ヘーゲルとニーチェをめぐる「世界の闇」にて次のように引用した。
ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)
たった一つの訳語で思考のブレイクスルーが起こることがある。ヘーゲルの「否定性」Negativität、これがポジに対するネガなのだ、との示唆を受けるとき、世界は変わる。
大袈裟な! 当たり前のことだ、と言うなかれ。長年曖昧なままにしていたヘーゲルの「否定性」が、写真のポジ/ネガをイメージすることで、わたくしの凡庸な頭がいささか開かれたのである。
人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の闇 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この闇。幻影の表象に包まれた自然の内的な闇。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この闇を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは闇を、どんどん恐ろしさを増す闇を、見出す。まさに世界の闇 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)
死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。
精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)
この文脈のなかで次のリルケを「誤読」しておこう。
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。(リルケ「ドゥイノの悲歌」)
ーー死とは生のネガである。
昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(リルケ『マルテの手記』)
ーー昔は誰でも、己れの生のネガが体の中に宿っているのを知っていた。
…………
別の例をだそう。「ひとつの生」une vie と「生というもの」la vieである。
「ひとつの生」une vie のほうが、「生というもの 」 la vie よりも重要であり、「ひとつの死」une mort のほうが「死というもの」 la mortよりも重要だというところなど、ドゥルーズはゴダールといちばん感性が響き合っているなと思いますね。ゴダールが不定冠詞についてほとんど同じことを言っている。《Une femme mariée》という映画があって、そこを《La femme mariée》にするかしないかをめぐって検閲でもめたときに、彼は《Une femme mariée》にしちゃった。そのほうが広いのだ、と。(蓮實重彦、共同討議「ドゥルーズと哲学」批評空間1996Ⅱ―9)
わたくしはこの定冠詞/不定冠詞の指摘を、ラカンの Lⱥ Femme とともに読む。
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、セミネール20「アンコール」)
この Lⱥ Femme は定冠詞に斜線を引かれているのであって、女 Femme に斜線を引かれているのではない。女というものは存在しないが、不定冠詞の女たちがいないわけではけっしてない。
ジジェクは次のように書いている。
la Femme n'existe pas, mais il y a des femmes(LESS THAN NOTHING, 2012)
この後の文は「ひとりの女はいる il y a une femme」ともできるはずである。
ラカンの《 il y a 》は、ハイデガーの鍵言葉 《es gibt》(外立 ex‐stasis)にかかわる。そしてラカンは《現実界は外立する Le Réel ex-siste 》 (S22)と言っている。
わたくしはこうして、次の二文を(わたくしなりにようやく)読むことができるようになった。
ひとりの女 Une femme は、他の身体の症状 symptôme d'un autre corpsである。(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである。 une femme est un sinthome (S23, 17 Février 1976)
他の身体あるいはサントームとは、快原理の彼岸にあるものである。
ーー快原理、すなわちポジ、快原理の彼岸、すなわちネガ。
ラカンにとって、外立 ex-sisstenceとは外密 extimité と相同的な用語である。
享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 ex‐timate」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)
享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。
その徴は、裂目 clivage ・享楽と身体とのあいだの分離 séparation de la jouissance et du corps から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印のゲーム jeu d'inscription は、この瞬間からその問いが立ち上がる。(ラカン、S17、10 Juin 1970)
ーーわれわれのネガは、われわれのポジに対して外密である。ネガは、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性としてあらわれる。
親密な外部、この外密 extimitéが「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
私たちのもっとも近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16、12 Mars 1969)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)
ーーネガは、ポジの最も親密な外部である、異物のようなものである。 《我々の異者である身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23, 11 Mai 1976)
心的トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入 Eindringen から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』1895年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状、das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としてのネガ・・・
常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a) (ラカン、S20、16 Janvier 1973)
ーー常にポジとネガがある。
出来事は、偶然起こるものではない。L'événement n'est pas ce qui arrive (accident).(ドゥルーズ『意味の論理学』1969)
症状(サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ーーネガとは出来事である。原トラウマ、原症状である。(参照:S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un)
もちろんこれらのパラフレーズは厳密にはいささか過剰な言い換えかもしれない。だが、わたくしは、ほぼ正しいだろうという「錯覚」に閉じこもりえている。
蓮實がことさらエライということを言いたいわけではない。現代思想にかかわる日本の批評家のなかで比較的熱心にわたくしが読むのは彼なので、蓮實のなかにこういったことを見いだしえたということがいいたいだけである。おそらく別のすぐれた書き手の文に見いだす人もいるだろう。
…………
おそらくドゥルーズ読みの方々は、ポジとネガと言われれば、現勢的なもの/潜在的なものを想起するのではないか。だが、わたくしはこれをいまだ充分に頭のなかで処理できていないのでここでは触れていない。
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おそらくドゥルーズ読みの方々は、ポジとネガと言われれば、現勢的なもの/潜在的なものを想起するのではないか。だが、わたくしはこれをいまだ充分に頭のなかで処理できていないのでここでは触れていない。
可能的なもの possible は、リアル réel に対立する。可能なもののプロセスは、「実現化 réalisation」である。
反対に、潜在的なもの virtuel は、リアル réel に対立しない。それ自体で充溢したリアリティpleine réalité を持っている。潜在的なもののプロセスは、「現勢化 actualisation」 である。(『差異と反復』)
可能的なものと潜在的なもの le possible et le virtuel は、次のように区別される。可能的なものは、「概念 concept」における同一性という形式を示す。潜在的なものは「理念 Idée」における純粋多様体 multiplicité pure を示す。この多様体は、先行条件としての同一的なものを根底的に排除する。(『差異と反復』)