分析 Analysierenan 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能な」職業 »unmöglichen« Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育 Erziehen することと支配 Regieren することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
ラカンの四つの言説とは、フロイトのいう「支配」・「教育」・「分析」の三つの不可能な仕事に、もうひとつ「欲望」を付け加えたものである。すなわち支配(主人の言説)、教育(大学人の言説)、分析(分析家の言説)、欲望(ヒステリーの言説)。
主人の言説とは、人が命令モード・指図モードに入れば誰でもその言説になる。ヘーゲルの主-奴(S1-S2)に基づいて言えば、奴隷から知を《盗み取り、奪い取り、かすめ取る le vol , le rapt, la soustraction》(S17)言説である。
大学人の言説とは、教育機関の「大学」とはまったく関係がない。教えるー学ぶの関係における教える側の立場に立った言説はすべて大学人の言説であり、専門家・知識人・侍僕(奴隷)の言説ともされる。官僚の言説もそうだし、旧財閥の番頭の言説もそうである。
分析家の言説とは、精神分析臨床だけの話と考えてしまいがちだが、人が沈黙で他者に対応すれば、分析の言説と同じ機能を生む場合がある。それは《言説のヒステリー化 hystérisation du discours》(S17)を促す立場に立つことであり、たとえば次の例において、妻は分析家のポジションに立っている。
ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。(ジジェク、2012)
ヒステリーの言説とは、要求、不平不満の言説とされるが、人が問いかけモードにはいればヒステリーの言説である。主体を悩ます事柄への答え(S1) を持っていると想定される「他者」を探し求める態度である。
ヒステリーの言説とは、ラカン派では次のシェイクスピアの文がその典型事例とされてきた。
「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」“You say I am your beloved – what is there in me that makes me that? What do you see in me that causes you to desire me in that way?”(シェイクスピア『リチャード二世』)
そもそもヒステリーは精神分析を生んだ。だがヒステリーという言葉に騙されてはならない。
私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだ[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Lacan,Le séminaire ⅩⅩⅣ、1976,12.14)
ここでGÉRARD WAJEMANによるヒステリーの言説の古典的な定義を掲げておこう。
ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」私訳)
われわれの言説(=社会的つながり)は、四つの言説のどれかに(基本的には)当てはまる(まずはここでは「資本の言説」には触れない)。当てはまらないのは、純粋な精神病者であり、《精神病者は言説外 l'hors-discours de la psychose》(Lacan,l'étourdit 1973)とされるが、あくまで「純粋な」精神病者(緊張型分裂病、カナー的自閉症等)であり、それ以外の精神病者症者が、言説外ということではない。
あなたがたは、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば権力者をもった精神病者(パラノイア)によって管理されている。彼らは社会的に超同一化をしている。(Jacques-Alain Miller, Ordinary Psychosis Revisited, 2008)
分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)
言説に特徴的なことは、見せかけ semblant で《享楽の覆い voilement de la jouissance》をすることである。その結果、享楽はもはや《制御不能 incontrôlée》で《勝手気まま caprice なもの》(参照)ではなくなる。そのやり方は、見せかけのポジションを占める四つの要素(S1,S2,$,a)によって条件付けられる。この方法において、《社会的つながり lien social》が作り上げられる。
言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。
Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social. (Lacan, ミラノ、1972)
ところで見せかけの底にある「真理」と言われるものは何か?
ジャック=アラン・ミレールの注釈では次の通り。
すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的紐帯 lien social の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性関係の不在という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)
ミレールの別の言い方を参照するなら、ラカンの《精神病者は言説外 l'hors-discours de la psychose》(1973)に反して、緊張型分裂病 catatonia以外は、なんらかの形で「社会的つながり」=「言説」があるという理解をわたくしはしている。
神経症においては、我々は「父の名」を持っている…正しい場所にだ…。精神病においては、我々は代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ…。「ふつうの精神病」においては、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ…。とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病 catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている…。その何かが主体を逃げ出したり生き続けたりすることを可能にする。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited、私訳)
ところでミレールの文には《社会的紐帯(社会的つながり lien social) の現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である》とあった。
一方の「性関係の不在」はラカンのテーゼとして名高いが、他方の「話す身体」とは何か?
現実界は…話す身体 corps parlant の神秘 、無意識の神秘である。Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient (S20)
言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体 le corps parlantとは、自ら享楽する身体 un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF)
…………
さてここで四つの言説の図式を掲げておこう。主人の言説をベースにして、回転させれば他の三つの言説になる。
この四つの言説の基盤となる形式的構造には、agent(動作主)、autre(他者)、verite(真理)、produit(生産物)があり、この空箱に、S1(支配)、S2(教育)、$(欲望)、a(分析)が入ることになる。
この形式的構造のヴァリエーションとして次のものがある。
(S17, 18 Février 1970) |
ーー動作主(agent)のポジションが、「欲望」となっている。ヒステリーの言説がわれわれの社会的つながりのデフォルトだとされているとも捉えうる。ここでフロイトの「強迫神経症はヒステリーの方言」という言明を想い起しておいてもよいだろう。男性の論理である主人の言説、大学人の言説は、強迫神経症者の言説と相同的である(フィンク、1991)。
ジジェク2012は、ラカン理論の華である「四つの言説」と「性別化の式」の統合の試みをしているが、以下の図の上段が男性の論理、下段が女性の論理である(参照:性別化と四つの言説における「非全体」)。
次の図には、semblant(見せかけ)とあるが、《見せかけでない言説はない D'un discours qui ne serait pas du semblant 》(S19)、《言説自体、いつも見せかけの言説である le discours, comme tel, est toujours discours du semblant》(S18)であり、agent(動作主)はすべて見せかけである。
(S19, Jeudi 03 Février 1972) |
《言説自体、いつも見せかけの言説である》とは、社会的つながりは、いつも見せかけであるという意味である。もちろんここでよく知られたシェイクスピアの「人間皆役者」を引用してもよい。
この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』)
すなわち、現実世界は舞台(見せかけの世界)であり、人間は皆役者(見せかけ)である。
だが注意しなければならないのは、 《真理は見せかけと反対のものではない La vérité n'est pas le contraire du semblant》(S18)ことである。
精神分析とは、見せかけを揺らめかすことである、機知が見せかけを揺らめかすように。[la psychanalyse fait vaciller les semblants , le Witz fait vaciller les semblants](ジャック=アラン・ミレール)
揺らめかせば、真理が現われる。これはたとえば詩人たちがやっていることである(参照:柿の木と梨の木)。
エクリチュールとは結局のところ、それなりの悟りなのである。悟り(「禅」におけるできごと)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺るがせるものである。つまり、悟りは言葉の空虚を生じさせてゆく。そして、言葉の空虚こそがエクリチュールをかたちづくる。
le satori (l'évé-nement Zen) est un séisme plus ou moins fort (nullement solennel) qui fait vaciller la connaissance, le sujet : il opère un vide de parole. Et c'est aussi un vide de parole qui constitue l'écriture ; (ロラン・バルト『記号の国』)
次のラカンの発言ももちろん、見せかけの揺らめかしにかかわる。
ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。…
Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. Je ne suis pas poâte-assez (ラカン、S24. 17 Mai 1977).
さて四つの言説の基盤となる形式的構造に戻るが、上にあげた以外にも、Patrick VALAS版の Lacan, 「La troisième(三人目の女)」には次の図がある。
(La troisième, 1974) |
そしてこの図の右横に次の図が掲げてある。
それぞれの言説の対象aの意味が記されているが、ラカン自身の説明はない。だが、この記述はとても面白い。
ラカンの四つの部分対象(口唇oral、肛門anal、声vocal、眼差しscopique)は、ジジェク2012("LESS THAN NOTHING")によれば、要求/欲望の軸と、〈他者〉へ/〈他者〉から、の軸の四角形のなかに、それぞれ次ぎのように位置づけられる。
・口唇欲動は、〈他者〉へ要求する(私から母へ、私の欲しいものを下さいという要求)。
・肛門欲動は、〈他者〉から要求される(母から私へ、規則正しく糞便をしなさいという要求)
・眼差し(視姦)欲動は、他者への欲望である(私に見せて!)。
・声の欲動は、他者からの欲望である(母は私から欲しいものを告げる)。
…………
さて、われわれの社会的つながりは、ある時期のラカンが言ったようにほんとうに、支配(主人の言説)、教育(大学人の言説)、分析(分析家の言説)、欲望(ヒステリーの言説)の四つのどれかに当てはまるのだろうか。
ここで資本の言説、五番目の言説と呼ばれるものに視線をやる必要がでてくる。
この主人の言説から倒錯の言説への移行は、三つの「突然変異」がある。
① $ とS1 は場所替えをしたこと。
② 左側の上方に向かう矢印ーー古典的言説では到達不能の「真理 vérité」を示す--が、下方に向けた矢印に変更されたこと。
③「動作主agent」と「他者autre」との間にあった上部の水平的矢印が消滅したこと。これは不可能性 impossible の迂回でもある。
資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の問題 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)
ラカンにとっての去勢とは、フロイトの想像的去勢とは異なって、象徴的去勢である。
・去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique
・去勢はシニフィアンの影響によって導入された現実的な働きである la castration, c'est l'opération réelle introduite de par l'incidence du signifiant (Lacan,S17)
すなわち、言語によって去勢されていることを拒絶する態度がーー厳密さを期さずに言ってしまえばーー、「去勢の排除」である。
人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S.3、04 Juillet 1956)
現在のラカン派では資本の言説の特徴を、この去勢の排除(精神病)ではなく、去勢の否認(倒錯)ととる見方が主流である。
資本の言説は、「一般化された倒錯」の用語で叙述しうる。(ANDREA MURA. 2015, Lacan and Debt: The Discourse of the Capitalist in Times of Austerity, PDFーー「資本の言説ーー「資本の論理」の生産様式」)
ラカンの倒錯の定義のひとつは次の通り。
…私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想の 裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、己れを対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S.11)
幻想の式 $ ◊ a の読み方(の一つ)は、「シニフィアンの象徴的効果によって分割された主体は、対象 a と関係する」である。倒錯においては、この幻想の式が裏返される。すなわち、 a ◊ $。
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre(ラカン、S18)
「資本の言説」の特徴のすくなくとも一つは、間違いなく「倒錯の言説」である。日本では「上から目線」(支配の言説)がことさら嫌われるが、他方、それに対抗するものとして猖獗している「下から目線」の語りとは、構造的には倒錯の言説である。
資本主義は、社会的つながりの水準で、倒錯的享楽の一般化を強いる。それは克服できない地平であり、数多くの倒錯が咲き乱れる。他方、一般的な社会の枠組は変わらないないままである。商品形態の閉じられた世界、その多形性は、アンタゴニズムのすべての形態の加工・同化・中性化を可能にする。資本主義の主体は去勢を嘲笑し、去勢は時代錯誤的で、ポストモダン社会がきっぱりと克服した男根社会の残滓だと宣言する。(Samo Tomšič, 2015, The Capitalist Unconscious: Marx and Lacan)
もっともジジェクはかねてから、分析家の言説自体が、対象aの両義性を考慮すれば、「倒錯の言説」とも捉えられる、という観点を提示している。これもすぐれた洞察だろう。
倒錯の言説の公式は、分析家の言説の公式と同じである。ラカンは倒錯をひっくり返した幻想として定義した。ラカンによる倒錯の公式は a – $ であり、それはまさに分析家の言説の上部にある。
倒錯者と分析家の社会的紐帯 social link のあいだの相違は、ラカンにおける対象a の根源的な両義性に根ざしている。対象a は、一方でイマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、他方でこの囮が曖昧化されたもの、囮の背後にある空虚である。
このようにして、我々が倒錯から分析家の社会的紐帯へと移行するとき、エージェント(分析家)は自身を空虚に還元する。空虚、すなわち主体を彼の欲望の真理に直面するように誘い込む空虚である。(ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク))
さてこのようにして、われわれの社会的つながりは、支配(主人の言説)、教育(大学人の言説)、分析(分析家の言説)、欲望(ヒステリーの言説)の四つに加えて「倒錯的」つながりがあるということになる。
これでほぼ網羅できるのではないか。われわれ人間がやっていることのすべては。
わたくし自身は資本の言説をそのまま「倒錯」と捉えるのではなく、主人の言説領野に四つの言説があるように、資本の言説にも四つの言説があるのではないか、という想定を今のことろしているが、これはたんなる思いつきの範囲にすぎない。
すなわち消費者の言説、市場の言説、倒錯の言説、プロレタリアの言説である(資本の言説はもともと無限∞の形になっているので、出発点を変えたら上のように読めるというだけでありーー四つの言説それぞれとは異なりーー本質的なマテームの動きの意味合いはすべて同じではある)。
社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。つまり個人レベルでは、誰もが「社会的つながり lien social を築く言説」、換言すれば「見せかけ semblant」をもっていない。これが、マルクスがたぐい稀なる仕方で没頭したことである。
Y'a qu'un seul symptôme social : chaque individu est réellement un prolétaire, c'est-à-dire n'a nul discours de quoi faire lien social, autrement dit semblant. C'est à quoi MARX a paré, a paré d'une façon incroyable.(LACAN La troisième 1-11-1974 )
上の図のように想定した理由は、今引用した文以外に、ラカンの《主人の小さな市場 le petit marché du Maître 》(S17)や《市場の絶対化 absolutisation du marché》(S16)、《科学と奇妙な交接した資本の言説 le discours du capitaliste avec cette curieuse copulation avec la science》(S17)、という表現にかかわるが、それ以上に次の「Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016、pdf」の記述によるところが大きい。
資本の言説が意味するのは、「市場(S1)」において交換価値に則って商品やサービスを購買する「消費者 ($) 」である。
しかし、いったん消費者が商品やサービスを所有あるいは消費してしまえば、交換価値は使用価値に還元される。
「消費者が所有するS1」は、「彼の世界を構成する他の諸シニフィアン(S2)」との対話に至る。
これは快楽や達成感をそれほど生まない。むしろ酔いさましの過程である。結局、消費財は諸々の人工加工物のなかの一つの人工加工物である。諸シニフィアンの中の一つのシニフィアンである。(……)
市場にまだあって購買するときには価値を持っていた何ものかは、消費者が所有したときにはもはや消滅する。商品は望まれた満足を提供しない。
期待された魅惑は喪われる。そのときの「生産物」は屑 aである。
生産されたものは、剰余享楽(残滓a)であり、次の段階で、不快やパニックの火をつける。a から $ への矢印が明瞭化しているのは、対象a が主体を混乱させることである。それは再び $ から S1 への動きを生む。従って、以前の消費がもたらした不満に対する「資本の言説」の応答とは、「もっと消費せよ!」である。
資本の言説において真に消費されるものは、欲望自体である。(……)
資本の言説同じように、ヒステリーの言説において、主体は対象a に情動化されている。しかし、資本の言説で起こることとは対照的に、$ はまたS2によって決定づけられている。これが意味するのは、剰余享楽の地位にある無意識の知をともなった無意識の知が、主体を決定づけることである。
逆に、資本の言説においては、そのような決定因は不在である。Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis、Stijn Vanheule, 2016、pdf」
Stijn Vanheuleの文にあるヒステリーの言説と資本の言説との対比は次の図を見比べればよくわかる。
《資本の言説において真に消費されるものは、欲望自体である》とあったが、これはラカンの次の叙述が裏付ける。
欲望の搾取、これが資本の言説の偉大な発明である L’exploitation du désir, c’est la grande invention du discours capitaliste(Excursus, 1972)
ーー当面以上だが、資本の言説と倒錯のかかわりにかんする叙述が不十分であり、それについてはそのうち(おそらく)いくらか詳述する。
ラカン派的観点からいえば、最も肝要なのは、われわれは自らの「社会的つながり」において、どの言説に囚われているのかを、問うことである。それは論文であれ、ツイートであれ、ブログ記事であれなんでもよい。
わたくしのこの記事はもちろん大学人の言説S2である。ラカン派ドグマに囚われているのだから。
大学人の言説は、知 (S2)の発布の上に構築されている。この知は、「ドグマと仮定 」(S1)の受容の上に宿っている。しかしこのドクマと仮定は、この言説において無視されている。特徴的に、「他者」は対象a(欲望の対象-原因)の場に置かれる。これは不満($)を生む。そしてさらなる知の創造(S2)を刺激する。 (Stijn Vanheule、2016ーー基本版:「四つの言説 quatre discours」)
そしてこのように自らのテキストS1に疑念を呈することは、ヒステリーの言説$へ移行を試みていることになる($→S1)(ラカン派観点からはデカルトでさえおおむね大学人の言説である。なぜなら見せかけのS2(知の言説)の支えとして、S1(神)を必要としたのだから)。
セミネール20(アンコール)の第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から$ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ l'amour c'est le signe de ce qu'on change de discours と。その考え方とともに、あとはよろしく!(ポール・バーハウ,1995、From Impossibility to Inability. Lacan's Theory of the Four Discourses,Paul Verhaeghe)