2017年6月21日水曜日

一体われわれが思いださない回想とはなんであろう?

プルーストは、自らの作品を「ベルクソン的小説」と呼ばれるのは心外だ、という含意をもつ発言をしている。

私の作品はたぶん一連の 「無意識の小説 Romans de l'Inconscient」 の試みのようなものでしょう。(……)「ベルクソン的小説」というのは正確さを欠く言い方になるでしょう。なぜなら私の作品は、無意志的記憶(mémoire involontaire)と意志的記憶(mémoire volontaire)の区別に貫かれていますが、この区別はベルクソン氏の哲学に現れていないばかりでなく、それと矛盾するものでさえあるからです。 (Interview de Marcel Proust par Élie-Joseph Bois, parue dans le journal “Le Temps” du 13 novembre 1913)

『失われた時を求めて』本文では次のように現れる。

われわれは、自分のすべての記憶を、自分に所有している。ただ、記憶の全部を思いだす能力をもっていないだけだ、とベルグソン氏の説にしたがいながら、ノルウェーのすぐれた哲学者はいった(……)。しかし、一体われわれが思いださない回想とはなんであろう?  

Nous possédons tous nos souvenirs, sinon la faculté de nous les rappeler, dit d'après M. Bergson le grand philosophe norvégien... Mais qu'est ce qu'un souvenir qu'on ne se rappelle pas? (プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)

プルーストはまた無意志的記憶とレミニサンスの微妙な使い分けを語っている。

これは極めて現実的な(リアルな)書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913

これはたぶん無意志的記憶が基盤にあって、そこにレミニサンスの花柄が生まれる、という風にいっているのだろう。

最晩年のエッセイでは、別に「無意識の再記憶 ressouvenirs inconscients」という表現ーーこれは本文には現れないーーも使っている。

私は作品の最後の巻――まだ刊行されていない巻――で、無意識の再記憶 (ressouvenirs inconscients) の上に私の全芸術論をすえる 。(Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)

…………

ところでフロイトは、プルーストとほぼ同時期に、《いかにして何かが意識的になるかWie wird etwas bewußt?》という問いを提出している。

他の箇所で(『無意識』1915)、すでに私は、無意識的表象と前意識的表象(思想)との本質的な相違を述べた。その相違は、前者が認識されないままの、なんらかの材料Materialによって生じるのにたいして、後者(前意識的表象)が、言語表象 Wortvorstellungen との結合が加わっているという点にある、と仮定した。ここで、前意識的なものと無意識的なものとの二つのシステム beiden Systeme Vbw und Ubw の特徴――意識への関係とはちがう特徴――をあげることの最初のこころみがなされる。《いかにして何かが意識的 bewußt になるか》という問題は、より目的にかなった形で述べれば、《いかにしてなにかが前意識的 vorbewußt になるか》ということである。その答は、それに対応する言語表象との結合によって、となるだろう。(フロイト『自我とエス』1923年)


言語表象に結びつけば、前意識的になる、と言っている。言語表象に結びつかず、事物表象のままであれば、無意識的なままなのである。

1915年の『無意識』から拾えば次の通り。

われわれが意識的対象表象 Objektvorstellung とよぶことのできるものは、いまや言語表象 Wortvorstellung と事物表象 Sachvorstellung とにわけられる。それは、直接の事物記憶像ではなく、それより杳かな entfernter 記憶痕跡 Erinnerungsspuren の充当によって成りたつのである。

いまとつぜんわれわれは、意識的表象がなにによって無意識的表象から区別されるかがわかると思う。両者は、われわれが考えたように、異なった心的場における同一の内容の異なった記憶ではなく、またおなじ場における異なった機能的な充当でもなく、意識的表象は、事物表象とそれに属する言語表象とをふくみ、無意識的表象はたんに事物表象だけなのである。

システム無意識 System Ubw は対象の事物充当つまり最初で本来の対象充当をふくんでいる。システム前意識 System Vbw は、この事物表象が、それに相応する言語表象と結合して重層充当をうけることによって生ずる。このような重層充当は、高次の心的体制をもたらし、一次過程 Primärvorgangesを、「前意識 Vbw」を支配している二次過程Sekundärvorgang によって交代することを可能にするものであると、推測することができる。(フロイト『無意識について』)

フロイトの区分けは、「システム無意識」/「システム前意識+システム意識」であり、潜在的無意識と呼ばれるものはシステム前意識であり、本来の無意識(システム無意識)ではない。

もしも心的行為が(ここでは表象という性質を持ったものにかぎろう)「システム無意識 System Ubw」から「システム意識 System Bw」(あるいは「前意識 Vbw」)への変換を受けるとしよう。その場合、この変換とともに再度の「固着 Fixierung」、いわばその表象の第二の「刻印(記載 Niederschrift)」が行なわれる、とみとめるべきだろうか。つまり、その刻印が新しい心的局所にふくまれると同時に、本来の無意識的刻印もそのまま存続していることをみとめるべきであろうか。あるいは、むしろその変換はおなじ素材、おなじ局所で遂行される状態変化のうちに成り立つものと信じるべきであろうか。(フロイト『無意識』1915年)

これについては次のバーハウの注釈が優れている。「システム無意識」/「システム前意識+システム意識」とは、「システム無意識あるいは原抑圧」/「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」とほぼ等価としてよい。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。

フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。これらは欲動の核が意識に至ろうとする試みである。この理由で、ラカンにとって、「力動的あるいは抑圧された無意識」は無意識の形成と等価である。力動的局面は症状の部分はいかに常に意識的であるかに関係する、ーー実に口滑りは声に出されて話されるーー。しかし同時に無意識のレイヤーも含んでいる。(ポール・バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnosticsーー非抑圧的無意識 nicht verdrängtes Ubw と境界表象 Grenzvorstellung (≒ signifiant(Lⱥ Femme)

ーーラカンにとって「システム無意識あるいは原抑圧」は、現実界の審級にある。

一体われわれが思いださない回想とはなんであろう?》と問うたプルーストと、《いかにして何かが意識的になるか?》と問うたフロイトは、実はほとんど同じ問いを出しているのではないか、というわたくしの想定は次のラカン文に依拠している。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

さらにまたこうも引用することができる。

もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になっていたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。(……)

先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、あるいはウィリアム・ジェームスか」…

彼(プルースト)は科学者ではもちろん決してないけれども、科学者の子であり、科学者の世界、少なくとも科学者の出入りする社交界を熟知しており、彼自身、植物採集家の眼を以て人間を見ている。たとえば人物を蘭やマルハナバチに巧みにたとえている。(……)

プルースト的精神医学といえば、まず「心の間歇」と訳される intermittence du cœur が頭ん浮かぶだろう。『失われた時を求めて』は精神医学あるいは社会心理学的な面が大いにあり、社交心理学ないし階級意識の心理学など、対人関係論的精神医学を補完する面を持つにちがいないが、著者自身が小説全体の題に「心の間歇」を考えていた時期があることをみれば、まず、この概念を取り上げるのが正当だろう。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収)