2017年4月13日木曜日

倒錯者の言説(マゾヒストの言説)

…私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想の裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、自分を対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S11)

幻想の式 $ ◊ a の読み方(の一つ)は、「シニフィアンの象徴的効果によって分割された主 体は、対象 a と関係する」である。倒錯においては、この幻想の式が裏返される。すなわち、 a ◊ $

ジジェクはここから、分析家の言説は倒錯者の言説と形式的には一致するとしている(分析家の言説の上部構造は a → $ であり、a ◊ $ と相同的である)。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

対象aが囮の背後の空虚であれば分析家の言説、幻想的囮/スクリーンであれば倒錯者の言説ということになる。

さてジジェクの倒錯の言説の読み方を掲げる。 

動作主、マゾヒストの倒錯者 a(典型的倒錯者)は、他者の欲望の対象-道具のポジションを占める。倒錯者はこのような形で、彼の(女性の)犠牲者を通して、彼女をヒステリー化された/分割された主体 $ーー彼女が欲するものを知らない主体ーーとして据える。倒錯者は、彼女が欲するものを知っている。すなわち、彼は知 S2 のポジションから(彼女の欲望について)語るふりをする。これによって彼は、他者への奉仕が可能になる。そして最終的に、この社会的つながり(社会的紐帯)の生産物は、主人のシニフィアンである。すなわちヒステリー的主体$は、倒錯者が奉仕する主人S1(女王様)の役割へと昇華される。(同上、ジジェク2016) 

ーー実に鮮やかな読み方である。 《マゾヒストは専制的女性を養成せねばならない。(……)マゾヒストは本質的に訓育者なのである》(ドゥルーズ『マゾッホとサド』)--この過程がすぐれて形式的に描写されている。




倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S18)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823)
倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存dépendance de son amour,、すなわち母の欲望への子供の欲望 le désir de son désir によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 l'objet imaginaire(想像的ファルス)と同一化することである。(ラカン、エクリ、E.554、摘要訳)

…………

より一般的に言えば、倒錯者とは受動的なポジションに立っているように見えながら、他者をコントロールしようとする性格(症状)類型者である。

おそらく現在、境界例や軽度の自閉症等と診断されている人たちは、かなりの割合で倒錯者である可能性があるのではないか、とは下記の論文の共著者のひとり、ポール・バーハウの見解である。

乳幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、彼は母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外を通して、自己のアイデンティティの基礎を獲得する。いったんこの基礎のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。

中間期は過渡的段階であり、子供は「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を 通して、安定した関係にまだ執着している。このような方法で、母を喪う不安は何とか対処されうる。標準的には、エディプス的状況・父の機能が、子供のさらなる発達が発生する状況を創り出す。母の欲望が父に向けられるという事実がありさえすれば。

倒錯の心理起因においては、これは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化のために、子供は母の支配下・母自身の部分であり続ける。したがって、子供は自身の欲動の表象能力を獲得できない。ましてやそれに引き続く自身の欲望のどんな加工も不可能である。

構造的用語で言えば、これはファルス化された対象 a に還元されるということである。その対象a を通して、母は彼女自身の欠如を塞ぐ。母からの分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる。…

こうして子供は自らを逆説的なポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなることは子供にとって勝利である。他方で、このために支払う代価は高い。分離がないのだ。自身のアイデンティティへのさらなる発達の道は塞がれてしまう。代りに、子供はその「勝利」を保護する企図のなかで、独特の反転を遂行する。彼は自ら手綱を握りつつ、しかも特権的ポジションを維持したままで、受動ポジションを能動ポジションへと交換しようとする。

臨床的用語では、これは最も歴然としたマゾヒズムである。マゾヒストは、全シナリオを作成してそれを指令しながら、自らを他者にとっての享楽の対象として差し出す。これが他者の道具となる 側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、瞭然と受動-能動反転がある。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。 (……)倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼はまた、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせる。 (When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe ,2010,PDF)


バーハウの2001年の論文からもいくらか抜き出しておこう。

臨床的叙述が何度もくり返して示しているのは、倒錯的シナリオは権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。この権力は純粋に身体的次元には限定されない。さらに先に進んで、倒錯者はとてもしばしば、快楽の新しい倫理の唱導者となる。したがって彼は、自らの権力の掌中となる取り巻き連中を創造する。(ポール・バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II)
ほとんどの事例で、男性の倒錯者は、彼が事態を支配しなければならないとしてさえ、大他者の全的享楽の対象として自らを表す。女性の倒錯者は母のポジションから出発する。その意味は、彼女は自身の欠如を埋め合わせる対象として他者を定義づけるということである。(……)

要約しよう。母は自分の子供を想像的ファルスの位置に保ったままにする。父は受動的観察者の位置に還元される。母の想像的ファルスの位置に同一化した息子は、大他者の位置にある他者に対して同じ過程を能動的に反復する。娘は彼女自身の子供に焦点を当てる傾向がある。こうして原初の過程を反復する。(同 Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF