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2016年12月29日木曜日

三種類の運動

冥府下りと冥府からの途切れがちの声」補足。


①言語活動により穴を作ろうとする芸術家
②言語活動を揺らめかすことによって穴を表わそうとする芸術家
③穴に遭遇してしまってその穴埋めという言語活動をする芸術家

一般的には①の作家に見えるかもしれないプルースト、だが彼の「心情の間歇」の章に真に触れればーープルーストは当初『失われた時を求めて』の題名を『心情の間歇』にしようと考えていたーー、プルーストは③の作家の面があることが知れる。プルーストは①②③がまじりあっている作家であり、ロラン・バルトがプルーストには何でもある、と言ったのはその意味合いでもあるだろう。

ーーと記したわけだが、で、またなんか文句があるらしいな。わたくしがプルーストファンなのは事実だが、これは「常識」なんだよ、わたくしも前投稿を記していてようやく気付いた「常識」だが。

ドゥルーズも書いている(もちろん微妙なニュアンスの相違はある)。

①共鳴の機械
②部分対象の機械
③強制された運動の機械

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros),・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos),である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時 le temps perdu のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時 le temps retrouvéのばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で le temps perdu d'une autre façon、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失 perte は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」)

ラカン理論的にいえば次の図がこの三つの側面を包含している。

(S19、03 Février 1972)


①見せかけ(semblant)→享楽(jouissance)が共鳴の機械
②剰余享楽(plus-de-jouir)→見せかけ(semblant)が部分対象の機械
③真理(vérité)→見せかけ(semblant)が強制された運動の機械

ま、③の運動とは実際は上の図の全運動なんだが(①②の運動もそれぞれ次の矢印に向う。たとえば共鳴の運動は剰余享楽を生む)。

それに「真理」とは何かはそれぞれの「思想家」によって議論はある。すくなくともある時期のラカンにとって「真理」とは「女」だ。

真理はすでに女である。真理はすべてではない(非全体)のだから。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(Lacan,Télévision,1973,AE540)

「女」=「非全体pas-tout」とは、言ってしまえば、「真理はないという真理」だ。

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)


でも、わたくしももうこういう話はどうでもいいよ。真理がないのが真理であったなら、こう記した文ももちろん真理ではないのだから。それぞれ勝手に解釈したらいいのさ。