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2017年7月1日土曜日

残存現象と固着

前回(「彷徨える過剰」)、次の文を引用した。

彷徨える過剰は存在のリアルである。L’excès errant est le réel de l’être.(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ]

以下は、前回記したこととはやや異なった側面からのフロイト・ラカン派による「彷徨える過剰」の資料編である。

…………

【欲動蠢動の拘束】 
心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動蠢動 anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

一次過程/二次過程


【欲動蠢動の残存物と対象a
セミネール X 以降のラカンの新しい考え方は、身体の有機的相は、鏡像イメージによって完全には覆われないということである。つまり、身体性の相は象徴界的あるいは想像界的手段では捕獲・支配されえない。鏡像化されず、そして大他者の領野の外部に根源的に横たわるこの残存成分が、対象a と呼ばれる。《この(a) 、小さな(a) は、大他者の場処への主体の生誕のこの全作用のなかで還元されえないままであるものである。そしてそこから、その機能を果たすようになる。c'est (a) : petit(a) est ce qui reste d'irréductible dans cette opération totale d'avènement du sujet au lieu de l'Autre, et c'est de là qu'il va prendre sa fonction》 (S10)

ミレールによれば、このようにして居残った残存物は、欲動蠢動 Triebregungen の残滓として理解されなければならない。ここで特に興味深いのは、ラカンがフロイトの蠢動を始末におえない力能 puissance として理解していることである。《蠢動は刺激・無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute》(S10)。従って対象a は、抵抗する身体要素として現れる。その身体要素とは、シニフィアンの秩序性 orderliness によって特徴づけられたすべての致死性 deathliness を再活性化するものである。対象a は、シニフィアンのファルス論理に従わない要素なのである。(Stijn Vanheule, Lacan's construction and deconstruction of the double-mirror device, 2011)


【残存現象と原始時代のドラゴン】
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


【固着と幼児期の純粋な出来事】
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

《原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる》(ボール・バーハウ、1999)

症状(=サントーム)とは身体の出来事のことである。…le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》 (ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569、16 juin 1975)
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
「一」Unと「享楽 」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours, L'être et l'un)


【S(Ⱥ)とサントームΣ】
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN pdf

《原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt》(ラカン、S22, 08 Avril 1975)

《現実界は外立する Réel ex-siste 》 (S.22、17 Décembre 1974)

S(Ⱥ)、すなわち「斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré」。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienneである。(ミレール、Jacques Alain Miller, 6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN, pdf)


【原抑圧とS(Ⱥ)】
原抑圧(原固着)は、S(Ⱥ)にかかわる。(ポール・バーハウ, DOES THE WOMAN EXIST?, 1999)
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?,1999)


【La femme と S(Ⱥ)】
私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)


【Une femmeと他の身体の症状】
ひとりの女 Une femme は、他の身体の症状 symptôme d'un autre corpsである。(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである。 une femme est un sinthome (S23, 17 Février 1976)


【トラウマと異物】 
心的トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入 Eindringen から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』1895年)
我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)
経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況と呼ぶ。( フロイト『制止、症状、不安』1926年 )
現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11)
行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)
(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)


【外密と異物】
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
親密な外部、この外密 extimitéが「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
古く l'Unerkannt(知りえないもの)としての無意識 l'inconscientは、まさに我々の身体 corpsのなかで何が起こっているかの無知 ignorance によって支えられている何ものかである。

しかしフロイトの無意識はーーここで強調に値するがーー、まさに私が言ったこと、つまり次 の二つのあいだの関係性にある。つまり、「我々にとって異者である身体(異物) un corps qui nous est étranger 」と「円環を為す fait cercle何か、あるいは真っ直ぐな無限 droite infinieと言ってもよい(それ は同じことだ)」、この二つのあいだの関係性、それが無意識である。(ラカン、セミネール 23、11 Mai 1976)
Fremdkörper(異物)は内部にあるが、この内部の異者である。現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。(Paul Verhaeghe、2001, BYOND GENDER)


【La femmeと J(Ⱥ)】
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(S23、16 Mars 1976)
J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

…que j'ai déjà ici noté de J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé, - qu'il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,S23, 16 Décembre 1975)


【欠如と穴】
穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカン教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001, pdf)

 ※ S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴


【原誘惑者と原穴の名】
〈母 Mère〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、彼(女)を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自分の身体とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、彼(女)は、対象としての乳房を、原初の自己愛的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。その母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版、1940、私訳)


2017年4月20日木曜日

資本の言説と〈私〉支配の言説

ラカンにはデモクラシーならぬ« je-cratie » という表現がある。これは「〈私〉支配」ということだが、「ボククラシー」とでも意訳できる(ボクラシイとすれば、ここで記したいことによりいっそう合致する)。

デモクラシーが大衆による支配という意味であるように、ボククラシーとはボクによる支配のことである。

Il en est tout autre chose de ce qui se trouve à l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité qui s'affirme de son égalité à soi-même, de cette « je-cratie » dont je parlais une fois, et qui est, semble-t-il, l'essence de toute affirmation dans la culture qui a vu fleurir entre toutes ce discours du Maître. (Lacan, S17, 11 Février 1970 )

ーーラカンは《真理のなかでの主体と主人の出現の地平 l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une vérité》において、 《それ自体、等価 égalité à soi-même》となることを、《〈私〉支配 je-cratie》と呼んでいることになる。

sujet-Maîtreとあるように、「分割された$」と「主人のシニフィアンS1」の合体を示唆している。

わたくしはこのラカンの叙述をあえて「誤読」して、資本の言説の図式ーー上の言明があった時点においては、ラカンはいまだ「資本の言説」概念を提示していないーーとともに読んでみた。すなわち真理のポジションにおかれたS1(Maître)と$sujet)との合体として。

その試みのひとつは、「フロイトの「資本」論と「快の獲得」」にて示した。

それは同じセミネール17の次の文に依拠しつつである。

主人の言説は主体の支配とともに始まる。主人の言説が、超限定された神話・それ自身のシニフィアンに同一化すること [ $ ≡ S1 ] によってのみ支えられる傾向がある限りで。(S17、18 Février 1970)

 $ ≡ S1 は、主人の言説においても資本の言説においても合体してしまえば、相同的な図式となる。







【註】
ラカンは別に《〈私〉支配 Je-cratie》を、大学人の言説もしくは哲学者の言説を批判する文脈のなかで、《理想の〈私〉の神話…支配する〈私〉…言表行為者が自己と同一化する〈私〉le mythe du Je idéal… - du Je qui maîtrise, - du « Je » par où au moins quelque chose est identique à soi-même, à savoir l'énonciateur》(S17)と語っているが、これは何も大学人の言説に限らない。むしろ「主人S1の言説」を隠された真理 vérité cachée のポジションにもつ「大学人S2の言説」における症状を指摘しているのであり、核心は主人の言説における S1 と$ の妄想的一致傾向である。セミネール20では、これに対抗するために《横にずれる存在 être à côté》あるいは、《寄生存在 par-être → paraître》等と言っている。横にずれるとは、フロイトやボードレールのユーモアの定義に近似したものであり、これは次の聖人をめぐる話とともに読むことができる、《聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本の言説 discours capitaliste からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない》(テレビジョン、1974)

ところでS1とはなんだったか?(最晩年のラカンのS1の定義、ーーミレールによる「ひとつきりのシニフィアンsignifiant tout seul 」=《身体の出来事 un événement de corps》(ラカン、1975)ーー、つまり人間の自閉症的核(享楽の原子)にかかわる定義はここでは外す)。

S1、……この主人のシニフィアンは、欠如を埋め、欠如を覆う過程で支えの役割をする。最善かつ最短の例は、シニフィアン〈私〉である。それは己のアイデンティティの錯覚を与えてくれる。(ポール・バーハウ、1998)

ーーここにもあるように、S1(主人のシニフィアン)とは、シニフィアン〈私〉が最も典型的なものである。



S1(主人のシニフィアン) が「他の諸シニフィアンS2 autres signifiants」によって構成されている領野のなかに介入するその瞬間に、「主体が現れる surgit ceci : $」。これを「分割された主体 le sujet comme divisé」と呼ぶ。このとき同時に何かが出現する。「喪失として定義される何か quelque chose de défini comme une perte」が。これが「対象a l'objet(a) 」である。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)

人はこの分割された主体であることに常に意識的でなくてはならない、とは言うまい。だがどうして時に気づかずにいられよう。柄谷行人の名高い「この私」の議論もそれをめぐっている。

私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、いつもそこに「この私」が抜けていると感じてきた。哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。それを主観といっても実存といっても人間存在といっても同じことだ。それは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜けおちている。私が哲学になじめなかった、またはいつも異和を感じてきた理由はそこにあった。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

ラカンは「私」をめぐって、とても愉快なことを言っている。

「私は思う Je pense」に「私は嘘をついている Je mens」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている Je pense que je pense」という意味。

これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」 、 「彼女は私を愛していると私は思う Je pense qu'elle m'aimeと言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。 (ラカン、セミネールⅨ「同一化」ーー僕と私と俺

ラカン派では、「言表内容の主体 sujet de l'énoncé」 と「言表行為の主体 sujet de l'enonciation」 が一致している思い込んでいる人々の言説を「妄想的(パラノイア的)信念の言説」と呼ぶことがあるが、この言表行為の主体と言表内容の主体の区別は「知識人」のあいだでさえ曖昧化されつつある(SNSの影響大だろう)。それは書物における文体にまで顕著に影響を与えている。

もちろん時代がすでにそうなってしまっているのだから、この一致に居直る仕草もあるだろう。

そのようなことに気遣って文章を書いている作家は、もはや旧世代の僅かな生き残りでしかなく無視すべきだという立場をとることさえできる。

たとえば古井由吉。

「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(……)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル観念のエロス』)

あるいは古井由吉よりも一年はやく生まれている蓮實重彦。

「私」という語彙のごく日常的な言語操作に難儀する者はまずいないだろうが、だからといって、人称代名詞としての「私」がそのつど確かな指示対象を持っているかといえば、これは大いに疑わしい。それは「私」にかぎられたことではなく、「転位語」と呼ばれている「あなた」だの「ここ」だの「昨日」だのに見られる一般的な特徴にほかならず、その指示対象を確保するには、「私」を主語とする言説の主体が聞き手に現前していなければならない。すなわち、自分を「私」と呼ぶ何者かの存在は、そう口にする瞬間、その声と同様に視覚的にも認識されるという空間的な状況が成立した場合、そのときのみ、初めてその指示対象は明らかになる。だが、それに対して、聞き手もまた自分を「私」と名指しつつ応えることになるのだから、「私」が、「空」だの「花」だの「草」だののように固有の指示対象を持っていないことは明らかである。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

さらにはまた、デリダの《いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立会いから分離されたエクリチュールーーーこうしたエクリチュールによる本質的な漂流……》(『署名、出来事、コンテクスト』)ーーこんなことを気にしている「思想家」は今ではデリダ派にも稀有なのかもしれない。

言表行為の主体と言表内容の主体の区別に意識的であるとは、 私が話すとき、“私自身”が直接話しているわけでは決してないことを常にーーいや「ふと」でもよいーー念頭におくことである。

私は、私という語を口にするたびに想像的なもののうちにいることになる。(ロラン・バルト『声の肌理』
私は己れの象徴的アイデンティティーの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭い”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、2012ーーソクラテスのイロニーとプロソポピーア

他方、ボククラシ―(〈私〉支配)とは、「私は私の主人である」という錯覚のまま生きることである。究極的には象徴的去勢の排除、あるいは象徴的去勢の否認のもとに生きることである。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (Lacan,S17)

すなわち、言語によって去勢されていることを忘れて生きることが、ボククラシーの姿である。

人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)

こうしてボククラシ―とは、精神病者(排除)でなければ、フェティシスト(否認)であることになる。

〈自己〉とは主体性の実体的核心のフェティッシュ化された錯覚である。そこには実際は何もない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ところでラカンは、ボククラシーに相当する症状をもった人間を、S1に「支配されたマヌケcon-vaincu」とも呼んでいる。

私は主人(支配者 m'etre)だ、私は支配 m'êtrise の道を進む、私は自己の主人 m'être de moiだ、あたかも世界の支配者のように comme de l'Univers。これが…(主人のシニフィアンS1に)支配されたマヌケ con-vaincu のことである。

je suis m'être, je progresse dans la m'êtrise, le développement c'est quand on devient de plus en plus m'être, je suis m'être de moi comme de l'Univers. Ouais, c'est bien là ce dont je parlais tout à l'heure : de con-vaincu.(Lacan, S20, 13 Février 1973)

これは前期ラカンも同様なことを言っている、《自分を王だと思う人間が狂人 con だとすれば、自己を自己だと思う人物も狂人con 以外の何ものでもない〉(S2、摘要)

つまりは、フロイトがみずからコペルニクス的発見と呼んだ次の言葉に我カンセズの人間を「狂人」と呼んでいることになる。

私は自分の家の主人ではない dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus(フロイト『精神分析入門』)

くり返せば、「私」=S1 という主人シニフィアンに妄想的信念をもつことは、「私は私自身の主人だ」という立場をとることである。

ラカンの《自己という小さな主人 petit Maître, comme « moi »》や《主人の小さな市場 le petit marché du Maître 》(S17)という表現も、マヌケ(私支配)のヴァリエーションである。

こういった思考は、なにも精神分析の領野だけの話ではない。たとえばヘルダーリンの指摘。

私が、私は私だというとき、主体(自己)と客体(自己)とは、切り離されるべきものの本質が損なわれることなしには切り離しが行われえないように統一されているのではない。逆に、自己は、自己からのこの切り離しを通してのみ可能なのである。私はいかにして自己意識なしに、「私!」と言いうるのか?(ヘルダーリン「存在・判断・可能性」

あるいはニーチェの指摘。

どんなケースにせよ、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、ということが起こるならば、われわれは服従する者としては、強制、拘束、圧迫、抵抗などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。しかし他方でまたわれわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「欲する」ということに関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

このような洞察を失念しているか、無知あるいは不感症かの存在を、《〈私〉支配 je-cratie》のマヌケと呼ぶ。

ここで二人の詩人の名高い言明をかかげておこう。

《「私」とは他者である ''JE est un autre''》 ( ランボー)

《私は他者である ''Je suis l'autre''》 (ネルヴァル)

この極めてシンプルに言明されている「私は他者である」ーーこれがなによりも言語という道具を使わずには生きていけない我々の生の核心である。

人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。

かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。

自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。

(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳)

このヴァレリーの他者もまずなによりも「言語」である(訳者の恒川氏は指摘しているように)。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

…………

ところで、ラカンは主人の言説から資本の言説への移行を、1972年に語った。いくらかの詳細は、「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」に記したが、ここではポイントを絞って記すことにする。

とはいえ、次のラカン自身の言葉は再掲しておこう。

危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。

私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?

カシコイ。だが、破滅 crevaison に結びついている。

結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…

資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが事実はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、(ウロボロスのように)貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972、私訳)


資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

上の図にある「主人の言説から資本の言説への移行」とは、「〈私〉支配 je-cratie 」、「S1に支配されたマヌケcon-vaincu」、「主体 sujet=主人 Maître」になることと捉えうる。資本の言説の特徴を「去勢の排除」としていることがそれを示している。

ここで資本の言説をめぐる直近の論文(Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016, pdf)から抜き出してみることにする。まずこの移行には、上の図に明らかになっているように、三つの「突然変異」と呼ばれるものがある。

① $ とS1 は場所替えをしたこと。

② 左側の上方に向かう矢印ーー古典的言説では到達不能の「真理 vérité」を示す--が、下方に向けた矢印に変更されたこと。

③「動作主agent」と「他者autre」との間にあった上部の水平的矢印が消滅したこと。

これは上に掲げた図の 「$ とS1の場所替え」以外に、(言説のベースにある形式的構造の)次の図の左から右への移行を叙述している。




以下、同様にStijn Vanheule 2016から私訳引用する。

三つの変更の影響は、四つの言説に固有な数多くの障害物が、五番目の言説の特徴ではなくなった。われわれは資本の言説内部で、レースのゴーカートのように、循環しうる。事実、資本の言説において、非関係 non-rapport は回避される。

Samo Tomšič は、これを次のように叙述している。

《矢印が示しているのは、資本の言説は全体化の不可能性 (動作主と他者との間の impossible)の「排除」を基盤としていることである。他の諸言説(四つの言説)は、全体化の不可能性に特徴づけられており、それは次の事実に決定づけられている。すなわち、シニフィアンは差異の開かれたシステムを構成するという事実に。》(Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious, 2015)

とりわけ、標準的な四つの言説において、「真理」のポジションは、矢印によって標的になっていない。そして「動作主」と「他者」のポジションは、二つの(相互的に関係性しない)他のポジションによって影響を受けている。それが、言説の機能を構造的に逸脱させる。

実際に、資本の言説の構造的特徴は、四つのポジションは元のままでありながら、矢印によって作り上げられる進路は変わっている。すべてのポジションに一つの矢印が到達する。従って、矢印の閉じられた円環が形成される。四つの言説を特徴づけていた構造的逸脱は、見出されない。言わば車輪のように廻る(無限∞の形になっている:引用者)。……

…資本の言説において、主体性は腐蝕させられる。これについての主要な構造的理由は、$ と a との間の距離が喪われていることである。すなわち、剰余享楽に固有の、身体上の緊張が主体を混乱させる。(Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016, pdf


さらに注目すべきは次の叙述である。



(資本の言説における)$ から S1 への動きは、主体の分割の構造的質の否認をもたらす。資本の言説は主体の分割から出発する。しかし、S1 に向かう動きが暗示するのは、主体の分割は、主人のシニフィアンへの疎外(同一化)を通して克服されうるということである。

これは倒錯的運動を物語っている。《倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する que le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, 》(ラカン、S18)

資本の言説においては、S1 は主体の穴を補填するように促されている。

どちらの場合も、主体の穴は埋め合わせ可能だと信じられている。この理由で資本の言説はしばしば一般化された倒錯の用語で叙述される(Mura, 2015)

《主体の分割$は、主人のシニフィアンS1への疎外(同一化)を通して克服されうる》とある。これはまさに主体と主人のシニフィアンの合体のことを言っている。

このStijn Vanheule=Andrea Muraの指摘は、上に引用したラカンの《主体ー主人が真理のなかで、sujet-Maître dans une vérité》《それ自体、等価 égalité à soi-même》(S17)、という文とともに読むことができる。これが資本の言説の特徴のひとつである。

すなわち、真理のなかで主体 sujet=主人 Maître となることは、

・自己という小さな主人 petit Maître, comme « moi »(S17)
・主人の小さな市場 le petit marché du Maître (S17)
・ 〈私〉支配 «je-cratie » (S17)
・S1に支配されたマヌケcon-vaincu(S20)

であり、ボククラシーの言説が、資本の言説の際立った特徴ということになる。

何度か記しているが、資本の言説という用語に惑わされてはならない。この意味はまずは、後期資本主義の生産様式の時代、あるいは消費至上主義の時代に育った(多大な影響を受けた)人々の言説(社会的つながりの仕方)ということである。もちろん1980年代には、おそらく大量消費社会にかかわっただろう、「新人類」という言葉が流通していたのだから、わたくしも免れている筈はまったくない。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり)の機能を作り上げるものである。

Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social(ラカン、 Milan, le 12 mai 1972)

こうして資本の言説の図式は、実は次のように変奏して記せるのではないか(この図は、わたくしの知る限り、誰もそう図示していないが)。





この図は、マルクスのM-C-M' (資本ー商品ー資本+資本)と等価である(参照:フロイトの「資本」論と「快の獲得」)。

これがボククラシーの言説であり、わたくしがかねてから「ボク珍の言説」と呼んでいるものと等しい・・・別名、夜郎自大の言説とも呼ばれる。現在、この言説がいっそう猖獗しているのは明らかである。

ところで、いま示した資本の言説の変形版は、藤田博史氏による想像的ディスクール(日本的幻想)の図と類似した構造をもっている。


セミネール断章 2013年 5月11日講義より


ラカンはセミネール18で、われわれの現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」であるといっている(前期ラカンの見せかけの定義に反して)。そもそも「シニフィアンはすべて見せかけである」(ミレール)。とすれば、 S2≒As(Autre semblant)である。こうすれば藤田マテーム φーAsー-φとは、次のように記せる。



これはイマジネールなボク φ が、見せかけAsを介して、イマジネールなオチンチン-φとお話しするという図式であり、まさに倒錯の言説(資本の言説の変形版)と相同的である(イマジネールな他者(オチンチン)とは、ようするに「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちのことである)。

この図は藤田氏が次の図式の中段にて示していることと、ほぼ等価のはずである。




…………

何も一人称単数代名詞を使用していけないわけではない。だがそれは象徴的なシニフィアンに過ぎず、〈この私〉とはけっして一致しないことを常に心得ておくこと。それが、《〈私〉支配 je-cratie》の言説から《横にずれる存在 être à côté》(S20)へと逃れる最初の手蔓であるだろう。

・ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。

・人称代名詞と呼ばれている代名詞。すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私〔je〕」は想像界を発動し、「君〔vous〕」と「彼〔il〕」はパラノイアを発動する。……『彼自身によるロラン・バルト』ーー「ロラン・バルトのなかのフロイト・ラカン」)

だがこんな考え方はもはや通用しない世界になってしまっているように思える。現代では次のような図式の形態にてマガオで振る舞う人物が、日本の代表的「思想家」らしいから。




本書でぼくが言おうとしているのは、観光客とは小さな人類学者であるべきだという提言として要約できるのかもしれない。(東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』)

東浩紀氏の「小さな人類学者」とは、おそらくラカンの次の表現のほうがもっとふさわしいのではなかろうか?

・自己という小さな主人 petit Maître, comme « moi »(S17)
・主人の小さな市場 le petit marché du Maître (S17)
・ 〈私〉支配 «je-cratie » (S17)

さらに言えば、次の道のりをしっかりと歩んでいるとも憶測される。

・S1に支配されたマヌケcon-vaincu(S20)
・S1を自己だと思う狂人con (S2)

浅田彰は、かつて《他人の評価に飢え取り巻きを作り褒められ安心したい僕を見て褒めてのヒステリー君》と要約される東浩紀への評言を吐いたが、まだ単なる「ヒステリー君」であるなら「すくい」があったのではなかろうか・・・なにはともあれ、藤田スキーマにおける想像的オチンチンのレスポンスが彼の原動因に近似したものになっているように(すくなくともツイッター上の振舞いをうかがう限りは)感じざるをえない。すなわち時代の典型的症状の体現者である(だが批評とは、何よりもまず時代の症状を批判し、その症状という釈迦の掌の上に乗っている猿ーー誰もが免れがたい猿としての〈私〉ーーを自己吟味することではなかったか)。

浅田彰)  …僕はレスポンスを求めないために書くという言い方をしたいと思います。 東浩紀さんや彼の世代は、そうは言ったって、批評というものが自分のエリアを狭めていくようでは仕方がないので、より広い人たちからのレスポンスを受けられるように書かなければいけないと主張する。… しかし、僕はそんなレスポンスなんてものは下らないと思う。

蓮實重彦) 下らない。それは批評の死を意味します。

――中央公論 2010年1 月号、「対談 「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦+浅田彰)

他方ここで、人類学者のレヴィ=ストロースの文を想い起しておこう。

私は旅や探検が嫌いだ。それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている。だが、そう心に決めるまでにどれだけ時間がかかったことか!(……)

研究の目的に到達するために、これほどの努力とむだな消耗が必要だということは、私たちの仕事のむしろ短所とみなすべきで、なんらとりたてて賞賛すべきことではない。私たちがあれほど遠くまでさがし求めにいく真理は、このような挟雑物を取り去ったのちに、初めて価値をもつのである。(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』川田順造訳)

レヴィ=ストロースの言っていることを、ラカンの四つの言説の構造に当てはまれば次のようになる。



…………

ところで、資本の言説が倒錯の言説(社会的つながり)だとして、どうして倒錯で悪いのか、と素朴に問うこともできるだろう。たとえばドゥルーズは「倒錯」を顕揚したではないか、と。

それについては、「倒錯者の言説(マゾヒストの言説)」にいくらか記した。ここでは「個人の症状」としての倒錯のポイントとなる二つの文だけ再掲しよう。

臨床的叙述が何度もくり返して示しているのは、倒錯的シナリオは権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。この権力は純粋に身体的次元には限定されない。さらに先に進んで、倒錯者はとてもしばしば、快楽の新しい倫理の唱導者となる。したがって彼は、自らの権力の掌中となる取り巻き連中を創造する。(ポール・バーハウ、2001,Paul Verhaeghe、PERVERSION II)
ほとんどの事例で、男性の倒錯者は、彼が事態を支配しなければならないとしてさえ、大他者の全的享楽の対象として自らを表す。女性の倒錯者は母のポジションから出発する。その意味は、彼女は自身の欠如を埋め合わせる対象として他者を定義づけるということである。(……)

要約しよう。母は自分の子供を想像的ファルスの位置に保ったままにする。父は受動的観察者の位置に還元される。母の想像的ファルスの位置に同一化した息子は、大他者の位置にある他者に対して同じ過程を能動的に反復する。娘は彼女自身の子供に焦点を当てる傾向がある。こうして原初の過程を反復する。(同 Paul Verhaeghe、PERVERSION II,PDF


2017年4月7日金曜日

四つの不可能な仕事と四つの言説+倒錯の言説(資本の言説)

分析 Analysierenan 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な」職業 »unmöglichen« Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育 Erziehen することと支配 Regieren することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ラカンの四つの言説とは、フロイトのいう「支配」・「教育」・「分析」の三つの不可能な仕事に、もうひとつ「欲望」を付け加えたものである。すなわち支配(主人の言説)、教育(大学人の言説)、分析(分析家の言説)、欲望(ヒステリーの言説)。

主人の言説とは、人が命令モード・指図モードに入れば誰でもその言説になる。ヘーゲルの主-奴(S1-S2)に基づいて言えば、奴隷から知を《盗み取り、奪い取り、かすめ取る le vol , le rapt, la soustraction》(S17)言説である。

大学人の言説とは、教育機関の「大学」とはまったく関係がない。教えるー学ぶの関係における教える側の立場に立った言説はすべて大学人の言説であり、専門家・知識人・侍僕(奴隷)の言説ともされる。官僚の言説もそうだし、旧財閥の番頭の言説もそうである。

分析家の言説とは、精神分析臨床だけの話と考えてしまいがちだが、人が沈黙で他者に対応すれば、分析の言説と同じ機能を生む場合がある。それは《言説のヒステリー化 hystérisation du discours》(S17)を促す立場に立つことであり、たとえば次の例において、妻は分析家のポジションに立っている。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。(ジジェク、2012)

ヒステリーの言説とは、要求、不平不満の言説とされるが、人が問いかけモードにはいればヒステリーの言説である。主体を悩ます事柄への答え(S1) を持っていると想定される「他者」を探し求める態度である。

ヒステリーの言説とは、ラカン派では次のシェイクスピアの文がその典型事例とされてきた。

「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」“You say I am your beloved – what is there in me that makes me that? What do you see in me that causes you to desire me in that way?”(シェイクスピア『リチャード二世』)

そもそもヒステリーは精神分析を生んだ。だがヒステリーという言葉に騙されてはならない。

私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだ[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Lacan,Le séminaire ⅩⅩⅣ、1976,12.14)

ここでGÉRARD WAJEMANによるヒステリーの言説の古典的な定義を掲げておこう。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」私訳)

われわれの言説(=社会的つながり)は、四つの言説のどれかに(基本的には)当てはまる(まずはここでは「資本の言説」には触れない)。当てはまらないのは、純粋な精神病者であり、《精神病者は言説外 l'hors-discours de la psychose》(Lacan,l'étourdit 1973)とされるが、あくまで「純粋な」精神病者(緊張型分裂病、カナー的自閉症等)であり、それ以外の精神病者症者が、言説外ということではない。

あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的に超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2008)
分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)

言説に特徴的なことは、見せかけ semblant で《享楽の覆い voilement de la jouissance》をすることである。その結果、享楽はもはや《制御不能 incontrôlée》で《勝手気まま caprice なもの》(参照)ではなくなる。そのやり方は、見せかけのポジションを占める四つの要素(S1,S2,$,a)によって条件付けられる。この方法において、《社会的つながり lien social》が作り上げられる。


言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。

Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social. (Lacan, ミラノ、1972)

ところで見せかけの底にある「真理」と言われるものは何か? 



ジャック=アラン・ミレールの注釈では次の通り。

すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的紐帯 lien social の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性関係の不在という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ミレールの別の言い方を参照するなら、ラカンの《精神病者は言説外 l'hors-discours de la psychose》(1973)に反して、緊張型分裂病 catatonia以外は、なんらかの形で「社会的つながり」=「言説」があるという理解をわたくしはしている。

神経症においては、我々は「父の名」を持っている…正しい場所にだ…。精神病においては、我々は代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ…。「ふつうの精神病」においては、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ…。とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病 catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている…。その何かが主体を逃げ出したり生き続けたりすることを可能にする。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited、私訳)

ところでミレールの文には《社会的紐帯(社会的つながり lien social) の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である》とあった。

一方の「性関係の不在」はラカンのテーゼとして名高いが、他方の「話す身体」とは何か?
現実界は…話す身体 corps parlant の神秘 、無意識の神秘である。Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  (S20)
言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体 le corps parlantとは、自ら享楽する身体 un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF

…………

さてここで四つの言説の図式を掲げておこう。主人の言説をベースにして、回転させれば他の三つの言説になる。



この四つの言説の基盤となる形式的構造には、agent(動作主)、autre(他者)、verite(真理)、produit(生産物)があり、この空箱に、S1(支配)、S2(教育)、$(欲望)、a(分析)が入ることになる。



この形式的構造のヴァリエーションとして次のものがある。

(S17, 18 Février 1970)


ーー動作主(agent)のポジションが、「欲望」となっている。ヒステリーの言説がわれわれの社会的つながりのデフォルトだとされているとも捉えうる。ここでフロイトの「強迫神経症はヒステリーの方言」という言明を想い起しておいてもよいだろう。男性の論理である主人の言説、大学人の言説は、強迫神経症者の言説と相同的である(フィンク、1991)。

ジジェク2012は、ラカン理論の華である「四つの言説」と「性別化の式」の統合の試みをしているが、以下の図の上段が男性の論理、下段が女性の論理である(参照:性別化と四つの言説における「非全体」)。





次の図には、semblant(見せかけ)とあるが、《見せかけでない言説はない D'un discours qui ne serait pas du semblant 》(S19)、《言説自体、いつも見せかけの言説である le discours, comme tel, est toujours discours du semblant》(S18)であり、agent(動作主)はすべて見せかけである。


(S19, Jeudi 03 Février 1972)

《言説自体、いつも見せかけの言説である》とは、社会的つながりは、いつも見せかけであるという意味である。もちろんここでよく知られたシェイクスピアの「人間皆役者」を引用してもよい。

この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』)

すなわち、現実世界は舞台(見せかけの世界)であり、人間は皆役者(見せかけ)である。

だが注意しなければならないのは、 《真理は見せかけと反対のものではない La vérité n'est pas le contraire du semblant》(S18)ことである。

精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール)

揺らめかせば、真理が現われる。これはたとえば詩人たちがやっていることである(参照:柿の木と梨の木)。

エクリチュールとは結局のところ、それなりの悟りなのである。悟り(「禅」におけるできごと)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺るがせるものである。つまり、悟りは言葉の空虚を生じさせてゆく。そして、言葉の空虚こそがエクリチュールをかたちづくる。

le satori (l'évé-nement Zen) est un séisme plus ou moins fort (nullement solennel) qui fait vaciller la connaissance, le sujet : il opère un vide de parole. Et c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture ; (ロラン・バルト『記号の国』)

次のラカンの発言ももちろん、見せかけの揺らめかしにかかわる。

ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…

Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez (ラカン、S24. 17 Mai 1977).


さて四つの言説の基盤となる形式的構造に戻るが、上にあげた以外にも、Patrick VALAS版の Lacan, 「La troisième(三人目の女)」には次の図がある。

(La troisième, 1974)

そしてこの図の右横に次の図が掲げてある。






それぞれの言説の対象aの意味が記されているが、ラカン自身の説明はない。だが、この記述はとても面白い。

ラカンの四つの部分対象(口唇oral、肛門anal、声vocal、眼差しscopique)は、ジジェク2012("LESS THAN NOTHING")によれば、要求/欲望の軸と、〈他者〉へ/〈他者〉から、の軸の四角形のなかに、それぞれ次ぎのように位置づけられる。 



・口唇欲動は、〈他者〉へ要求する(私から母へ、私の欲しいものを下さいという要求)。

・肛門欲動は、〈他者〉から要求される(母から私へ、規則正しく糞便をしなさいという要求)

・眼差し(視姦)欲動は、他者への欲望である(私に見せて!)。

・声の欲動は、他者からの欲望である(母は私から欲しいものを告げる)。

…………

さて、われわれの社会的つながりは、ある時期のラカンが言ったようにほんとうに、支配(主人の言説)、教育(大学人の言説)、分析(分析家の言説)、欲望(ヒステリーの言説)の四つのどれかに当てはまるのだろうか。

ここで資本の言説、五番目の言説と呼ばれるものに視線をやる必要がでてくる。


この主人の言説から倒錯の言説への移行は、三つの「突然変異」がある。

① $ とS1 は場所替えをしたこと。

② 左側の上方に向かう矢印ーー古典的言説では到達不能の「真理 vérité」を示す--が、下方に向けた矢印に変更されたこと。

③「動作主agent」と「他者autre」との間にあった上部の水平的矢印が消滅したこと。これは不可能性 impossible の迂回でもある。

資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)

ラカンにとっての去勢とは、フロイトの想像的去勢とは異なって、象徴的去勢である。

・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique

・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (Lacan,S17)

すなわち、言語によって去勢されていることを拒絶する態度がーー厳密さを期さずに言ってしまえばーー、「去勢の排除」である。

人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)

現在のラカン派では資本の言説の特徴を、この去勢の排除(精神病)ではなく、去勢の否認(倒錯)ととる見方が主流である。

資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDFーー「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」)

ラカンの倒錯の定義のひとつは次の通り。

…私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想の 裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、己れを対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S.11)

幻想の式 $ ◊ a の読み方(の一つ)は、「シニフィアンの象徴的効果によって分割された主体は、対象 a と関係する」である。倒錯においては、この幻想の式が裏返される。すなわち、 a ◊ $。

倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre(ラカン、S18)

「資本の言説」の特徴のすくなくとも一つは、間違いなく「倒錯の言説」である。日本では「上から目線」(支配の言説)がことさら嫌われるが、他方、それに対抗するものとして猖獗している「下から目線」の語りとは、構造的には倒錯の言説である。

資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)

もっともジジェクはかねてから、分析家の言説自体が、対象aの両義性を考慮すれば、「倒錯の言説」とも捉えられる、という観点を提示している。これもすぐれた洞察だろう。

倒錯の言説の公式は、分析家の言説の公式と同じである。ラカンは倒錯をひっくり返した幻想として定義した。ラカンによる倒錯の公式は a – $ であり、それはまさに分析家の言説の上部にある。

倒錯者と分析家の社会的紐帯 social link のあいだの相違は、ラカンにおける対象a の根源的な両義性に根ざしている。対象a は、一方でイマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、他方でこの囮が曖昧化されたもの、囮の背後にある空虚である。

このようにして、我々が倒錯から分析家の社会的紐帯へと移行するとき、エージェント(分析家)は自身を空虚に還元する。空虚、すなわち主体を彼の欲望の真理に直面するように誘い込む空虚である。(ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)

さてこのようにして、われわれの社会的つながりは、支配(主人の言説)、教育(大学人の言説)、分析(分析家の言説)、欲望(ヒステリーの言説)の四つに加えて「倒錯的」つながりがあるということになる。

これでほぼ網羅できるのではないか。われわれ人間がやっていることのすべては。

わたくし自身は資本の言説をそのまま「倒錯」と捉えるのではなく、主人の言説領野に四つの言説があるように、資本の言説にも四つの言説があるのではないか、という想定を今のことろしているが、これはたんなる思いつきの範囲にすぎない。



すなわち消費者の言説、市場の言説、倒錯の言説、プロレタリアの言説である(資本の言説はもともと無限∞の形になっているので、出発点を変えたら上のように読めるというだけでありーー四つの言説それぞれとは異なりーー本質的なマテームの動きの意味合いはすべて同じではある)。

社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。つまり個人レベルでは、誰もが「社会的つながり lien social を築く言説」、換言すれば「見せかけ semblant」をもっていない。これが、マルクスがたぐい稀なる仕方で没頭したことである。

Y'a qu'un seul symptôme social : chaque individu est réellement un prolétaire, c'est-à-dire n'a nul discours de quoi faire lien social, autrement dit semblant. C'est à quoi MARX a paré, a paré d'une façon incroyable.(LACAN La troisième 1-11-1974 )

上の図のように想定した理由は、今引用した文以外に、ラカンの《主人の小さな市場 le petit marché du Maître 》(S17)や《市場の絶対化 absolutisation du marché》(S16)、《科学と奇妙な交接した資本の言説 le discours du capitaliste avec cette curieuse copulation avec la science》(S17)、という表現にかかわるが、それ以上に次の「Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016、pdf」の記述によるところが大きい。

資本の言説が意味するのは、「市場(S1)」において交換価値に則って商品やサービスを購買する「消費者 ($) 」である。

しかし、いったん消費者が商品やサービスを所有あるいは消費してしまえば、交換価値は使用価値に還元される。

「消費者が所有するS1」は、「彼の世界を構成する他の諸シニフィアン(S2)」との対話に至る。

これは快楽や達成感をそれほど生まない。むしろ酔いさましの過程である。結局、消費財は諸々の人工加工物のなかの一つの人工加工物である。諸シニフィアンの中の一つのシニフィアンである。(……)

市場にまだあって購買するときには価値を持っていた何ものかは、消費者が所有したときにはもはや消滅する。商品は望まれた満足を提供しない。

期待された魅惑は喪われる。そのときの「生産物」は屑 aである。

生産されたものは、剰余享楽(残滓a)であり、次の段階で、不快やパニックの火をつける。a から $ への矢印が明瞭化しているのは、対象a が主体を混乱させることである。それは再び $ から S1 への動きを生む。従って、以前の消費がもたらした不満に対する「資本の言説」の応答とは、「もっと消費せよ!」である。

資本の言説において真に消費されるものは、欲望自体である。(……)

資本の言説同じように、ヒステリーの言説において、主体は対象a に情動化されている。しかし、資本の言説で起こることとは対照的に、$ はまたS2によって決定づけられている。これが意味するのは、剰余享楽の地位にある無意識の知をともなった無意識の知が、主体を決定づけることである。

逆に、資本の言説においては、そのような決定因は不在である。Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016、pdf


Stijn Vanheuleの文にあるヒステリーの言説と資本の言説との対比は次の図を見比べればよくわかる。




《資本の言説において真に消費されるものは、欲望自体である》とあったが、これはラカンの次の叙述が裏付ける。

欲望の搾取、これが資本の言説の偉大な発明である L’exploitation du désir, c’est la grande invention du discours capitaliste(Excursus, 1972)

ーー当面以上だが、資本の言説と倒錯のかかわりにかんする叙述が不十分であり、それについてはそのうち(おそらく)いくらか詳述する。

ラカン派的観点からいえば、最も肝要なのは、われわれは自らの「社会的つながり」において、どの言説に囚われているのかを、問うことである。それは論文であれ、ツイートであれ、ブログ記事であれなんでもよい。

わたくしのこの記事はもちろん大学人の言説S2である。ラカン派ドグマに囚われているのだから。

大学人の言説は、知 (S2)の発布の上に構築されている。この知は、「ドグマと仮定 」(S1)の受容の上に宿っている。しかしこのドクマと仮定は、この言説において無視されている。特徴的に、「他者」は対象a(欲望の対象-原因)の場に置かれる。これは不満($)を生む。そしてさらなる知の創造(S2)を刺激する。 (Stijn Vanheule、2016ーー基本版:「四つの言説 quatre discours」

そしてこのように自らのテキストS1に疑念を呈することは、ヒステリーの言説$へ移行を試みていることになる($→S1)(ラカン派観点からはデカルトでさえおおむね大学人の言説である。なぜなら見せかけのS2(知の言説)の支えとして、S1(神)を必要としたのだから)。

セミネール20(アンコール)の第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から$ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ l'amour c'est le signe de ce qu'on change de discours と。その考え方とともに、あとはよろしく!(ポール・バーハウ,1995、From Impossibility to Inability. Lacan's Theory of the Four Discourses,Paul Verhaeghe)



2017年4月3日月曜日

基本版:「四つの言説 quatre discours」

以下、「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」のベースとなるラカンの「四つの言説」の最も初歩的な理解のための基本版である。ポール・バーハウ1995をベースにした叙述をかかげるが、このバーハウの論文は、ジジェクが「奇跡」書と呼んだ「 DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE,1999,PDF)」にも同様の叙述がある。

※中級基本版としては、「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」」を参照のこと。さらに四つの言説とマルクスの価値形態論とのつながりは、「価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)」を見よ。


【四つの言説とは】
四つの言説理論、この理論は疑いもなくラカンの形式化の最も重要な部分である。言説理論は、手短かに言えばーー人は知らず自分にとってはーー、ラカン理論の頂点である。

勿論これが意味するのは、四つの言説理論はとても密度が高くそのためひどく難解だということだ。同時に、いったんその内的論理を把握してしまえば、とても理解しやすく扱い易い。(……)

さて、よく知られた事実から始めよう。コミュニケーションという考え方は、この25年の間に多くの異なった領野で注目の焦点となった。それは「人間関係」から始まって電子工学、遺伝子工学にまでに亘る。いわゆるコミュニケーション理論においては、種々の異なった局面を特徴づける一つの統一した目標がある。すなわち、コミュニケーションを完璧な標準に至るまで育てたい、メッセージが送り手と受け手のあいだを自由に流通するよう、どんな種類の「雑音」をも取り除きたいというものだ。

これらの理論を支配する基礎的な神話は、どんな失敗もない完璧なコミュニケーションの存在に関わる。これらの理論は元々の言説(ディスクール)概念とはひどく異なる。その元々のディスクール概念とは、ミシェル・フーコーが1970年12月、コレージュ・ド・フランスでの就任スピーチで新しく作ったものだ。

彼にとって権力と言説あいだにはとても特別な関係がある。ある言説の影響力はほかの言説にそのシニフィアンを課すことによって鮮明になる。例えば湾岸戦争のあいだの爆撃が、「外科的精度」によって実現された「外科的手段」と表現されたとき、この隠喩は医学の言説の権力の表現である。というのは自らの「正当な」領域外で使用されているのだから。

この観点からは、言説の分析は権力の進化における歴史的研究の枠組内でとても役立つ道具である。それがまさにフーコーのやりたかったことだ。ところが今では全く異なった何かになってしまった。

ラカン理論はこの二つのどちらとも関係がない。彼の理論は、コミュニケーション理論自体とさえラディカルに反していると言える。実に彼はコミュニケーションは常に失敗するという仮定から始める。しかも失敗しなければならないと。それが我々が話し続ける理由であり、もし互いに理解してしまったら、我々は皆沈黙したままであり、幸運にも我々は互いに理解し合えないから相互に話し合うと。

言説は数多くの線を拡げる。その線に沿ってコミュニケーションの不可能性が起こり得る。これがフーコー理論との相違をもたらす。その言説理論において、フーコーはシニフィアンの具体的素材とともに作業をする。そこでは言説の内容にアクセントが置かれている。

ラカンは逆に内容を超えて作業し、発話行為から導き出された言説の形式的関係にアクセントを置く。これが意味するのは、ラカンの言説理論は先ずはどんな話された言葉からも独立した形式的システムとして理解されなければならない、ということだ。

言説は具体的に話されたどんな言葉以前に存在する。その上こうも言える、言説は具体的な発話行為を決定する、と。この断乎たる信念がもたらされたのはラカンの基本的な仮定の反映による。すなわちどの言説も特定の社会的絆によってもたらされた基底となる関係性の輪郭を描くという仮定である。

四つの言説があるように、四つの異なった社会的絆がある。先に進む前にふたたび強調したいのは、いずれの言説もア・プリオリに空無であることだ。それらは特定の形式をもった空のバッグ以外のなにものでもない。その形式自体が人がバッグに入れる内容を決定する。肝要なことは、このバックはほとんど何でも包含しうることである。(ポール・バーハウ1995、FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES、Paul Verhaeghe、PDF

…………

以下、Paul Verhaegheの同僚で、共論文もある Stijn Vanheuleによる2016年の論から「四つの言説」をめぐる簡明な叙述を掲げる。


【四つの言説 quatre discoursの 基盤構造】

四つの言説における本質は、欲望する「動作主 agent」は、「他者 autre」に呼びかけるということである。それは、上部の水平的矢印によって示されている。「動作主」から「他者」への動きにおいて、我々は社会的絆を作り出す人間の傾向を認める。

しかしながらここでラカンは、人間相互関係におけるロマン派的観点の類を表現しているのではない。そうではなく、「動作主」と「他者」との間の関係は、「不可能性という乖離」(Verhaeghe, 2004; Bruno, 2010)によって徴付られていることを強調している。すなわち、動作主が送るメッセージは、意図されたようには決して受け取られない。………(Stijn Vanheule、2016)




定式の下部は、言説の隠された側面を強調している。左下の最初のポジションは、「真理 vérité」である。それは「動作主」のポジションに上方向きの矢印で繋がっている。この矢印が示しているのは、所定の言説において、動作主によって為される全ての言動は、隠蔽された真理の上に宿っているということである。

事実、すべての言説の特徴は、抑圧された要素が動作主の言動を動機付けていることである。この抑圧は、言説上部に表象されている社会的絆の可能性をもたらす。類似した形で、「真理」は「他者」のポジションへの効果を持つ。それを、ラカンは付加的な(斜めの)矢印を描くことにより強調している。(右側の)下方向の矢印が示しているのは、動作主の他者への呼びかけは、効果を生むということである。すなわち「生産物 produit」が作り出される。この生産物は、動作主に刺激を与える(右下から左上への斜めの矢印)。しかし「生産物」は、言説の動因である「真理」との関係において乖離 impuissance がある。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis,2016,pdf)

…………

ここで、Serge Lesourd、2006による、より具体的な記述も補足として掲げておく。




動作主は他者に話しかける(矢印1)、動作主を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、動作主に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は動作主へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Serge Lesourd, Comment taire le sujet?, 2006 )

…………

以上、四つの言説の基盤にある形式的構造の簡潔な二つの注釈を掲げた。

この形式的構造の基盤の上に四つの言説がある。




ここでふたたび Stijn Vanheule、2016による「四つの言説 quatre discours」それぞれのとても簡潔な注釈を掲げる。

【主人の言説 Discours du Maître】


主人の言説においては、主人のシニフィアン(S1) が「動作主」によって形成される。そして主人のシニフィアンは、知(S2)によって機能すると想定された「他者」に課される。

このような支配的動きは、主体の分割($)の抑圧の上に宿っている。そして「生産物」として、他者は対象a のポジションに還元される。

例えば、療法士が恐怖症の顧客に告げるかもしれない、「勇敢になりなさい (S1) 」と。そして患者が恐れる多数の人に直面しなさいと。その指令は、人が集団のなかでいかに振舞うか (S2)についての特定の教訓を固守することによってなされる。

このような指令的スタイルを適用することにより、療法士は、社会的状況における自らの不確定性 ($) を脇に遣る。そして患者は療法士に従うことで、社会的相互作用のゲームにおける人質に還元される。それは最終的にさらなる不満(a) を生産し、新しい指令 (S1)の形成を引き起こす。


【ヒステリーの言説 Discours Hystérique】



ヒステリーの言説に中心的なあり方は、不平不満 ($) の能動的形成である。そして、主体を悩ます事柄への答え(S1) を持っていると想定される「他者」を探し求める。この言説は、すべての欲望は軽減されえない欠如(a)の上に宿っているという「真理」を抑圧している。そして典型的には、ナラティブ(S2) の「生産物」を生み出す。それは根源的欠如(a)を解決せず、さらなる苛立ち ($)を引き起こす。


【大学人の言説 Discours Universitaire】



大学人の言説は、知 (S2)の発布の上に構築されている。この知は、「ドグマと仮定 」(S1)の受容の上に宿っている。しかしこのドクマと仮定は、この言説において無視されている。特徴的に、「他者」は対象a(欲望の対象-原因)の場に置かれる。これは不満($)を生む。そしてさらなる知の創造(S2)を刺激する。


【分析家の言説 Discours de l’analyste】




最後に、分析家の言説において、動作主としての分析家は、論理的に a と表記される、いわゆる対象a として、「他者」に直面する。この対象a は、欲動あるいは享楽に関係した残余(S16: « Je » de la jouissance を参照)を示す。それは名づけ得ないものであり、欲望を刺激する。例えば、分析家の沈黙ーーそれは、相互作用における交換を期待している分析主体(被分析者)をしばしば当惑させるーー、その沈黙は対象a として機能する(Lacan, S19, p. 25)。

分析家は対象a のポジションを占めることにより、自由連想を通して、主体の分割($) が分節化される場所を作り出す。分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された「観念と病理」 (S2)を脇に遣る。こうして分析主体(被分析者)の主体性を徴す鍵となる諸シニフィアン S1 が形成されうる。それは、分析家の対象a としての立ち位置を刺激する。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis,2016,pdf)

…………

【補足】

最後にポール・バーハウ1995に戻って、初歩的な理解を補う叙述を抜き出しておく。

今日の主要な話題はヒステリーなので、ヒステリーの主体を吟味してみましょう。もちろん彼もしくは彼女はコンサルティングルームにやって来ます、典型的なヒステリーの言説ですね($ → S1)。その言説だと他者は主人のポジションととることを余儀なくされます。そして知 S2 を垂れ流して去勢されることに終わります。他方、同じヒステリーの主体が主人の言説をもってその場面に現われることもあります。それは格別異例のことではありません。この場合、患者は自身を彼、もしくは彼女の主人、すなわち主人のシニフィアンの症状と同一化しています。他者はそのシニフィアンについての引受人として機能することになります、すなわち主人のシニフィアンについての知を持っているものと想定されるわけです。「わたしは産後うつ病になっています。わたしは産後うつ病なんですの。先生はそれについて知っている(S2)専門家ですわね。さあどうぞ! わたしを治してください。先生のお好きなように。ただしわたしは主体としてのゲームに入り込む気はありませんからその限りで。」(S1 → S2)

三番目に、同じヒステリーの主体は大学人の言説でやってくることがあります。彼もしくは彼女はすくなからぬ知識を持ってわたしたちを印象づけます。その知識をもって彼もしくは彼女は他者を強制的に沈黙した対象に陥れます(S2 → a)。そのことによって彼もしくは彼女は、真理のポジションにおかれた隠された主人を見つめることを避けようとします(S2/S1)。このようにヒステリー者をヒステリーの言説にのみに転化させるのは間違っています。これはすべての言説に言えます。「真理は半分しかいえない le mi-dire de la vérité」のですから、車輪は回り続けています。セミネール20(アンコール)の第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から$ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ l'amour c'est le signe de ce qu'on change de discours と。その考え方とともに、あとはよろしく!(ポール・バーハウ,1995、From Impossibility to Inability. Lacan's Theory of the Four Discourses,Paul Verhaeghe)



古典的事例、Jean Clavreulによって研究されて以来の例は、医師の言説にかかわる。医師は主人のシニフィアンとして機能する。彼は主体として分割されていない者として振る舞う。彼の分割は底部に位置する、すなわち隠された真理の部分に(S1/$)。

医師が主人のシニフィアンとして機能するとき、彼は患者を彼の知の対象に還元する(S1 → S2)。

彼が使う用語がそれを示している。例えば患者を「心不全症者」と言及するとき。この言説の正味の結果は失われた対象である。この意味は、主人は決して彼の欲望の原因を想定できないということだ、もちろん彼がこの言説内部にとどまっている限りでだが。

もし彼が欲望の原因を想定したいのなら、別の言説へと移行しなければならない。が、その瞬間から、彼はもはや以前の言説内部では機能しえない。

例えば、私の患者の一人は腫瘍学者であり、彼は癌患者としての彼の父に直面した瞬間、腫瘍学者としてのキャリアを中断しなければならなかった。その瞬間、彼は分割された主体としての己れの存在に呆然自失したのだ。彼の絶え間なく遠のいていた真理と遭遇したということである。そして彼は向きを変えて主人のシニフィアンを探し求めた( 主人の言説 S1 → S2 を45度時計回りに回転させれば、$ → S1となる)。その主人のシニフィアンが彼に満足した答を提供してくれるようにと。彼は主人の言説とヒステリーの言説を交換しなければならなかった。そのとき彼は本当に分析を始めたのだった。(ポール・バーハウ、1995)