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2017年6月20日火曜日

ナイトキャップというコルク栓

身体は穴である corps……C'est un trou(ラカン、1974、conférence du 30 novembre 1974, Nice
対象a は穴 trou である l'objet(a), c'est le trou (S16, 1968)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

ようは「原抑圧 Urverdrängung とはサントーム sinthome のことである」で記したことから明らかなように、原抑圧とは穴であり、対象aである。あらためていうまでもないがいっておこう。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975

穴とはもちろんふつうの穴ではない。

欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。それは唯一、コルク栓(穴埋め bouchon)としてのみ現れる。このコルク栓は不可能の用語にて支えられている。我々が現実界について知っている僅かなことは、すべて本当らしさへのアンチノミーを示している。(Lacan、1976 AE.573)

誤解をしてはならない。欠如の欠如とあるように、穴とはブラックホールなのである。それをS(Ⱥ)と書いたり、S(a)と書いたり、《Lⱥ femme 斜線を引かれた女》と書いたりする。

ニーチェのいうように 真理は女である。真理は斜線を引かれた女である。ゆえにわれわれは女のまわりを循環して生を送るのである。

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

ところでヘーゲルの世界の夜 Nacht der Welt ももちろん穴=対象aである。

だがナイトキャップ Nachtmützen とはなんだろうか、と蚊居肢散人は10秒ほど考え込んでしまった・・・


世界も生もあまりにバラバラ!
ドイツのあの教授を訪ねてみるさ
きっと生をつなぎ合わせて
完全無穴の体系を構築してくれる
ナイトキャップと寝巻の襤褸を
世界の穴に詰め込むってわけさ

Zu fragmentarisch ist Welt und Leben!
Ich will mich zum deutschen Professor begeben.
Der weiß das Leben zusammenzusetzen,
Und er macht ein verständlich System daraus;
mit seinen Nachtmützen und Schlafrockfetzen
Stopft er die Lücken des Weltenbaus.

ーーハインリヒ・ハイネ「帰郷 Die Heimkehr」LVIII『歌の本』


ナイトキャップも対象aである! 穴埋めとしての対象aである! 

ナイトキャップとはっもちろん寝酒のことでもある。寝酒もやはり女のまわりを循環する一種である。

燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。(萩原朔太郎「青猫」序)

ーー蚊居肢とはじつは萩原朔太郎のパクリである。

女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S20)

だがなぜこんなことを思いつくのに10秒も喪ってしまったのだろうか。そろそろ老化現象がはじまっていることを疑わねばならぬ。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

いやあ安物の赤ワインを寝酒に飲んでいるとロクなことがない。もはやこういった話はやめにしなければならない。