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2017年6月22日木曜日

一次過程/二次過程

フロイトの『快原理の彼岸』には、一次過程/二次過程が、「自由に運動する備給(カセクシス)」 /「拘束された備給、あるいは硬直性の備給」にかかわるものと整理されている。

私は無意識におけるこの種の過程を、心的「一次過程 Primärvorgang」と命名した。それは、われわれの正常な覚醒時の生活にあてはまる「二次過程 Sekundärvorgang 」と区別するためである。

欲動の蠢き Triebregungen は、すべてシステム無意識 unbewußten Systemen にかかわる。ゆえに、その欲動の蠢きが一次過程に従うといっても別段、事新しくない。また、一次過程をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価とするのも容易である。

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。

しかしそれまでは、興奮を圧服 bewaeltigenあるいは拘束 bindenするという、心的装置の(快原理とは)別の課題が立ちはだかっていることになり、この課題はたしかに快原理と対立しているわけではないが、快原則から独立しており、部分的には快原理を無視することもありうる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

「一次過程/二次過程」とは、1900年には次のような形で現れる。

私は心の装置における心的過程の一方を「一次的なもの primären」と名づけたが、私がそう名づけたについては、地位の上下や業績能力を顧慮したばかりではなく、命名によって時間的関係をも同時にいい現わそうがためであった。

「一次過程 Primärvorgang」しか持たないような心的装置は、なるほどわれわれの知るかぎりにおいては存在しないし、また、その意味でこれは理論的仮構 Fiktionにすぎない。しかし二次的な sekundären 過程が人間生活の歴史上で漸次形成されていったのに反して、一次過程 Primärvorgänge は人間の心のうちにそもそもの最初から与えられていたということだけは事実である。そしてこの二次過程は一次過程を阻止してそれを覆い隠し、そしておそらくは人生の頂上をきわめるころおいにおいてはじめて完全に一次過程を支配するにいたるものなのである。

「二次過程 sekundären Vorgänge 」の、こういう遅まきの登場のために、無意識的願望衝動からなっているところの「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」は、無意識に発する願望衝動 Wunschregungenにもっとも合目的的な道を指し示すという点にのみその役割を制限されているところの前意識Vorbewußteにとっては把握しがたく、また、阻止しがたいものとなっている。(フロイト『夢判断』1900年)

「一次過程」にかかわるもの、あるいは「我々の存在の核」は、前意識にとっては把握しがたい、とある。冒頭に引用した『快原理の彼岸』には、《欲動の蠢き Triebregungen は、すべてシステム無意識 unbewußten Systemen 》にかかわり、かつ《欲動の蠢きが一次過程に従う》とあった。

システム無意識/システム前意識との関連では次のように記されている。

・ システム前意識においては、二次過程が支配している。Im System Vbw herrscht der Sekundärvorgang

・一次過程(備給の可動性)は、無時間的であり、外的現実を心的現実に置換する。これはシステム無意識に属する過程のなかに見出しうる。

Primärvorgang (Beweglichkeit der Besetzungen), Zeitlosigkeit und Ersetzung der äußeren Realität durch die psychische sind die Charaktere, die wir an zum System Ubw gehörigen Vorgängen zu finden erwarten dürfen.(フロイト『無意識』1915年)

äußeren Realität durch die psychische に現れる表現が、ラカン派では「心的現実 psychische Realität」という表現として、現実界の別の名とされる。

システム無意識/システム前意識とは、以下の文にあらわれる「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」である。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ポール・バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)

この一次過程/二次過程は、次のような形でも叙述されている。

われわれが意識的対象表象 Objektvorstellung とよぶことのできるものは、いまや言語表象 Wortvorstellung と事物表象 Sachvorstellung とにわけられる。それは、直接の事物記憶像ではなく、それより杳かな entfernter 記憶痕跡 Erinnerungsspuren の充当によって成りたつのである。

いまとつぜんわれわれは、意識的表象がなにによって無意識的表象から区別されるかがわかると思う。両者は、われわれが考えたように、異なった心的場における同一の内容の異なった記憶ではなく、またおなじ場における異なった機能的な充当でもなく、意識的表象は、事物表象とそれに属する言語表象とをふくみ、無意識的表象はたんに事物表象だけなのである。

システム無意識 System Ubw は対象の事物充当つまり最初で本来の対象充当をふくんでいる。システム前意識 System Vbw は、この事物表象が、それに相応する言語表象と結合して重層充当をうけることによって生ずる。このような重層充当は、高次の心的体制をもたらし、一次過程 Primärvorgangesを、「前意識 Vbw」を支配している二次過程Sekundärvorgang によって交代することを可能にするものであると、推測することができる。(フロイト『無意識』)

一体われわれが思いださない回想とはなんであろう?」と「プラトン/プルーストのレミニサンス」にて記したことに依拠しつつ憶測すれば、おそらくフロイトの「一次過程/二次過程」とは、プルーストの「無意志的なもの(強制されるもの)/積極的な意志」に大いにかかわる。そしてラカン=アリストテレスのテュケー/オートマンに(現実界との出会い rencontre du réel/シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants)。

ラカンにとってテュケーという現実界は、《書かれぬことを止めぬもの C'est ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire》(ラカン、S20)である。これはまさに強制されるということである。そしてそれはドゥルーズの潜在的対象にもかかわる。《潜在的対象 l'objet virtuel は、二つの現実的系列 deux séries réelles の間で、たえず循環し遷移することをやめない ne cesse de circuler et de se déplacer。》(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

ドゥルーズの別の表現であるなら、《強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)》である(参照:三種類の運動)。

「無意志的なもの(強制されるもの)/積極的な意志」は、ドゥルーズ=プルーストには例えば次のような形であらわれる。

哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志 esprits de bonne volonté のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。

プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 la bonne volonté de penser にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的 involontaire である。.

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。

(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

フロイトの一次過程をめぐる記述に《無時間的 Zeitlosigkeit》とあった。これはプルーストの《時間の外 dehors du temps》、あるいは《超時間的 extra-temporel》と相同的である、とわたくしは思う。

ところでこの原因を、 私はこうした様々な至福の印象を比較することによって見抜いたが、そうした印象は互いのうちで次のような共通点を持っていた。というのは、皿に当たるスプーンの音、不揃いな敷石、マドレーヌの味などを、現在の瞬間において感じると同時に、遠い過去の瞬間においても感じていた結果、私は過去を現在に食い込ませることになり、 自分のいるのが過去なのか現在なのかも判然としなくなっていた、ということだ。実を言うと、その時私のなかでこの印象を味わっていた存在は、その印象の持っている昔と今とに共通のもの、 超時間的なもの extra-temporel のなかでこれを味わっていたのであり、その存在が出現するのは、現在と過去のあいだにあるあのいろいろな同一性の一つによって、その存在が生きることのできる唯一の環境、物の本質を享受できる唯一の場、すなわち時間の外 dehors du temps に出たときでしかないのだった。そのことが知らず知らずにプチット・マドレーヌの味を再認した瞬間に、死にかんする私の不安がやんだ理由を説明してくれるものだった。 なぜならこのときの私は超時間的 extra-temporel な存在であり、したがって将来に訪れる苦難も気にしない存在だったからだ。つまりこうした存在は、行動したり、物を直接的に享受したりするときではなく、それ以外のところで、 二つのものの類似の奇跡が私を現在時からのがれさせるそのたびごとに私のところへやって来て、その姿をあらわしたにすぎなかった。(プルースト『見出された時』)
Or cette cause, je la devinais en comparant ces diverses impressions bienheureuses et qui avaient entre elles ceci de commun que je les éprouvais à la fois dans le moment actuel et dans un moment éloigné, jusqu'à faire empiéter le passé sur le présent, à me faire hésiter à savoir dans lequel des deux je me trouvais; au vrai, l'être qui alors goûtait en moi cette impression la goûtait en ce qu'elle avait de commun dans un jour ancien et maintenant, dans ce qu'elle avait d'extra-temporel, un être qui n'apparaissait que quand, par une de ces identités entre le présent et le passé, il pouvait se trouver dans le seul milieu où il pût vivre, jouir de l'essence des choses, c'est-à-dire en dehors du temps. Cela expliquait que mes inquiétudes au sujet de ma mort eussent cessé au moment où j'avais reconnu inconsciemment le goût de la petite madelaine, puisqu'à ce moment-là l'être que j'avais été était un être extra-temporel, par conséquent insoucieux des vicissitudes de l'avenir. Cet être-là n'était jamais venu à moi, ne s'était jamais manifesté, qu'en dehors de l'action, de la jouissance immédiate, chaque fois que le miracle d'une analogie m'avait fait échapper au présent.79