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2017年7月19日水曜日

ララングという母の言霊

まず、仏女流ラカン派の第一人者コレット・ソレールのとても明晰な「ララング」の定義文を拾ったので、ここに訳出する。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺(言霊)である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングlangageは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕éclipse等々で包む。ララングlangageが、母の舌語(la dire maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール、2011(英訳2016), Colette Soler, Les affects lacaniens)

次に上のコレット・ソレールが指摘している、母の身体的接触が後の生にとっての要(かなめ)になることにかかわるフロイトの代表的叙述を掲げる。


母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

ララングの重要性は、ラカン派ではない日本の精神科医においても「喃語」や言語の「もの」性という語彙を使って次のような形で語られている。


言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」1996年『家族の肖像』所収)

 …………

現代ラカン派の臨床家は、この身体の出来事としてのララングが核心概念とすることが多い。例えば「21世紀におけるリアルLE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」と名付けられた2012年の会議にて、ラカン主流派のジャック=アラン・ミレールは、 《身体における、ララングとその享楽の効果の純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps》あるいは《欲動の純粋衝撃 Un pur choc pulsionnel》と口に出している。

この表現はラカンの次の文とともに読まなければならない。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

サントームがララングと大いに関わるのは、Geneviève Morelが簡潔に示している。

サントーム(原症状)は、母の舌語(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、このララングと母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel, 2005, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

ミレールなら次のように言う。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

忘れがちなのは、サントームとはフロイトの固着(原抑圧)のことでもあることだ。

「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

Geneviève Morel の叙述に、人はサントームから《分離しなければならない》とあったがなぜか? Morelは《母の法 loi de la mère》、《非全体 pas-toute」としての女性の享楽 jouissance féminine》等々の表現も使っている。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)

次のコレット・ソレールとジャック=アラン・ミレールの記述もこの勝手気ままな「母の法」にかかわる。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ここで冒頭のコレット・ソレールの叙述に戻ろう。《ララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成している》とあった。そしてこの痕跡はわれわれの全人生を支配しているという含みをもつ表現がなされている。

どういうことだろうか? --ララングは永遠回帰するのである。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
・リフレインは、円あるいは円環としての永遠回帰である。La rengaine, c'est l'éternel retour comme cycle ou circulation, (Différence et répétition、1968)

・小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰 l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle(MILLE PLATEAUX, 1980)

・リトルネロはプリズムであり、時空の結晶である La ritournelle est un prisme, un cristal d'espace-temps. (Deleuze et Guattari 1980)

もちろん永遠回帰はニーチェ用語である。《迷宮は永遠回帰を示す le labyrinthe désigne l'éternel retour 》(Deleuze, Nietzsche et la philosophie,1962)

フロイトはニーチェの永遠回帰を反復強迫と等価なものとして扱っている(参照:生成変化としての永遠回帰/運命強迫としての永遠回帰)。だが今はニーチェの次の文のみを引用するだけにしておこう。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

 ※やや詳しくは、「引力と斥力」を見よ。

さらにまた「原穴の名 le nom du premier trou」とあったが、これはブラックホールにかかわる表現である。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

※欠如と穴にかかわるいくらか詳細な文献としては、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ。

次のドゥルーズ&ガタリのリトルネロをめぐる叙述からも、ララングはーーラカンの《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》という表現に依拠すればーー、カオス、ブラックホール(非全体)にかかわるとすることができそうである。

リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混合することもある。さまざまな場合が考えられる。あるときは、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点 point fragile を設けようとする。あるときは、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。これによって、ブラックホールはわが家に変化したのである。またあるときは、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)