2017年7月18日火曜日

うろんな事を又さくら花

本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなる云々(本居宣長『玉くしげ』)

…………

《日神の御事、四海萬國を照らしますとはいかゝ、此神の御伝説は、此子光華明彩照徹於六合之內とも、有閉天岩屋戶而刺許母理坐也,爾高天原皆暗、因此而常夜往なと、これら六合は天地四方の義なれ共、此には御国の借たるにて、四海萬國の義にあらすと思はるゝは、葦原中国悉暗といふにて知らるゝ也、此外にのみならす、天地内の異邦を悉に臨照ましますといへる伝説、何等の書にありや》(秋成、書簡)

日ノ神は即チ天つ日にまします御事は古事記書紀に明らかに見えて、疑ひなきを、(……)そもそも此日神は、天地のいはみ御照しましませ共、その始は皇国に成出坐て、其皇統即皇国の君とし天皇、今に四海を統御し給へり(宣長、書簡)

《凡大世界の内、舟楫の到らむ限は往廻りて、交易を事とす。是か往返の便に図せし地球之図といふ物を閲るに、文字以て事理の通ふ国は少にて、其余は国号をさへ聞知らぬが多く、しかも地形広大なるが見えたり。此図中にいでや吾皇国は何所のほどと見あらはすれは、たた心ひろき池の面にささやかなる一葉を散しかけたる如き小嶋なりけり。 然るを異国の人に対して、 此小嶋こそ万邦に先立て開闢 [ ヒラケ ] たれ、大世界を臨照まします日月は、ここに現しましし本国也、因て万邦悉く吾国の恩光を被らぬはなし、故に貢を奉て朝し来れと教ふ共、一国も其言に服せぬのみならす、何を以て爾 [ シカ ] いふそと不審せん時、ここの太古の伝説を以て示さむに、其如き伝説は吾国にも有て、あの日月は吾国の太古に現はれまししにこそあれと云争んを、誰か截断して事は果すへき。…… 余又戯て云、今大人を漢土、西竺の国 いつれにも生せしめ、三国の事跡を兼学せしめて後の覚悟いかなるや、可承思ゆ。》(秋成、書簡)

とにかくに皇国を万国の上に置むとするほとに云々とは、余が意と反覆せり。余は皇国の万国の上たることを世ひとの知らざることを恤フルを、上田氏は皇国の万国の上たらむことを憂ひて、とかくに余が言を破せんとす。ああ是非もなきこと也。 (宣長、書簡)

ーーというのが「近世最大の論争」といわれることがあるらしい宣長と秋成論争(1786年)の断片である。秋成は「やまとだましひ」の「臭気」といい、伊勢の「田舎者」と評す。宣長は「小智をふるふ漢意の癖」やら「まなさかしら心」と評す。本居宣長は1730年生れ、上田秋成は1734年生れであり、両者とも50歳代のこと。

この論争の記録は、宣長は「呵刈葭(かかいか)」、秋成は「安々言(やすみごと)」にある。「呵刈葭」は「あしかりよし」とも読まれ、その意味は「あしかる(刈葭)」人、すなわち悪人を「しかる(呵)」。

小林秀雄の『本居宣長』には後半になってようやくこの話が出現する。全50章のなかの第40、41、49章である。

宣長の学問は、その中心部に、難点を蔵していた。「古事記伝」の「凡ての神代の伝説(ツタエゴト)は、みな実事(マコトノコト)にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知ルべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきに非ず」という、普通の考え方からすれば、容易に宜えない、頑強とも見える主張で、これは、宣長が生前行った学問上の論争の種となっていたものだが、これを、一番痛烈に突いたのは、上田秋成であった。(小林秀雄『本居宣長』四十)

だが小林秀雄は上田秋成の「普通の考え方」による宣長批判をたいして気にしている様子はない。なぜだろうか?ーーさあて・・・

今は冒頭に引用した『玉くしげ』をもうすこし長く引用しておくだけにする。

皇國は格別の子細ありと申すは、まづ此四海萬國を照させたまふ天照大御神の、御出生ましましし御本國なるが故に、萬國の元本大宗たる御國にして、萬ヅの事異國にすぐれてめでたき、其ノ一々の品どもは、申しつくしがたき中に、まづ第一に穀は、人の命をつゞけたもちて、此上もなく大切なる物なるが、其ノ稻穀の萬國にすぐれて、比類なきを以て、其餘の事どもをも准へしるべし、然るに此國に生れたる人は、もとよりなれ來りて、常のことなる故に、心のつかざるにこそあれ、幸に此御國人と生れて、かばかりすぐれてめでたき稻を、朝夕に飽まで食するにつけても、まづ皇神たちのありがたき御恩賴をおもひ奉るべきことなるに、そのわきまへだになくて過すは、いともいとも物體なきことなり、さて又本朝の皇統は、すなはち此ノ世を照しまします、天照大御神の御末にましまして、かの天壤無窮の神勅の如く、萬々歳の末の代までも、動かせたまふことなく、天地のあらんかぎり傳はらせ給ふ御事、まづ道の大本なる此ノ一事、かくのごとく、かの神勅のしるし有リて、現に違はせ給はざるを以て、神代の古傳説の、虚僞ならざることをも知ルべく、異國の及ぶところにあらざることをもしるべく、格別の子細と申すことをも知ルべきなり、異國には、さばかりかしこげに其ノ道々を説て、おのおの我ひとり尊き國のやうに申せども、其ノ根本なる王統つゞかず、しばしばかはりて、甚みだりなるを以て、萬事いふところみな虚妄にして、實ならざることをおしはかるべきなり、さてかくのごとく本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなるに、今に至るまで外國には、すべて上件の子細どもをしることなく、たゞなほざりに海外の一小嶋とのみ心得、勿論まことの道の此ノ皇國にあることをば夢にもしらで、妄説をのみいひ居るは、又いとあさましき事、これひとへに神代の古傳説なきがゆゑなり、(本居宣長『玉くしげ』、1787年、58歳)

ーーしき嶋のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花(上田秋成、胆大小心録)

…………

遠い昔に最初の100頁程度を読んだだけで放り投げてあった小林秀雄の『本居宣長』をようやく読んでみようとしたのは、半年ほどまえ岡本かの子の短編を読んで、ああそうだったのか、と思ったせいもある。

彼の造詣の深さを証拠立てる事は彼が三十五歳雨月物語を成すすこし前、賀茂真淵直系の国学者で幕府旗本の士である加藤宇万伎に贄を執つたが、この師は彼の一生のうちで、一番敬崇を運び、この師の歿するまで十一年間彼は、この師に親しみを続けて来たほどである。この宇万伎は、彼が入門するとたちまち弟子よりもむしろ友人、あるひは客員の待遇をもつて、彼に臨み、死ぬときは、彼を尋常一様の国学者でないとして学問上の後事をさへ彼に托した。(岡本かの子「上田秋成の晩年」)
青年時代の俳諧三昧、それをもしこの年まで続けて居たとすれば、今日の淡々如きにかうまで威張らして置くものではない。淡々奴根が材木屋のむすこだけあつて、商才を弟子集めの上に働して、門下三千と称してゐる。これがまづ、いまいましい。四十の手習ひで始めた国学もわれながら学問の性はいいのだが、とにかく闘争に気を取られ、まとまつた研究をして置かなかつたのが次に口惜しい。俺を、学問に私すると云つた江戸の村田春海、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長、いづれも敵として好敵ではなかつた。筆論をしても負けさうになればいつでも向ふを向いて仕舞ふぬらくらした気色の悪い敵であつた。これに向ふにはつい嘲笑や皮肉が先きに立つので世間からは、あらぬ心事を疑はれもした。人間性の自然から、独創力から、純粋のかんから、物事の筋目を見つけて行かうとする自分のやり方がいかに旧套に捉はれ、衒学にまなこが眩んでゐる世間に容れられないかを、ことごとく悟つた。 
南禅寺の本部で経行が始つた。その声を聞きながら、彼は死んだ人の名を頭の中で並べた。年代順に繰つて行つて五年前、享和元年に友だちの小沢蘆庵が七十九歳で死に、仕事敵の本居宣長が七十三で死んでゐるところまで来ると彼は微笑してつぶやいた――生気地なし奴等だ。 

十二歳年下で、六十歳の太田南畝がまだ矍鑠としてゐるのが気になつた。この男には、とても生き越せさうにも思へなかつた。世の中を狂歌にかくれて、自恣して居るこの悧恰な幕府の小官吏は、秋成に対しては、真面目な思ひやり深い眼でときどき見た。それで彼も、生き負けるにしろさう口惜しい念は起さなかつた。(岡本かの子「上田秋成の晩年」)