をしている。とくに21世紀になってラカン解釈にはおどろくほどの転回があるわけだが、それが正当的なものか一時的な仮定なのかは、わたくしにはよくわからない。
ーーこの文はセミネール20(アンコール)の最後近くで言われているのだが、ミレールによればここにラカンの転回点(後期ラカンへののひとつ)があるとされる。
たとえば、アンコールの中盤にあらわれる次の文ーー、
この二文は互いに相容れない(いやそのような気がする、とだけ言っておこう[参照])。
ーーいやあ、わたくしはよくわからない。
但し、巷間のラカン派の言っていることは、すべて眉唾で読まねばならないことだけがわかりはじめてきた・・・
難問の「話す身体」ーーこれはひょっとしてドゥルーズ=アルトーの「器官なき身体」ではないかと「妄想」しているのだが[参照]ーー、これについてのもういくらかは次の通り。
ーー「自ら享楽する身体 un corps joui 」だったら、テュケーではなくオートマンかもしれない・・・いや触らぬ神に祟りなし。
みなさんもすべてのラカン派に不信の眼差しをむける習慣だけは保持しましょう・・・それが「大他者の大他者はない」のほんとうの意味です・・・つまりラカン注釈を支える大他者は何もない(これはラカン派だけでなくすべてに言える、たとえばデカルト注釈の変遷を思い起こすだけでよい)。
もちろんニーチェを引用したってよい。
ーーラカン小分派で凝り固まっている党派人たちこそ最も気をつけねばならない、日本ではたいしたことは分かっていそうにないのにーーシツレイ!--ラカンのまねをしてかセミネールなどという形式で、仔羊どもに虚言を教え込んでいるラカン党派がわたくしの知るかぎりでも三つ、四つほどあるが(シツレイ!)、ああいったのは遠眼で眺めて互いの齟齬を比較しつつ、にやにやするのみに限る・・・
で、なんであったかーー。ラカンの虚言、いや真理のゆらめきの事例である。
これはまともなラカン派ならすでにとっくの昔からコンセンサスの筈なのだが(参照: 「メタランゲージはない」と「他者の他者はない」)、いまだ「空虚なパロールparole vide」/「充溢したパロールparole pleine」などと真顔でおっしゃられておられるラカン派さえ日本にはイラッシャル・・・大他者の大他者はないのに、どうして充溢したパロールなどというものがありうるのだろう・・・
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さらにいえば、エクリ耽溺派の日本的ラカン派ーーいまだ鏡像段階のみが好きそうなラカン派ーーにだけにはことさら注意しましょう・・・
次の藤田博史氏の文は誰を宛先にしているかが瞭然とわかってしまうので「とても愉快な」--いやシツレイーーとても教育的な文である(セミネール断章 2012年 11月10日講義より)。
いやあ、わたくしは礼儀正しいほうなので、宛先を書くことはしない・・・もっとも『夢解釈』(1900)以前の論文がじつはフロイトの核心だという見解も現在はあるぐらいでーーこれはある意味もはや古典的認識だろうーー、エクリだってひょっとして悪くないのかもしれない・・・前期エクリの充溢したパロールだって復活するやもしれぬ・・・おどろくほどマヌケにみえるあれらの人物たちは実は近未来正当ラカン派であるかもしれず、わたくしのようについうっかり嘲弄してしまう人物こそ真のマヌケであるにソウイナイ・・・
以下、ジャック=アラン・ミレールによる「古典的な」注釈ーー英訳のcontext and conceptsは1995年、ただし仏語によるものはもう少し前に上梓されてるはずだが、不詳。
【転移:騙すものとしての現実性/反復:欺かないものとしての現実界】
ラカンは転移を心的現実と結びつけます。例えば、ラカンが転移を「無意識における現実性の現勢化」として定義するときです。しかし、この言葉は現実性[realite]と現実界[le reel]を区別したときにのみ、その真の意味を得ることができます。それゆえ、ラカンが転移を「無意識における現実性の現勢化」であるというとき、無意識における現実界の現勢化と言っているのではありません。あとで分かるように、これは基本的な区別です。ラカンは、無意識の現実性はつねに曖昧かつ騙すものであり、一方、反復は現実界と繋がっており、騙さないものであるということを示しています。セミネールXで不安について語るとき、ラカンは不安をその他のすべての情動と区別しています。分析においても生活においても、不安は欺いたり騙したりするような情動ではありません。ラカンは不安を、彼が現実界と呼ぶものと結びつけています。現実界とは人が掴むことのできないものですが、騙すことはありません。
セミネールXIを理解するためには、転移を騙すものとしての現実性と繋げる必要があります。そして、反復は欺かないものとしての現実界と繋げる必要があるのです。転移としての無意識を問題にするとき、欺いたり騙したりするものとしての無意識が提示されています――これはフロイトの著作に非常によく現れています。例えば、分析に関する患者の夢を議論するにあたって、フロイトは、 患者が夢をみることによって分析家のうちの何かを満足させるよう試みていることを指摘しています。もし、夢の柔軟性と流動性を真剣に受け取るならば、無意識は嘘のない真理それ自体ではないということを認めなくてはなりません。これが、ラカンが真理は虚構の構造を持っていると言うときに意味していることで す。これは、ここでの転移についての講義から生まれたのです。(「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」Context and Conceptジャック=アラン・ミレール)
【出会い損ねとしての反復】
反復。何度も何度も、何かが繰り返されます。(セミネール XX『アンコール』のタイトルの真の訳語は、Again あるいは More とすべき でしょう) ラカンがセミネール XI の「無意識と反復」のセクションにおいて明らかにしていることは、反復するのは aim が満たされていないからだということです。人は何かを満たしますが、それは満たされるべきであったものとは違うものです。『アンコール』においてラカンは、人は満足を得ることはできるが、それはかくあるべき満足には絶対になりえないと言っています。ラカンが、主体にとって常に同じ場所に帰ってくるものとして現実界の概念を発展させたこ との理由がここにあります。ラカンは反復を、失敗の反復として捉えています。成功の反復ではありません。このことは、失敗神経症[failure neurosis]の概念すら生じさせるのです。
これが、ラカンが反復とその他の種類の行動を区別する理由です(S11- Fr143)。フロイトの反復[Wiederholung]の概念は、習慣やステレオタイプの行動とは何の関係もありません。なぜなら、フロイトが反復について語るとき、それは、つねに出会い損ねられる何物か、つまり欠如したものとの関係において語っているからです。このようにして私たちはフロイトが 「潜在期」という言葉で意味していたことをよりよく理解することができます。繰り返し関係を打ちたてようとした一次的対象があります。反復はつねに或る失われた対象と繋がっています――反復とはその失われた対象を再び見出そうとする試みなのです。しかし、その対象は<父の名>の操作を通して、 常に禁止され失われています。ラカンは母親が基本的なもの[Ding]であると言っています。これは常に失われたものであり、反復が回復しようとします が、常に出会い損ねるものです。
ラカンは現実界を、つねに間違いと不可能な遭遇と関連付けて語っています(S11-Fr53)。それ ならば、私たちはどこで現実界と出会うことができるのでしょうか? 私たちが精神分析の発見において持っているものは、一つの出会い、本質的な出会いであり、私たちを逃れる現実界とともに常に召集される約束です。それは一つの約束なのですが、何物かが出会いの場所に現れることがありえない約束です。
愛の領域における予約、出会い、デートの重要性を考えてみてください。現実界なしにはどのようなラヴ・ストーリーもありえません。なぜなら、人は会う約束をし、 何度も繰り返し日程を変更しますが、現れるのは何か違うものなのです。
これはオートマトンの彼岸である現実界との遭遇です。記号の執拗性あるいは回帰です。現実界とはオートマトンの背後にあるものです。この場所にラカンは反復を導入します。重要なのは反復ではなく、出会い損なわれるもの〔現実界〕なのです。
このようにして、ラカンの反復についての議論と、主体としての無意識の提示との相同的な関係がお解りになったことでしょう。それは常に、出会い損なわれるものについての問いです。そして、この間違いにおいて、それ〔現実界〕が位置し、また現れるのです。(同、ミレール1995)
ーーここにはオートマンという語彙しか出てこないが、「出会い損ねrencontre manquée」とあるようにテュケーについて語っている。つまりオートマン/テュケーの対比を「古典的には正当的」に指摘している。
テュケーの機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね」としての「現前」« présence » comme « rencontre manquée » [ in abstentia ]である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマという形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、セミネールⅪ、邦訳よりだが一部変更ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency))
…………
ところで「古典的には正当的」な注釈とは反するミレールの注釈もある。
Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours (mercredi 9 septembre 2005、PDF)には次のような図が示されている。
症状/サントーム
真理/享楽
欲望/欲動
テュケー/オートマン
欠如/穴
存在欠如/存在
主体/話す存在
幻想/身体
ーーという対比がなされている。テュケー/オートマンとあるように、このミレールの図示によれば、オートマンがテュケーよりもより根源的なものと言っていることになる。
なぜ右側の項目がより根源的なものなのかは次の文が示している。
欠如とは空間的で、空間内部の空虚voidを示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,” excerpted at www.lacan.com
この文脈のなかでオートマンが右側にあるわけでーーわたくしは最初は目を疑ったぐらいだがーー、この話にはあまりかかわりたくないのだが、後学?のために今こうやってメモをしている。
おそらくすべては「話す身体」、「法のない現実界」などの晩期ラカンにかかわるのだが、主流ラカン派の権威でさえ10年のあいだにまったく正反対の注釈をしている。とくに21世紀になってラカン解釈にはおどろくほどの転回があるわけだが、それが正当的なものか一時的な仮定なのかは、わたくしにはよくわからない。
現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ。 Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient (S.20)
ーーこの文はセミネール20(アンコール)の最後近くで言われているのだが、ミレールによればここにラカンの転回点(後期ラカンへののひとつ)があるとされる。
たとえば、アンコールの中盤にあらわれる次の文ーー、
現実界とは象徴化あるいは形式化の袋小路である ( “Le reel est un impasse de formalization,” )(ラカン、セミネール20)
3年後のセミネール23にあらわれる次の文ーー、
法のない現実界(le Réel sans loi)……本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない[Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre](セミネール23)
この二文は互いに相容れない(いやそのような気がする、とだけ言っておこう[参照])。
ーーいやあ、わたくしはよくわからない。
但し、巷間のラカン派の言っていることは、すべて眉唾で読まねばならないことだけがわかりはじめてきた・・・
難問の「話す身体」ーーこれはひょっとしてドゥルーズ=アルトーの「器官なき身体」ではないかと「妄想」しているのだが[参照]ーー、これについてのもういくらかは次の通り。
すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER)
言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlantとは、自ら享楽する身体un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF)
ーー「自ら享楽する身体 un corps joui 」だったら、テュケーではなくオートマンかもしれない・・・いや触らぬ神に祟りなし。
みなさんもすべてのラカン派に不信の眼差しをむける習慣だけは保持しましょう・・・それが「大他者の大他者はない」のほんとうの意味です・・・つまりラカン注釈を支える大他者は何もない(これはラカン派だけでなくすべてに言える、たとえばデカルト注釈の変遷を思い起こすだけでよい)。
もちろんニーチェを引用したってよい。
………確信は虚言にもまして危険な真理の敵ではなかろうかとは、すでに長いこと私の考慮してきたところのことであった(『人間的、あまりに人間的』第一部 四八三)。このたびは私は決定的な問いを発したい、すなわち、虚言と確信とのあいだには総じて一つの対立があるのであろうか? ――全世界がそう信じている、しかし全世界の信じていないものなど何もない! ――それぞれ確信は、その歴史を、その先行形式を、その模索や失敗をもっている。長いこと確信ではなかったのちに、なおいっそう長いことほとんど確信ではなかったのちに、それは確信となる。えっ? 確信のこうした胎児形式のうちには虚言もまたあったかもしれないのではなかろうか? ――ときおり人間の交替を必要とするだけのことである。すなわち父の代にはまだ虚言であったものが、子の代にいたって確信となるのである。――私が虚言と名づけるのは、見ているものを見ようとしないこと、見えるとおりにものを見ようとしないことである。はたして目撃者の面前で虚言するのか、目撃者がいないとき虚言するのかは、考慮しなくともよいことなのである。最もふつうの虚言は、おのれ自身を欺くそれであり、他人を欺くということは比較的に例外の場合である。――ところで、この見ているものを見ようとしないこと、この見えるとおりに見ようとしないことは、なんらかの意味で党派的であるすべての人にとっては、ほとんど第一条件である。すなわち、党派人は必然的に虚言者となる。(ニーチェ『反キリスト者』)
ーーラカン小分派で凝り固まっている党派人たちこそ最も気をつけねばならない、日本ではたいしたことは分かっていそうにないのにーーシツレイ!--ラカンのまねをしてかセミネールなどという形式で、仔羊どもに虚言を教え込んでいるラカン党派がわたくしの知るかぎりでも三つ、四つほどあるが(シツレイ!)、ああいったのは遠眼で眺めて互いの齟齬を比較しつつ、にやにやするのみに限る・・・
で、なんであったかーー。ラカンの虚言、いや真理のゆらめきの事例である。
1959年4月8日、ラカンは「欲望とその解釈」と名付けられたセミネール6 で、《大他者の大他者はない Il n'y a pas d'Autre de l'Autre》と言った。これは、S(Ⱥ) の論理的形式を示している。ラカンは引き続き次のように言っている、 《これは…、精神分析の大いなる秘密である。c'est, si je puis dire, le grand secret de la psychanalyse》と。(……)
この刻限は決定的転回点である。…ラカンは《大他者の大他者はない》と形式化することにより、己自身に反して考えねばならなかった。…
一年前の1958年には、ラカンは正反対のことを教えていた。大他者の大他者はあった。……
父の名は《シニフィアンの 場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである。le Nom-du-Père est le « signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »(Lacan, É 583)
……ここにある「法の大他者」、それは大他者の大他者である。(「大他者の大他者はない」とまったく逆である)。(ジャック=アラン・ミレール「L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)」、2013)
これはまともなラカン派ならすでにとっくの昔からコンセンサスの筈なのだが(参照: 「メタランゲージはない」と「他者の他者はない」)、いまだ「空虚なパロールparole vide」/「充溢したパロールparole pleine」などと真顔でおっしゃられておられるラカン派さえ日本にはイラッシャル・・・大他者の大他者はないのに、どうして充溢したパロールなどというものがありうるのだろう・・・
パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である。La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé(Lacan,S.23、1976)
…………
さらにいえば、エクリ耽溺派の日本的ラカン派ーーいまだ鏡像段階のみが好きそうなラカン派ーーにだけにはことさら注意しましょう・・・
ラカンの観点からは、精神病と神経症の共通の基盤はなにか? 精神生活の始まりはなにか? 古典的ラカンにおいて精神生活の始まりは、ラカンが想像界と呼んだものだ。誰もが想像界とともに始まると想定される。これは古典的ラカンだ。それは疑わしい。というのは、言語の出現を遅らせているから。事実としては、主体は、最初から言語に没入させられいる。だが、古典的ラカンにおいて、精神病についての彼の古典的テキストにおいて、さらに『エクリ』のほとんどすべてのテキストにおいて--ひどく最後のテキストのいくつかを除いてーー、ラカンは、主体の根本次元を想像的次元に付随したものとして「構築」した。(……)私は「構築」と言った。というのは、あなたは、言語の抽象作用を理解しなければならないから。言語は既に最初からある。(Miller, J.-A.. Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、2008 私訳、PDF)
次の藤田博史氏の文は誰を宛先にしているかが瞭然とわかってしまうので「とても愉快な」--いやシツレイーーとても教育的な文である(セミネール断章 2012年 11月10日講義より)。
ラカンについていうと、いまだに『エクリ』にこだわり続けている人たちが沢山います。「《盗まれた手紙》についてのセミネール」とか「論理的時間と予期される確実性の断言」といった論文にいまだにこだわっている人たちが少なからずいるということに驚いてしまう。勿論どちらも重要な論文であることには変わりありませんが、これが今現在における研究対象になり続けてもらっては困る。ラカンが辿り着こうとしていた場所から振り返れば、それらはいずれも遥か手前にあるものです。つまり通過点に過ぎません。ご存じのように、ラカンのエクリは1966年に出版された本ですから、世に現れてからすでに46年の歳月が流れています。これはラカン中期前半までの思想に相当します。当然のことですが、中期の後半から後期の思想は含まれていません。ラカンにおいて真に問題にしなければならないのはむしろエクリ以後の思想の流れです。にもかかわらず殆どの研究者がエクリという迷路のなかで立ち往生している。
そうではなく、わたしはラカンの中期の後半から始めようと思います。ラカンの年齢でいうと70歳から80歳までの10年間の思想です。したがって、そこにたどり着くまでにやっておくべきこと、その時点ではすでに自明になっていることが少なからずありますが、それは各自で勉強してください、と申し上げておきたいと思います。学問に過剰な優しさは禁物です。
出発点まで案内するのに手間がかかって、なかなか頂上目指して出発できないというのは、尖端でものを考えている人の足を引っ張ってしまいます。手取り足取りして出発点まで連れてきてあげる、というのは、学問においては親切でもなんでもなく、単なるお節介になってしまうことが殆どです。
分裂病の原因になる母親 Schizophrenogenic Mother という概念があります。子に過剰に関与して、自我の形成を阻害し、分裂病を発症させてしまうのです。過剰な親切は、ある意味暴力でもあるといってよいでしょう。ですから、わたしは一貫して「ここまでは皆さんが自力で歩いてきてください。わたしは、ここから話をします」という立場を取るのです。もし、麓から一緒に歩こうとしたら、恐らく五合目で疲れ果ててしまいます。
にもかかわらず、世間には「麓から一緒に登りましょう」という優しい先生が溢れています。あるいは、先回りして「五合目で待っているからあなたたちも五合目までは自力で来なさい」という先生もいるでしょう。そのようないい方をするならば、わたしの場合は「九合目で待っています」ということになります。ですから皆さんには、九合目まではとにかくご自分の力で歩いて来てもらいたいのです。そして「そこから頂上を目指す」ことに全力を注ぐのです。
ところが、こんなことをいうと怒られてしまうのですけれど、頂上から見渡すと殆どの学者さんが五合目で休んでいる。ずっと休んでいる。「いつまで休んでいるのですか?」と声を掛けたくなります。そこに二、三十年腰掛けたままの研究者もいるので「ちょっとちょっと」と思ってしまいます。
いやあ、わたくしは礼儀正しいほうなので、宛先を書くことはしない・・・もっとも『夢解釈』(1900)以前の論文がじつはフロイトの核心だという見解も現在はあるぐらいでーーこれはある意味もはや古典的認識だろうーー、エクリだってひょっとして悪くないのかもしれない・・・前期エクリの充溢したパロールだって復活するやもしれぬ・・・おどろくほどマヌケにみえるあれらの人物たちは実は近未来正当ラカン派であるかもしれず、わたくしのようについうっかり嘲弄してしまう人物こそ真のマヌケであるにソウイナイ・・・