彷徨える過剰は存在のリアルである。L’excès errant est le réel de l’être.(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ])
《彷徨える過剰 L’excès errant》とはなんと美しい表現だろう。わたくしはバディウは読まないが、ジュパンチッチがそのバディウ小論にてこの表現をとりあげて「彷徨えるユダヤ人 Le Juif errant みたい!」と言っている。
ジュパンチッチはマルクスの言葉を出していないが、人は「彷徨えるユダヤ人 Le Juif errant」--19世紀の小説の題名であるーーときいたら、もちろんエピクロスの神々のことを想起しなければならない。
本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またポーランド社会の気孔の中でのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所に存在するだけである。(マルクス『資本論』)
ネット上をすこしだけさぐるとバディウの「彷徨える過剰」は、カントールの「彷徨える境界」から来てると言っている人もいる。バディウはその著書のなかでは「出来事」を「状況に対して過剰なもの」と言っているそうだ。
いずれにせよ、わたくしは彷徨える過剰が好きなのである。
常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a) (ラカン、S20、16 Janvier 1973)
「私」とはシニフィアン「一」である。わたくしと口に出すたびに生じる「彷徨える過剰a」が「私」の好みなのである。バディウは別に《l'Un n'est pas》(一は一ではない)等々と言っているが、すべての言葉には彷徨える過剰がある。 数学以外には「一」はない。いや、人はフレーゲやカントールをせめて掠め読むぐらいはして、数学に一があるのだって疑わなければならないのかもしれない。
Il n'y a pas d'autre existence de l'Un que l'existence mathématique,(ラカン、S19, 17 Mai 1972)
で、ラカンによれば哲学者というのはこの彷徨える過剰に不感症の連中のことである。
対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. .(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)
ゆえにバディウは、《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら》と言っているわけである。
とはいえ哲学者とはもともと反哲学者である。すくなくとも20世紀以降の哲学者はだいたいそうらしい。
ハイデガーによれば、人間存在とは実存であり、「実存」という語は語源的 に「外に-立つこと(ex-sistence)」として解されえる。換言すれば、ハイデ ガーの見解では、人間存在は、実存的な(外に立ってある )もの、つまり、 その実存のあり方が正に外に立つ脱自(ecstacy)であるような存在者である。(ビジャン・アブドルカリミー、PDF)
外に-立つこと(ex-sistence)とあるので、ラカンの三界の定義をかかげておこう。
現実界 le réel は外立 ex-sistence
象徴界 le symbolique は穴 trou想像界 l'imaginaire は一貫性 consistance(ラカン、S22)
《現実界は外立する Le Réel ex-siste 》(S22) の定義における「外立 ex-sistence」 とは、上にあったようにハイデガー用語「外立 Existenz」の仏訳である。そして外立の語源は、ギリシア語の έκσταση であり、Ekstase (エクスタシー・脱自)である。
長いあいだ哲学を敬遠してきたわたくしは、ハイデガーももちろんまともに読んだことはないが、上の注釈文はなるほどと思わせる。ただしラカン的にはハイデガーの「実存」がそのままラカンの現実界であるかは疑わねばならない。一般にラカン派では、ハイデガーには身体、あるいは享楽がない、とされるのだから。欲動の現実界 le réel pulsionnel や身体の享楽 jouissance du corps がラカンの現実界の核心でもある。
ここでラカンは、フロイトの「快原理の彼岸」に従って「彼岸」という用語を使っているが、実際は彼岸ではないと解釈されることが多い。象徴界の非一貫性「内部」=穴に外立するのが現実界であり、身体の享楽であると。
ここで話を具体化させる。
人間存在にとって最も「外立的」な「具体的なもの」はなにか。ラカンは眼差しや声とした。
ドラ―のいうように眼差しよりも声がよりいっそう根源的なものでありうる。だが何かが欠けていないか。たとえば「におい」が。ひとは母のにおいを母胎内から嗅いでいる。
「むきたてのにおい」で女のにおいに魅せられることをめぐって記したが、あれはひょっとして始原的な母のにおい、その「彷徨える過剰」ではなかったか。すべての女には母の影が落ちている、それは誰でも(たとえ無意識的にせよ)知っていることだ・・・
長いあいだ哲学を敬遠してきたわたくしは、ハイデガーももちろんまともに読んだことはないが、上の注釈文はなるほどと思わせる。ただしラカン的にはハイデガーの「実存」がそのままラカンの現実界であるかは疑わねばならない。一般にラカン派では、ハイデガーには身体、あるいは享楽がない、とされるのだから。欲動の現実界 le réel pulsionnel や身体の享楽 jouissance du corps がラカンの現実界の核心でもある。
・夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。
・欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
ファルスの彼岸 Au-delà du phallus には、「身体の享楽 jouissance du corps」 がある(ラカン、S20, 20 Février 1973)
ここでラカンは、フロイトの「快原理の彼岸」に従って「彼岸」という用語を使っているが、実際は彼岸ではないと解釈されることが多い。象徴界の非一貫性「内部」=穴に外立するのが現実界であり、身体の享楽であると。
ここで話を具体化させる。
具体的なものを失わずに、 絶えずそこへと立ち返ってください。多様体、 リトルネロ、 感覚、 等々は発展して純粋な概念になりますが、それらはある具体的なものから別の具体的なものへの移行と緊密に結びついているのです 。(ドゥルーズ書簡ーー弟子筋のクレ・マルタン宛)
人間存在にとって最も「外立的」な「具体的なもの」はなにか。ラカンは眼差しや声とした。
ラカンは後年、眼差しと声を対象aの主要な化身として分離した。しかし彼の初期理論は眼差しが疑いようもなく特権化されている。だが声はある意味ではるかに際立ち根源的である。というのは声は生命の最初の顕現ではないだろうか?自身の声を聴き、人の声を認知する経験、これは鏡像における認知に先行するのではないか?そして母の声は最初の〈他者〉との問題をはらむつながりではないか?臍の尾に取って換わる非物質的な絆であり、最初期の生のステージの運命の多くを形作るものではないか?(ムラデン・ドラー、Gaze and Voice as Love Objects、私訳)
ドラ―のいうように眼差しよりも声がよりいっそう根源的なものでありうる。だが何かが欠けていないか。たとえば「におい」が。ひとは母のにおいを母胎内から嗅いでいる。
無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。( ……)
胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。( ……)味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。 (中井久夫「母子の時間、父子の時間」『時のしずく』所収)
「むきたてのにおい」で女のにおいに魅せられることをめぐって記したが、あれはひょっとして始原的な母のにおい、その「彷徨える過剰」ではなかったか。すべての女には母の影が落ちている、それは誰でも(たとえ無意識的にせよ)知っていることだ・・・
何かの機会に、化粧や香水などのにおいで薄められないままのあの女のにおいに襲われると、わたくしはいまでも外立=脱自(エクスタシー)に陥る。
三十路なかばのあの時代、わたくしはソレルスの次の文に出会った。
世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える。(ソレルス『女たち』)
人がすべて試験管ベービーとならないなら、世界は女たちのものであるのは今後も変わらないだろう。〈女〉というシニフィアンに生じる彷徨える過剰、それが人間の究極の真理である!