2017年6月21日水曜日

プラトン/プルーストのレミニサンス

ドゥルーズはプラトンとプルーストのレミニサンスを比較している。

ドゥルーズのいう《プラトンのレミニサンス réminiscence platonicienne》とは、プラトンの「想起」、またプルースト「レミニサンス」用語に馴染んでいる日本では、奇妙な表現に思えるかもしれない。

今ネットから行き当たりばったりに拾えば、次のような言い方がなされている。《une remémoration, ou réminiscence (nom qui est resté attaché à cette conception platonicienne)》。

仏語には疎いが、おそらくプラトンの場合、「想起 remémoration」とされることが多いのではないか。わたくしはラカンの次の文を読んで、てっきりそう思っていた。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンス réminiscence と呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)

おそらくプラトンのレミニサンス/プルーストのレミニサンスとは、象徴界にかかわる想起/現実界にかかわる想起/と考え得るのではなかろうか?

ラカン=アリストテレス用語なら、オートマン/テュケーである。

ラカンは、アリストテレスの『自然学』から、二種類の偶然性 αύτόματον [ automaton ]/τύχη [ tuché ]という言葉を取り上げ、「シニフィアンのネットワーク réseau de signifiants」の 内部での蓋然的偶然としてのオートマン automaton と、「現実界との出会い rencontre du réel」としての遇発性であるテュケー tuché を語っている。だがいまはこれ以上触れまい(参照)。

話を戻せば、もともと réminiscence という語そのものも、「想起」や「回想」と訳して何も奇妙ではない語の筈である。プルーストの場合、特別な使用法がなされているので、ときに「レミニサンス」とされる場合があるだけである(プルーストいよるレミニサンスあるいは無意志的記憶をめぐる基本的考え方は「一体われわれが思いださない回想とはなんであろう?」を参照のこと)。


さてドゥルーズによる二人のレミニサンスの相違をめぐる叙述である。

◆ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第第二部「アンチロゴス」(1970年第二版より)
われわれはプルーストに、或るプラトニズムがあったことを認めてきた。『失われた時を求めて』全体は、レミニサンス réminiscence とエッセンスの実験である。プルーストは、能力を無意志的 involontaire に行使するとき、それを分割 disjoint して用いるが、そのモデルがプラトンにあることをわれわれは知っている。つまり、プラトンはシーニュの力に対して開かれている感受性、シーニュを解釈し、その意味を再発見する、記憶作用をする魂 âme、エッセンスを見出す理知的思考を用いているのである。しかし、プルーストとプラトンとのあいだには、明らかな差異がある。

プラトンのレミニサンス réminiscence platonicienne の出発点は、相互に捉えられ、その生成と、変化と、不安定な対立と、《相互融合 fusion mutuelle》とにおいて把握された性質と、感覚的関係の中にある(たとえば、或る点では不平等な平等、小さくなる大きなもの、軽いものと不可分な重いものなど)。しかしこの質的生成は、どうにかこうにか、またその力にしたがってイデアを模倣する物の状態、世界の状態を示している。そして、レミニサンスの到達点としてのイデアは、安定したエッセンスであり、対立したものを分離し、全体の中に正しい尺度(平等でしかない尺度)を導入する物それ自体である。イデアが、たとえあとから見出される場合でさえも、常に《前に avant》あり、常に前提とされているのはそのためである。出発点は、到達点をすでに模倣できるという能力によってのみ価値がある。その結果、いくつかの能力を分断して用いることは、それらの能力全体を同じひとつのロゴスに統一する弁証法への《前奏 prélude》にほかならない。それは円弧の部分を作ることが弧全体の回転を準備するのに似ている。弁証法に対する批判の全部を要約してプルーストが言うように、理知は常に先にくるのである l'Intelligence vient toujours avant。

『失われた時を求めて』においては、これとは全く同じではない。質的生成、相互融合、《不安定な対立 instable opposition》は、魂の状態の中に書き込まれる inscrits dans un état d'âme のであって、もはや、物や世界の状態の中に記されるのではない。夕陽の斜めの光線・匂い・味・空気の流れ・束の間の質的複合体は、それらが入り込んで行く《主観的側面 côté subjectif》においてのみ価値を持つはずである。それが、レミニサンス réminiscence が介入してくる理由である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)

ーープラトンのレミニサンスは理知が常に先にある(イデアが先にある)ものであり、プルーストのレミニサンスは魂の状態のなかに書き込まれるものとされている。

「魂 âme」とは何か? ここでドゥルーズのニーチェ論に《アリアドネはアニマ、魂である Ariane est l'Anima, l'Ame》(Nietzsche et la Philosophie)という表現があるのを想い起しておこう。さらに《愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる。 L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»》(『プルーストとシーニュ』)ともある。

このプルースト/プラトンの対比は究極的には次の対比である(参照:哲学と友情)。

・愛 amour/友情 amitié
・感受性 sensibilité/観察 observation
・思考 pensée /哲学 philosophie
・翻訳 traduction/反省 réflexion
・沈黙した解釈 interprétation silencieuse/会話 conversation
・名 noms/言葉 mots
・暗示的シーニュ signes implicites/明示的意味作用 significations explicites
・シーニュ・症状(徴候)の世界 monde des signes et des symptômes /属性の世界 monde des attributs


…………

次のドゥルーズが、ベルグソンとプルーストの潜在的なものの違いを説明している箇所を、その前後も含めて抜き出す。

◆ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第一部第五章「記憶の二次的役割」より

【意志的記憶 la mémoire volontaire】
意志的記憶 mémoire volontaire には、「過去の即自存在 l'être en soi du passé 」という本質的なものが欠けているのは明らかである。意志的記憶は、過去が以前に現在であったのちに、過去が過去として構成されたかのようにふるまう。(……)確かに、われわれは過去を現在として経験しているその同じときに、何かを過去として把握することはない(……)。しかしそれは、意識的知覚と、意志的記憶との結合された要求によって、もっと深いところで両者の潜在的共存 coexistence virtuelle が存在しているところに、実在的連続 succession réelle が作られるからである。

【一気に、過去そのものの中に自らを置くこと】
もしもベルクソンとプルーストの考え方にひとつの類似があるとすれば、それはこのレヴェルにおいてである。つまり、持続のレヴェルにおいてではなく、記憶のレヴェルにおいてである。現実の現在から過去にさかのぼったり、過去を現在によって再構成したりしてはならず、一気に、過去そのものの中に自らを置かなくてはならない。この過去は、過去の何かを表象するものではなく、現在存在するもの quelque chose qui est、現在としてそれ自体と共存する何か qui coexiste avec soi comme présent だけを表象する。

【ベルクソンの潜在的なもの】
過去はそれ自体以外のものの中に保存されてはならない。なぜならば過去はそれ自体において存在し、それ自体において生き残り、保存されるからである。――これが『物質と記憶』の有名なテーゼである。過去のこのようなそれ自体における存在をベルクソンは「潜在的なもの virtuel」と呼んだ。同様にプルーストも、記憶のシーニュによって帰納された状態について、《現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits》と言っている。

【ベルクソンとプルーストの相違】
確かにそこを出発点として、プルーストとベルクソンとでは問題が同じではなくなる。ベルクソンにとっては、過去がそれ自体で保存されることを知れば足りる。(……)これに対してプルーストの問題は、それ自体において保存される過去、それ自体において生き残るような過去をどのように救うかという問題である。(……)この問題に対して、無意志的記憶 mémoire involontaire のはたらきという考え方が解答を与える。

【無意志的記憶 La mémoire involontaire】
無意志的記憶のはたらきは、まだ第一に、ふたつの感覚、ふたつの時間の間の類似性に依存しているように思われる。しかし、もっと深い段階では、類似性からわれわれは厳密な同一性へと導かれる。それは、ふたつの感覚に共通な性質の同一性か、あるいは、現在と過去というふたつの時間に共通な感覚の同一性である。

たとえば味であるが、味は、同時にふたつの時間に拡がる、或る量の持続 durée を含んでいる。しかしまた逆に、同一の性質である感覚は、何か差異のあるものとのひとつの関係を含んでいる。マドレーヌの味は、それに含まれたものの中に、コンブレーを閉じこめ、包んでいる。われわれが意志的知覚に留まっている限り、マドレーヌはコンブレーと全く外的な接近関係しか持たない。われわれが意志的記憶に留まる限り、コンブレーは、過去の感覚と不可分のコンテクストとして、マドレーヌに対して外的なままである。しかし、ここに無意志的記憶の特質がある。無意志的記憶はこのコンテクストを内在化し、過去のコンテクストを、現在の感覚と不可分なものにする。

【内在化された差異 différence intériorisée】
ふたつの時間の間の類似性が、もっと深い同一性へとおのれを越えて行くのと同時に、過去の時間に属している接近性は、もっと深い差異へとおのれを越えて行く。コンブレーは現在の感覚の中に再現され、過去の感覚とその差異は、現在の感覚の中に内在化される。したがって、現在の感覚は、異なった対象 objet différentとのこの関係とはもはや分離できない。

無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである。本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異 différence intériorisée である。レミニサンス réminiscence が芸術と類比的で、無意志的記憶が隠喩と類比的であるというのは、この意味においてである C'est en ce sens que la réminiscence est l'analogue de l'art, et la mémoire involontaire, l'analogue d'une métaphore。無意志的記憶 la mémoire involontaire における本質的なものは、《ふたつの異なった対象 deux objets différents》を、たとえば、その味をともなったマドレーヌと、色と気温という性質をともなったコンブレーを把握する。それは一方を他方のなかに包み、両者の関係を、何らかの内的なものにする。

ーー《内在化された差異 différence intériorisée》とは、『差異と反復』に現れる《単独的差異 différence singulière》 《内的差異 différence interne》 《差異の差異化 le différenciant de la différence》《純粋差異 pure différence》と等価である。

ジジェク解釈では、『意味の論理学』における《準原因 quasi-cause》も同様なものとして捉えられている(これらはすべてラカンの対象a、あるいは外密 Extimitéと相同的とされる)。

ふたたびドゥルーズの引用を続ける。

【純粋過去 passé pur】
マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいかたち forme absolument nouvelle になっている。

コンブレーは、かつて現在 été présent であったような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。

それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、意志的記憶の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、リアリティréalité においてではなく、その真理において現われる。コンブレーは、純粋過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現在の意志的記憶と過去の意識的知覚の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur》である。つまりそれは、現在と過去、現勢的もの actuel である現在と、かつて現在であった過去との単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを越えて、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い、過去の即自存在 l'être en soi du passé である。《純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、「局在化した時間の本質 l'essence du temps localisée」である。

【差異と反復】
現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》――この「イデア的リアルなもの réel idéal」、この「潜在的なもの virtuel」が本質である。本質は、無意志的記憶の中に実現化 réalise または具現化 incarne される。ここでも、芸術の場合と同じく、包括 enveloppementと展開 enroulement は、本質のすぐれた状態として留まっている。そして、無意志的記憶は、本質の持つふたつの力を保持している。それは、「過去の時間の中での差異 différence dans l'ancien moment」と、「現勢性の中での反復 répétition dans l'actuel」である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第一部第五章「記憶の二次的役割」)

…………

現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》ーーこのプルーストの『見出された時』の文については(参照)、『差異と反復』には次のようにある。


潜在的なもの virtuel は、リアルなもの réel には対立しない。ただ現勢的なもの actuel に対立するだけである。潜在的なものは、潜在的なものであるかぎりにおいて、或る十全なリアリティ réalité を保持している。潜在的なものについて、まさにプルーストが共鳴の諸状態について述定していたのと同じことを述定しなければならない。すなわち、《現勢的でないリアルなもの Réels sans être actuels、抽象的でないイデア的なもの idéaux sans être abstraits》(プルースト)ということ、そして、虚構でない象徴的なもの symboliques sans être fictifs である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

ーー潜在的なもの virtuel 、つまり現勢的でないリアルなもの、抽象的でないイデア的なもの Réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits 》は、『プルーストとシーニュ』においては、《イデア的リアルなもの réel idéal》とされていたが、『差異と反復』では、《虚構でない象徴的なもの symboliques sans être fictifs 》となっている。これからみると潜在的なものは象徴的なものなのであって、後期ラカンの現実界 Réelと同様(参照)、けっして象徴界の彼岸にあるものではない。

潜在的なものをめぐって、もうすこし抜き出そう。

可能的なもの possible は、リアル réel に対立する。可能なもののプロセスは、「実現化 réalisation」である。

反対に、潜在的なもの virtuel は、リアル réel に対立しない。それ自体で充溢したリアリティpleine réalité を持っている。潜在的なもののプロセスは、「現勢化 actualisation」 である。(『差異と反復』)
可能的なものと潜在的なもの le possible et le virtuel は、次のように区別される。可能的なものは、「概念 concept」における同一性という形式を示す。潜在的なものは「理念 Idée」における純粋多様体 multiplicité pure を示す。この多様体は、先行条件としての同一的なものを根底的に排除する。(『差異と反復』)

《可能的なものは、「概念 concept」における同一性》/《潜在的なものは「理念 Idée」における純粋多様体》の対比とは、冒頭近くに引用した、レミニサンスにおけるプラトン的な《理知は常に先にくる》/プルースト的な《魂の状態の中に書き込まれる》にかかわるはずである。