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2017年7月16日日曜日

「もののあはれ」と「あばたもえくぼ」

恋せずば 人は心もなからまし 物のあはれも これよりぞ知る (藤原俊成)

「もののあはれ」は語りにくい。それはまず惚れることにかかわるからだ。

阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれども、其意はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふ也。俗にはたゞ悲哀をのみあはれと心得たれ共、情に感ずる事はみな阿波礼也(本居宣長『石上私淑言』)

だが惚れたら「あばたもえくぼ」になる。批評精神が働かなくなる。あの批評精神のかたまりのような小林秀雄の渾身の作『本居宣長』でさえ、あばたをえくぼとしているのではないかと疑いたくなる箇所がないではない。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。(ニーチェ『善悪の彼岸』146節)

小林秀雄は「本居宣長」を11年半も書き続けた。本居宣長はあきらかに小林秀雄を見返しているのである。

これをラカン派なら次のように言う(参照:眼差しとしてのプンクトゥム)。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 (ラカン、S11)

(ジジェク、パララックス・ヴュ―、英文より

ジジェクは次の文であばたがえくぼになるどころか、「あばた」こそ愛する原因となる、すくなくともその場合があると言っている。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係がない」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』ーー「愛の心理学:「女の笑い方、ジェスチャ」」)

いずれにせよ人は対象のなかに自分が書き込まれていなければ、愛さない。この自分が書き込まれていることをラカンは《絵のなかのシミ tache dans le tableau》=盲点と呼ぶ。そして当時の「学会」や「学者」への批判をしつづけた独学者「本居宣長」という対象には、あきらかに小林秀雄自身のシミが書き込まれている。

44歳の江藤淳は『本居宣長』の「新潮」連載がおわったあとの小林秀雄と対談で二度、森鴎外の『渋江抽斎』の名を出して小林秀雄に問いかけている、《私は……この御本を読みながら何度か鴎外の『渋江抽斎』のことを想いました》《さっきも申しあげたように、『本居宣長』を読みながら、しばしば鴎外の『渋江抽斎』を思い出したのですが、鴎外はなぜ渋江抽斎というような、ほとんど世間に知られていない考証家に惹かれたのかということを考えてみますと、……結局鴎外が自分の六十年近い生涯を振り返ったとき、本当の学問をしていたのは抽斎のほうで、自分ではなかったという痛恨を禁じ得なかったからではないか、と思うようになりました》。

この江藤淳の二度の問いかけに小林秀雄は無言のままである。渋江抽斎に鴎外が書き込まれているのはたしかであり、「あばたもえくぼ」の箇所がふんだんにあるのもたしかである。

あばたといわずにも、「もののあはれ」を語れば、人は女々しくなる。

おほかたの人の情といふ物は、女童のごとく、みれんにおろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にあらず、それはうはべをつくりひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢで、つゝむとつゝまぬとのたがひめ計也(本居宣長『紫文要領』)

《男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にあらず》とあるが、通念としての男のあるべき姿は《きつとして、かしこき》ことだろう。だが惚れるとは女になることなのである。

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010

宣長は愛する人だった。

事しあれば うれしかなしと 時々に うごく心ぞ 人のまごころ
うごくこそ 人の真心 うごかずと いひてほこらふ 人はいは木か
真ごころを つつみかくして かざらひて いつはりするは 漢のならはし
から人の しわざならひて かざらひて 思ふ真心 いつはりべしや  

――本居宣長「玉鉾百首」

小林秀雄はこの漢ごころに対する大和魂賛美を、たとえば次の文などを引用して語っているが、漢ごころとは《きつとして、かしこき》孟子風の態度であり、宣長は孔子はまったく違うと言っている。だから必ずしも「漢」自体の批判ではない。

孟子ニ、不動心ト云ルハ、大ナル偽ニシテイミジキヒガ事也、心ハモトヨリ動クガソノ用也、動カザルハ死物ニテ、木石ニ異ナル事ナシ、孟子ガ王道ヲ行ハシメムト思フモ、則心ヲ動カスニアラズヤ、又養浩然之気ト云ルモツクリ事也、孔子ニハ、カヤウノウルサキ事ハ、露バカリモ見ヘズ、聖人ノ意ニアラズ、コレモ、カノ心ヲ動カワズト云ト同ジタグイノ、自慢ノ作リ事也(本居宣長『玉勝間』)

…………

ここで精神分析ごころにかなり汚染されているここでの記述にさらに追い打ちをかけることにする(本居宣長も小林秀雄もそんな振舞いをゆるしてはくれないだろうが)。

ジジェク2016年の「私は哲学者だろうか AM I A PHILOSOPHER?」、PDF からである。

我々が「真の哲学者」をストア的に動じない主人の言説と同一とするなら、カントやヘーゲルのような哲学者はもはや哲学ではない。

カント以後「古典的あるいは新古典的なスタイルに哲学」、すなわち「全現実の基本構造」の大いなる透視図としての「世界的視点」の哲学は、議論の余地なくもはや不可能である。

…要するに、カントとともに、哲学はもはや主人の言説ではない。全哲学体系は、内在的不可能性、欠陥、非一貫性の閂によって旋転させられている。ヘーゲルとともに、事態はさらにいっそう展開する。ヘーゲルは(カント派が非難するように)プレ批判的な合理的形而上学へと回帰しているどころか、全ヘーゲルの弁証法は、「主人」の土台のヒステリー的な掘り崩しの一種である(ラカンはヘーゲルを《最も崇高なヒステリー》と呼んだ)。つまりあらゆる哲学的主張の内在的自己破壊と自己超克である。要するに、ヘーゲルの「体系」とは哲学的企画の欠陥を通した体系的ツアー以外の何ものでもない。(ZIZEK, AM I A PHILOSOPHER?  2016)

主人の言説からヒステリーの言説への移行とは、まさに男性的《きつとして、かしこき》態度から女性的《心ヲ動カス》態度への移行である。

ラカン派においては、下の図の上段が男性の論理、下段が女性の論理であり、S1は主人、$はヒステリーである(参照)。




上の文にあらわれているように、ジジェクにとって、ヘーゲルとは大いなる世界の透視図を描く合理的形而上学者ではけっしてなく(かつまた孟子風の「不動心」の哲学者でもなく)、「世界の闇」の哲学者、あるいは次の文にあらわれる否定性、欠如、空虚に「動かされる」哲学者である(バディウも同様である、《よいヘーゲルは「切り裂く」ヘーゲルである。すなわち、より高い統一へと昇華し得ない「非対称的矛盾」のヘーゲルである》(Théorie du sujet))。

意識において自我 Ichとその対象である実体 Substanz との間におこる不等性 Ungleichheitは…否定的なもの Negative 自体である。このネガ Negative は両者の欠如 Mangel と見なしうるが、しかし両者の魂 Seele であり両者を動かす。この理由で若干の古人は空虚 Leere をもって動因と解した。もっとも彼らは…このネガを自己 Selbst としてはとらえなかったが。(ヘーゲル『精神現象学』)

いやあシマッタ・・・、ヘーゲルなどまともに読んでいないにもかかわらずもっともらしく引用してしまった。これこそ「もののあわれ」に反する態度である!

すべて男も女も、わろものはわづかに知れる方の事を残りなく見せ尽くさむと思へるこそいとおしけれ(源氏「帚木」)

そもそも冒頭の百頁ほどしか読まずに長いあいだほうったらかしてあった小林秀雄の『本居宣長』をようやく読んだばかりのところでこうやってすぐさま記すのも「もののあはれ」にすこぶる反する振舞いである! これはなにやらと「さわいでいるだけ」の文である。《かぢとり、もののあはれも知らで、おのれ酒をくらひつれば、はやくいなむとて、しほみちぬ、風もふきぬべしと、さわげば》云々(紀貫之『土佐日記』)