2017年6月30日金曜日

荷風と待合所

駅のホームの女のにおいの詩を「むきたてのにおい」にて引用したが、ここでは「駅の待合室」の荷風である。

昭和廿一年八月十六日。晴。殘暑甚し。夜初更屋内のラヂオに追出されしが行くべき處もなければ市川驛省線の待合室に入り腰掛に時間を空費す。怪し氣なる洋裝の女の米兵を待合すあり。町の男女の連立ち來りて凉むもあり。良人の東京より歸來るを待つらしく見ゆるもあり。案外早く時間を消し得たり。驛の時計十時を告げあたりの露店も漸く灯を消さんとす。二十日頃の月歸途を照す。蟲の聲亦更に多し。(永井荷風『断腸亭日乗』)

荷風は市川驛省線の待合室に何度も訪れている。《今年馬齒七十に垂んとして偶然白鷺の舞ふを見て年少氣鋭の徃時を憶ふ。市川寓居の詩趣遂に忘るべからざるものあり》との叙述もある従弟杵屋五叟家族と貸家に同居していた頃の日記である。

若いころの荷風の作品、明治四十四年七月となっており、明治十二年生れの荷風だから三十二歳のときに書かれた「銀座」にも似たような文がある。

……停車場内の待合所は、最も自由で最も居心地よく、聊かの気兼ねもいらない無類上等の 〔Cafe'〕 である。耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりした女ボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭を五分もかかって持て来るのに気をいら立てる必要もなく、這入りたい時に勝手に這入って、出たい時には勝手に出られる。そしてこの広い一室の中にはあらゆる階級の男女が、時としてはその波瀾ある生涯の一端を傍観させてくれる事すらある。
新橋の待合所にぼんやり腰をかけて、急しそうな下駄の響と鋭い汽笛の声を聞いていると、いながらにして旅に出たような、自由な淋しい好い心持がする。
自分は動いている生活の物音の中に、淋しい心持を漂わせるため、停車場の待合室に腰をかける機会の多い事を望んでいる。何のために茲に来るのかと駅夫に訊問された時の用意にと自分は見送りの入場券か品川行の切符を無益に買い込む事を辞さないのである。(荷風「銀座」)

小説家とは人間観察がまず第一の仕事だろうが(《およそ芸術の制作には観察と同情が必要である》「十日の菊」)、このほぼ四十年近くの間隙をおいた「待合所」のふたつの文は、いかにも荷風らしい。どんな顔をして坐っていたのか。荷風の顔貌なら似合いそうではあるが、待合室に長時間座ってじわりと観察して様になる人間の顔とは、それほど多くなさそうだ。いわゆるインテリ顔ではまったく様にならない。

じろじろ観察しない、穏やかな表情、たとえば笠智衆の飄々とした風貌なら待合室にとても似合いそうではある。




他方、荷風のほうは《身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ》という具合に待合室に坐っていたのではないか。おそらく鍵穴を覗くように。




昭和四十年頃に私は或る同人誌に加わっていたが、その同人の一人で戦中にお年頃を迎えた女性がこんな話をしていた。終戦直後、その女性は千葉県のほうにいたらしいのだが、或る日総武線の電車に乗っていたら市川の駅から、荷風散人が乗りこんできた。例の風体をしていて、まず車内をじわりと物色する。それからやおらその女性の席の前に寄ってくると、吊り皮につかまって、身を乗り出すようにして、しばし脇目もふらずに顔をのぞきこむ。

色白の細面、目鼻立ちも爽やかな、往年の令嬢の美貌は拝察された。それにしても荷風さん陣こそ、いかに文豪いかに老人、いかに敗戦後の空気の中とはいえ、白昼また傍若無人な、機嫌を悪くした行きずりの客に撲られる危険はさて措くとしても、当時の日本人としては何と言っても懸け離れた振舞いである。(古井由吉『東京物語考』)

荷風は、戦後一年目の従弟大島一雄(杵屋五叟)家族との同居を、ラヂオや三味線稽古の音に悩まされて逃げ出し、次にフランス文学者小西茂也と同居をすることになる。

「……小西夫妻の寝室の障子には毎晩、廊下ざかひの障子に新しい破れ穴ができて荷風がのぞきに来るらしいといふので、小西の細君がノイローゼ気味になつたのが、小西の荷風に退去を求めた理由であつたと説く者もある」 (半藤一利と新藤兼人、そして松本哉の語る永井荷風 )

精神分析では「のぞき」について次のようなことが言われるが、さて荷風はどうであったか。

窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗き見行為の目眩く不安な興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、他人の内密な振舞いの盗み見みされた光景の悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深く観察されることは、彼自身の窃視である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN,2001ーー眼差しの作家たち

わたくしは荷風と同じくらい安吾を好むが、安吾の荷風批判はいささか容認しがたい。

私が荷風を根柢的に通俗と断じ文学者に非ずと言をなしたのは……筆を執る彼の態度の根本に「如何に生くべきか」が欠けてをり、媚態を画くに当つて人の子の宿命に身を以て嘆くことも身を以て溺れることも身を以てより良く生きんとすることもない。単なる戯作の筆と通俗な諦観のみではないか。(坂口安吾「通俗作家 荷風――『問はず語り』を中心として――」)

戦後一年目の冒頭の文や「馬齒七十に垂んとして偶然年少氣鋭の徃時を憶ふ」で引用した文章群は、《終生ずいぶん身勝手な人だった》らしい荷風なりの「如何に生くべきか」が強く表れている。

……田圃のあるあたりまで来て、前方の農家数軒がおそらく零れ弾を受けて炎上し牛馬が走り出て水に陥るのを見るや、《予は死を覺悟し路傍の樹下に蹲踞して徐に四方の火を觀望す》とある。死を云々とは偏奇館炎上の際にも、身の危険のかなり迫ったはずの東中野罹災の際にも見えない。わずかに二月二十五日の空襲の直前、取って置きのコーヒーに砂糖をたっぷり入れてパイプをふかし、この世に思い残すこと云々の言葉が見えるが、あれとこれとの隔りを思うべきだ。習うほどに剥出しになる、意気地のなくなるのが恐怖である。前方の農家はやがて焼け落ちて火は麦畑を焼きつつおのずから煙となったとある。

爆音が引いて川の堤の上にもどり対岸の市街のいまや酣の炎上を眺めた時には、空がようやく明けて、また雨が俄に降りはじめる。近くの家の軒下に罹災者と一緒にしばらく雨を避けて、火の衰えた市中にもどり、さらに知人を頼って岡山市の西端の田園地帯まで、振分けの荷を肩に雨中一、二里の道を歩む。知人の世話によって野宿を免れたことを、《其恩義終忘るべきにあらず》と書いている。終生ずいぶん身勝手な人だったとも聞いたが。(古井由吉「境を越えて」『東京物語考』