2017年4月3日月曜日

基本版:「四つの言説 quatre discours」

以下、「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」のベースとなるラカンの「四つの言説」の最も初歩的な理解のための基本版である。ポール・バーハウ1995をベースにした叙述をかかげるが、このバーハウの論文は、ジジェクが「奇跡」書と呼んだ「 DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE,1999,PDF)」にも同様の叙述がある。

※中級基本版としては、「ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」」を参照のこと。さらに四つの言説とマルクスの価値形態論とのつながりは、「価値形態論(マルクス)とシニフィアンの論理(ジジェク=ラカン)」を見よ。


【四つの言説とは】
四つの言説理論、この理論は疑いもなくラカンの形式化の最も重要な部分である。言説理論は、手短かに言えばーー人は知らず自分にとってはーー、ラカン理論の頂点である。

勿論これが意味するのは、四つの言説理論はとても密度が高くそのためひどく難解だということだ。同時に、いったんその内的論理を把握してしまえば、とても理解しやすく扱い易い。(……)

さて、よく知られた事実から始めよう。コミュニケーションという考え方は、この25年の間に多くの異なった領野で注目の焦点となった。それは「人間関係」から始まって電子工学、遺伝子工学にまでに亘る。いわゆるコミュニケーション理論においては、種々の異なった局面を特徴づける一つの統一した目標がある。すなわち、コミュニケーションを完璧な標準に至るまで育てたい、メッセージが送り手と受け手のあいだを自由に流通するよう、どんな種類の「雑音」をも取り除きたいというものだ。

これらの理論を支配する基礎的な神話は、どんな失敗もない完璧なコミュニケーションの存在に関わる。これらの理論は元々の言説(ディスクール)概念とはひどく異なる。その元々のディスクール概念とは、ミシェル・フーコーが1970年12月、コレージュ・ド・フランスでの就任スピーチで新しく作ったものだ。

彼にとって権力と言説あいだにはとても特別な関係がある。ある言説の影響力はほかの言説にそのシニフィアンを課すことによって鮮明になる。例えば湾岸戦争のあいだの爆撃が、「外科的精度」によって実現された「外科的手段」と表現されたとき、この隠喩は医学の言説の権力の表現である。というのは自らの「正当な」領域外で使用されているのだから。

この観点からは、言説の分析は権力の進化における歴史的研究の枠組内でとても役立つ道具である。それがまさにフーコーのやりたかったことだ。ところが今では全く異なった何かになってしまった。

ラカン理論はこの二つのどちらとも関係がない。彼の理論は、コミュニケーション理論自体とさえラディカルに反していると言える。実に彼はコミュニケーションは常に失敗するという仮定から始める。しかも失敗しなければならないと。それが我々が話し続ける理由であり、もし互いに理解してしまったら、我々は皆沈黙したままであり、幸運にも我々は互いに理解し合えないから相互に話し合うと。

言説は数多くの線を拡げる。その線に沿ってコミュニケーションの不可能性が起こり得る。これがフーコー理論との相違をもたらす。その言説理論において、フーコーはシニフィアンの具体的素材とともに作業をする。そこでは言説の内容にアクセントが置かれている。

ラカンは逆に内容を超えて作業し、発話行為から導き出された言説の形式的関係にアクセントを置く。これが意味するのは、ラカンの言説理論は先ずはどんな話された言葉からも独立した形式的システムとして理解されなければならない、ということだ。

言説は具体的に話されたどんな言葉以前に存在する。その上こうも言える、言説は具体的な発話行為を決定する、と。この断乎たる信念がもたらされたのはラカンの基本的な仮定の反映による。すなわちどの言説も特定の社会的絆によってもたらされた基底となる関係性の輪郭を描くという仮定である。

四つの言説があるように、四つの異なった社会的絆がある。先に進む前にふたたび強調したいのは、いずれの言説もア・プリオリに空無であることだ。それらは特定の形式をもった空のバッグ以外のなにものでもない。その形式自体が人がバッグに入れる内容を決定する。肝要なことは、このバックはほとんど何でも包含しうることである。(ポール・バーハウ1995、FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES、Paul Verhaeghe、PDF

…………

以下、Paul Verhaegheの同僚で、共論文もある Stijn Vanheuleによる2016年の論から「四つの言説」をめぐる簡明な叙述を掲げる。


【四つの言説 quatre discoursの 基盤構造】

四つの言説における本質は、欲望する「動作主 agent」は、「他者 autre」に呼びかけるということである。それは、上部の水平的矢印によって示されている。「動作主」から「他者」への動きにおいて、我々は社会的絆を作り出す人間の傾向を認める。

しかしながらここでラカンは、人間相互関係におけるロマン派的観点の類を表現しているのではない。そうではなく、「動作主」と「他者」との間の関係は、「不可能性という乖離」(Verhaeghe, 2004; Bruno, 2010)によって徴付られていることを強調している。すなわち、動作主が送るメッセージは、意図されたようには決して受け取られない。………(Stijn Vanheule、2016)




定式の下部は、言説の隠された側面を強調している。左下の最初のポジションは、「真理 vérité」である。それは「動作主」のポジションに上方向きの矢印で繋がっている。この矢印が示しているのは、所定の言説において、動作主によって為される全ての言動は、隠蔽された真理の上に宿っているということである。

事実、すべての言説の特徴は、抑圧された要素が動作主の言動を動機付けていることである。この抑圧は、言説上部に表象されている社会的絆の可能性をもたらす。類似した形で、「真理」は「他者」のポジションへの効果を持つ。それを、ラカンは付加的な(斜めの)矢印を描くことにより強調している。(右側の)下方向の矢印が示しているのは、動作主の他者への呼びかけは、効果を生むということである。すなわち「生産物 produit」が作り出される。この生産物は、動作主に刺激を与える(右下から左上への斜めの矢印)。しかし「生産物」は、言説の動因である「真理」との関係において乖離 impuissance がある。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis,2016,pdf)

…………

ここで、Serge Lesourd、2006による、より具体的な記述も補足として掲げておく。




動作主は他者に話しかける(矢印1)、動作主を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、動作主に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は動作主へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Serge Lesourd, Comment taire le sujet?, 2006 )

…………

以上、四つの言説の基盤にある形式的構造の簡潔な二つの注釈を掲げた。

この形式的構造の基盤の上に四つの言説がある。




ここでふたたび Stijn Vanheule、2016による「四つの言説 quatre discours」それぞれのとても簡潔な注釈を掲げる。

【主人の言説 Discours du Maître】


主人の言説においては、主人のシニフィアン(S1) が「動作主」によって形成される。そして主人のシニフィアンは、知(S2)によって機能すると想定された「他者」に課される。

このような支配的動きは、主体の分割($)の抑圧の上に宿っている。そして「生産物」として、他者は対象a のポジションに還元される。

例えば、療法士が恐怖症の顧客に告げるかもしれない、「勇敢になりなさい (S1) 」と。そして患者が恐れる多数の人に直面しなさいと。その指令は、人が集団になかでいかに振舞うか (S2)についての特定の教訓を固守することによってなされる。

このような指令的スタイルを適用することにより、療法士は、社会的状況における自らの不確定性 ($) を脇に遣る。そして患者は療法士に従うことで、社会的相互作用のゲームにおける人質に還元される。それは最終的にさらなる不満(a) を生産し、新しい指令 (S1)の形成を引き起こす。


【ヒステリーの言説 Discours Hystérique】



ヒステリーの言説に中心的なあり方は、不平不満 ($) の能動的形成である。そして、主体を悩ます事柄への答え(S1) を持っていると想定される「他者」を探し求める。この言説は、すべての欲望は軽減されえない欠如(a)の上に宿っているという「真理」を抑圧している。そして典型的には、ナラティブ(S2) の「生産物」を生み出す。それは根源的欠如(a)を解決せず、さらなる苛立ち ($)を引き起こす。


【大学人の言説 Discours Universitaire】



大学人の言説は、知 (S2)の発布の上に構築されている。この知は、「ドグマと仮定 」(S1)の受容の上に宿っている。しかしこのドクマと仮定は、この言説において無視されている。特徴的に、「他者」は対象a(欲望の対象-原因)の場に置かれる。これは不満($)を生む。そしてさらなる知の創造(S2)を刺激する。


【分析家の言説 Discours de l’analyste】




最後に、分析家の言説において、動作主としての分析家は、論理的に a と表記される、いわゆる対象a として、「他者」に直面する。この対象a は、欲動あるいは享楽に関係した残余(S16: « Je » de la jouissance を参照)を示す。それは名づけ得ないものであり、欲望を刺激する。例えば、分析家の沈黙ーーそれは、相互作用における交換を期待している分析主体(被分析者)をしばしば当惑させるーー、その沈黙は対象a として機能する(Lacan, S19, p. 25)。

分析家は対象a のポジションを占めることにより、自由連想を通して、主体の分割($) が分節化される場所を作り出す。分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された「観念と病理」 (S2)を脇に遣る。こうして分析主体(被分析者)の主体性を徴す鍵となる諸シニフィアン S1 が形成されうる。それは、分析家の対象a としての立ち位置を刺激する。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis,2016,pdf)

…………

【補足】

最後にポール・バーハウ1995に戻って、初歩的な理解を補う叙述を抜き出しておく。

今日の主要な話題はヒステリーなので、ヒステリーの主体を吟味してみましょう。もちろん彼もしくは彼女はコンサルティングルームにやって来ます、典型的なヒステリーの言説ですね($ → S1)。その言説だと他者は主人のポジションととることを余儀なくされます。そして知 S2 を垂れ流して去勢されることに終わります。他方、同じヒステリーの主体が主人の言説をもってその場面に現われることもあります。それは格別異例のことではありません。この場合、患者は自身を彼、もしくは彼女の主人、すなわち主人のシニフィアンの症状と同一化しています。他者はそのシニフィアンについての引受人として機能することになります、すなわち主人のシニフィアンについての知を持っているものと想定されるわけです。「わたしは産後うつ病になっています。わたしは産後うつ病なんですの。先生はそれについて知っている(S2)専門家ですわね。さあどうぞ! わたしを治してください。先生のお好きなように。ただしわたしは主体としてのゲームに入り込む気はありませんからその限りで。」(S1 → S2)

三番目に、同じヒステリーの主体は大学人の言説でやってくることがあります。彼もしくは彼女はすくなからぬ知識を持ってわたしたちを印象づけます。その知識をもって彼もしくは彼女は他者を強制的に沈黙した対象に陥れます(S2 → a)。そのことによって彼もしくは彼女は、真理のポジションにおかれた隠された主人を見つめることを避けようとします(S2/S1)。このようにヒステリー者をヒステリーの言説にのみに転化させるのは間違っています。これはすべての言説に言えます。「真理は半分しかいえない le mi-dire de la vérité」のですから、車輪は回り続けています。セミネール20(アンコール)の第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から$ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ l'amour c'est le signe de ce qu'on change de discours と。その考え方とともに、あとはよろしく!(ポール・バーハウ,1995、From Impossibility to Inability. Lacan's Theory of the Four Discourses,Paul Verhaeghe)



古典的事例、Jean Clavreulによって研究されて以来の例は、医師の言説にかかわる。医師は主人のシニフィアンとして機能する。彼は主体として分割されていない者として振る舞う。彼の分割は底部に位置する、すなわち隠された真理の部分に(S1/$)。

医師が主人のシニフィアンとして機能するとき、彼は患者を彼の知の対象に還元する(S1 → S2)。

彼が使う用語がそれを示している。例えば患者を「心不全症者」と言及するとき。この言説の正味の結果は失われた対象である。この意味は、主人は決して彼の欲望の原因を想定できないということだ、もちろん彼がこの言説内部にとどまっている限りでだが。

もし彼が欲望の原因を想定したいのなら、別の言説へと移行しなければならない。が、その瞬間から、彼はもはや以前の言説内部では機能しえない。

例えば、私の患者の一人は腫瘍学者であり、彼は癌患者としての彼の父に直面した瞬間、腫瘍学者としてのキャリアを中断しなければならなかった。その瞬間、彼は分割された主体としての己れの存在に呆然自失したのだ。彼の絶え間なく遠のいていた真理と遭遇したということである。そして彼は向きを変えて主人のシニフィアンを探し求めた( 主人の言説 S1 → S2 を45度時計回りに回転させれば、$ → S1となる)。その主人のシニフィアンが彼に満足した答を提供してくれるようにと。彼は主人の言説とヒステリーの言説を交換しなければならなかった。そのとき彼は本当に分析を始めたのだった。(ポール・バーハウ、1995)