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2017年7月25日火曜日

本居宣長のキルトスカート

コーネル大学の歴史学者酒井直樹による、とても優れた文をネット上から拾うことができた。酒井氏は「共感の共同体」や「差別問題」の論客として、かつて『批評空間』などに登場しており、その名を知ってはいたが、彼の著書を読んだことはない。

◆酒井直樹『死産される日本語・日本人』(1996 年)より
一八世紀の日本列島では、漢文、和漢混交文、いわゆる擬古文、候文、歌文、そして、俗語文というように多数の異なった文体と書記体が用いられていた。これらの異なった雅俗混交的な文体は、地方別の僅言あるいはお国ことばとともに混在しており、それぞれを民族言語としてひとつの輪郭に収めることはできなかった。
一八世紀の言説においては、日本語と日本語が普遍的に通用したはずの共同体の存在を古代に仮設することによって、日本語が生み出された。しかも、日本語と日本民族の存在は、古代には存在しても現在には存在しないもの、現在においてはすでに喪失されたもの、として仮設されなければならなかった。つまり、日本語の誕生は、日本語の死産としてのみ可能であったのである。…統一体としての日本語は、その存在を経験的に検証できるものとしてではなく、日本語についての体系的な知識あるいは経験の可能性の条件として設定されるある理念なのであって、統一体としての日本語そのものは経験できない。
……古代に日本語が存在したかどうかは、実証的に証明することも反証することもできず、そのような実証的な研究がありうるためには、統一体としての日本語を仮設しなければならないからである。一八世紀の言説で起こったのは、こうした日本語を遠い過去に仮設することであって、その結果として、古代日本語の実証的研究が、徳川幕藩体制下の都市と地方で爆発的に普及しえたのである。(酒井直樹『死産される日本語・日本人』)

とてもすぐれた指摘だろう、《一八世紀の言説においては、日本語と日本語が普遍的に通用したはずの共同体の存在を古代に仮設することによって、日本語が生み出された》。もちろん本居宣長だけの話ではないが、ここではやはり当時の代表的な古代日本語研究者として彼を例にとる。


(本居宣長「自画自賛像」)

書紀は、後の代の意をもて上つ代の事を漢国の言を以って記されたる故に、あひかなはざること多かるを、此の記(古事記)は、いささかもさかしらを加へずて、いにしへより言ひ伝へたるままに記されたれば、その意も事も言も相稱(かな)ひて皆上つ代のまことなり。(本居宣長『古事記伝』冒頭「古記典等総論」)

そして、宣長は古事記研究により「日本語」というキルトスカートを発明したのである、と言っておこう。




民族国家が国民国家を建設するとき、彼らはふつうこの政体を古代の忘れられた民族的ルーツへの回帰として公式化する。彼らが気づいていないのは、彼らの「回帰」そのものが、回帰すべき対象を形作っているということだ。伝統への回帰とは、伝統を発明することに他ならない。

歴史家なら誰でも知っているように、(今日知られているような形の)スコットランドのキルト(巻きスカート)は十九世紀に発明されたものである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』より)

…………

上の話題からはいささか外れるが、宣長の次の文章は(現在の視点からは)どうあっても耐えがたい。

皇國は格別の子細ありと申すは、まづ此四海萬國を照させたまふ天照大御神の、御出生ましましし御本國なるが故に、萬國の元本大宗たる御國にして、萬ヅの事異國にすぐれてめでたき、

其ノ一々の品どもは、申しつくしがたき中に、まづ第一に穀は、人の命をつゞけたもちて、此上もなく大切なる物なるが、其ノ稻穀の萬國にすぐれて、比類なきを以て、其餘の事どもをも准へしるべし、然るに此國に生れたる人は、もとよりなれ來りて、常のことなる故に、心のつかざるにこそあれ、幸に此御國人と生れて、かばかりすぐれてめでたき稻を、朝夕に飽まで食するにつけても、まづ皇神たちのありがたき御恩賴をおもひ奉るべきことなるに、そのわきまへだになくて過すは、いともいとも物體なきことなり、

さて又本朝の皇統は、すなはち此ノ世を照しまします、天照大御神の御末にましまして、かの天壤無窮の神勅の如く、萬々歳の末の代までも、動かせたまふことなく、天地のあらんかぎり傳はらせ給ふ御事、まづ道の大本なる此ノ一事、かくのごとく、かの神勅のしるし有リて、現に違はせ給はざるを以て、神代の古傳説の、虚僞ならざることをも知ルべく、異國の及ぶところにあらざることをもしるべく、格別の子細と申すことをも知ルべきなり、

異國には、さばかりかしこげに其ノ道々を説て、おのおの我ひとり尊き國のやうに申せども、其ノ根本なる王統つゞかず、しばしばかはりて、甚みだりなるを以て、萬事いふところみな虚妄にして、實ならざることをおしはかるべきなり、

さてかくのごとく本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなるに、今に至るまで外國には、すべて上件の子細どもをしることなく、たゞなほざりに海外の一小嶋とのみ心得、勿論まことの道の此ノ皇國にあることをば夢にもしらで、妄説をのみいひ居るは、又いとあさましき事、これひとへに神代の古傳説なきがゆゑなり、(本居宣長『玉くしげ』、1787年、58歳)

「近世最大の論争」と言われる本居宣長と上田秋成の論争ーー秋成は「やまとだましひ」の「臭気」、伊勢の「田舎者」と評し、宣長は「小智をふるふ漢意の癖」やら「まなさかしら心」と評すーーをめぐっては「うろんな事を又さくら花」にいくらか記した。

ここでは《しき嶋のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花》(上田秋成、胆大小心録)とのみ記しておくことにする。
…………

だがこれでは本居宣長の愛読者の方におこられそうなので、こう付け加えておこう。

酒井直樹氏の指摘にもあったようににこれらは宣長だけの問題ではない。宣長の考え方は、当時の支配的イデオロギーだったのである。もっとも宣長ほどの過剰な「日本中華主義」の表明ーー加藤周一のいう《粗雑で狂信的な排外的国家主義を唱えた》宣長の不思議ーーは稀有だったろうが。

桂島宣弘氏の『宣長の「外部」 ――18世紀の自他認識――』2001年の叙述を貼り付けておこう。
何よりも一七世紀における儒学・朱子学の体系的導入と、 同じく一七世紀のほぼ一世紀にわたってアジア地域を揺るがした明清王朝交代 (華夷変態)が、一七~一八世紀の知識人にとっては、相対化の前提をなす自他認識形成により大きなインパクトを与えていたといわなければならない。 すなわち、 前者によって 「礼・文」という文明基準に基づく自他認識の枠組み(=「礼・文」中華主義) 、 「理」や「天」の彼我の普遍性を前提としての「礼・文」の中華としての中国像、東夷としての徳川日本像が理念的に導入され、だが後者によって、それは現実に存在する中国=清を夷狄とする眼差しもあって、「日本的内部」を何らかのかたちで自覚した日本型華夷思想や、中国よりもむしろ徳川日本に「礼・文」の存在を認める日本中華主義をうみだしていた。

ここでいう日本型華夷思想や日本中華主義とは、一七~一八世紀の山鹿素行、熊沢蕃山、山崎闇斎学派、垂加派などの自他認識を想定しているが、明中華主義から脱却しての「日本的内部」の文化的優位性を主張しようとする言説、清=夷狄論を前面に押しだしての日本= 中華論などを意味している。
宣長の言説は、ロシア接近などの「近代世界システム」との接触期に成立した言説であった(『古事記伝』は寛政一〇[1798]年完成。ラックスマン根室来航は寛政四[1792]年)。(桂島宣弘『宣長の「外部」 ――18世紀の自他認識――』2001年、pdf


2017年7月24日月曜日

神仏習合と神仏分離

「神仏習合と神仏分離」などという表題をつけたが、以下は小林秀雄の『本居宣長』を読むなかでの派生備忘であり、一夜漬けとはいわないまでも、一週間漬け程度の、「ほぼ千年の間、日本文化そのものであった神仏習合思想」が明治政府の神仏分離政策によって崩壊したという「通説」しか知らなかった者のメモである。


◆加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年より
十七世紀以前に日本仏教は神仏習合を特徴としていた。神仏習合は、仏教の宗教的超越性を排して「現世利益」を強調することで大衆の中へ浸透したのである。十三世紀にはいわゆる「鎌倉仏教」が神仏習合を破って仏教信仰の超越性を強調する。しかしそれも、その後次第に神仏習合の広大な土壌に吸収されていった。その後最後にあらわれたのが、キリスト教弾圧の手段として徳川政権が導入した寺請制度である。寺請制度はすべての大衆を仏教寺院に強制的に登録する。寺院組織は行政機関の一部になり、タテマエとしての仏教の大衆化が徹底するが、同時に強い信仰の体系としての仏教は、もはや時代の支配的な価値の中心でなくなった。儀式(葬式など)、神仏習合がとりこんだ祖先崇拝(盆、仏壇)、さまざまな風俗(祭りなど)、全く現世的な願掛けなどは、多かれ少なかれ仏教と係わって徳川時代から今日まで残る。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


◆阪本是丸「神仏分離・廃仏毀釈の背景について」2005年より
本地垂迹説。これに関して、辻善之助先生が明治四十年の『史学雑誌』に「本地垂迹説の起源について」というのをずっと連載されていて、この辻先生の論文がいわゆる神仏習合の歴史を研究する基本の論文になっております。(……)そのなかで先生は、「即神明が仏法を悦び仏法を崇拝するといふ思想を事実的に現出せしめて」、それで神仏習合の端緒を開いた、それ以下は神仏習合の思想の起こったところから本地垂迹説ができるまでを考えてみようということで、「神仏習合」という言葉を使われた。これが最も学術的に早いと考えております。
佐藤弘夫さんが「神仏習合論」を書いている本の中で、神仏習合の帰結である神仏分離について書いています。「仏教と神道とはそれぞれの持続的独自性を保持しながら、相互補完的に習合していたのであり、神道が仏教に包摂されたり、両者が完全に渾然融合する関係にはなかったのである。神仏分離という大きな変革が達成された基盤には、こうした神祇信仰の歴史の流れがあったと理解すべきであろう」というふうに述べています。基本的には私はこの立場に立っております。
朝廷においては、いちばん神仏習合したとされる平安時代にあっても神仏隔離、神事に際しては仏事をしないという、決定的な作業があったということだけは知って置いていただきたい。
私は神仏分離が良かったとかけしからんといったことではなくて、一体何故そういうものが可能だったのか、しかも、それは単なる権力だけだったのか。いや、実はそうではなくて、それを受容した一種の受け皿があったのだろう。それがなければ、あれだけのものはできなかったということを述べたいのです。
仮に「ほぼ千年の間、日本文化そのものであった神仏習合思想」なるものが存在したとしても、実際にはそれに何の関心も興味も、そして信仰もなかった者たちが別当・社僧・寺僧となっていたのではないか、という疑念が拭い切れないのです。(阪本是丸「神仏分離・廃仏毀釈の背景について」2005年、pdf


◆大黒学「国家神道の基礎知識」2007年より

【神仏習合】
複数の宗教が一体化される現象は、「習合」と呼ばれる。神社神道と仏教は、その間にさまざま な形態の関係を展開させた。その結果として生じた神社神道と仏教との習合は、「神仏習合」と呼ばれる。 神仏習合にはさまざまな形態がある。そのひとつは、神は仏による救済を必要とする存在であると考える形態の神仏習合である。この考え方のもとに、「神宮寺」と呼ばれる仏教の寺院が神社の傍らに建立され、そこで神社の祭神に対する供養が実施された。 神は仏教を守護する存在であると考える形態の神仏習合もある。すなわち、帝釈天や梵天などのインドの神々と同列の位置に神社神道の神々を置くという形態の神仏習合である。この考え方のもとに、仏教の寺院を建立するに際して、その場所の土地神が「鎮守社」と呼ばれる神社に祀られた。

【本地垂迹説】
神仏習合の形態のひとつに、「本地垂迹説」と呼ばれるものがある。これは、神々というのは仏や菩薩が衆生救済のために姿を変えて現われたものであるという思想のことである。 神の本来の姿である仏または菩薩は、その神の「本地」または「本地仏」と呼ばれる。逆に、 仏または菩薩が姿を変えて現われた神は、もとの仏または菩薩の「垂迹」または「垂迹身」または「権現」と呼ばれる。

【廃仏毀釈】
慶応 4 年 (1868) の 3 月から閏 4 月にかけて、政府は、神仏習合に終止符を打つ数回の布告を発した。それらの布告は総称して「神仏分離令」または「神仏判然令」と呼ばれる。神仏分離令は、神社に対して、仏像、梵鐘、仏具などを取り除くことや、 「社僧」や「別当」などと称して 神社に仕えていた僧侶を還俗させることなどを命じたものである。 神仏分離令を契機として、廃仏思想を抱く国学者、儒者、地方官吏、各地の神職は仏教に対する排撃を推進し、それはやがて一般の民衆を巻き込んだ運動へと発展した。この運動は「廃仏毀釈」と呼ばれ、これによって、全国の多くの寺院が廃寺に追い込まれ、また、多くの堂塔、仏像、仏画、仏典などが破壊されたり焼却されたりした。


◆幸田露伴『魔法修行者』より
神仏混淆は日本で起り、道仏混淆は支那で起り、仏法婆羅門混淆は印度で起っている。


◆羽根田文明『仏教遭難史論』より

ーーあまり知られていない方だが、この書の序文を、上に引用した阪本是丸の話に出てくる辻善之助が書いているらしい。

各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。

社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのではなく、廣前に法楽とて読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備え付けるは勿論、御饌(みけ)も魚鳥の除いた精進ものであった。神前に法楽の読経することは、古く詔勅を下して、之を執行せしめられたのである。…

…いずれの神社にも、神前に読経して法楽を捧げたものである。かかる情態(ありさま)であるから、遂にはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は、概ね仏像を神体にしたのである。…

…堂作りの社殿に、極彩色を施し、丹塗りの楼門や二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ。何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ、空しく涙を呑み、窃に時機の来たらんことを待っておった。(羽根田文明『仏教遭難史論』)


◆ヴィーシィ・アレキサンダー「近世寺院と農村の関係を考え直す: 高尾山薬王院の例に基づいて」
徳川社会の基礎となった身分制度において仏教僧侶と尼僧は神主、百姓、町人より高い身分を与えられていました。


◆原田正俊「「江戸時代の政治・イデオロギー制度における神道の地位 ー 吉田神道の場合 ー」によせて」
身分制の問題としても、僧侶身分が近世初頭より比較的安定していたのに対し、神職身分は不確定の部分も多かった。(……)

一部の大社の神職は身分的に安定したものであっても、実際は村落内部に百姓身分の神職も多数存在し、その身分は複雑かつ不安定であった。村落内には専業の神職、庄屋が兼帯する鍵取りといった神職、神宮寺にいたっては社僧が祭礼の道師を勤め、地域や神社によって状況は多様であった。神職の身分の在り方は、僧侶身分に比べて極めて低く、不安定なものであった。

村落内の神職身分の多くは、慣習のもと神まつりを主催するものであって、身分的には百姓と同帳で人別改めが行われている場合も多かった。(原田正俊「「江戸時代の政治・イデオロギー制度における神道の地位 ー 吉田神道の場合 ー」によせて」)


◆菊池寛『明治文明綺談』1943年
徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。

そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。

しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。 

僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。

そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎したのである。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。…

それだけにまた、江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。

『堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(熊沢蕃山「大学或問」)

… 荻生徂徠も、 『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)

と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。(菊池寛『明治文明綺談』1943年)

◆加藤周一『日本文化における時間と空間』
仏教渡来以前からの民間信仰を今かりに神道とよぶとすれば、神道のカミは神仏習合を通して、また仏教を離れて独立に、大衆の中に生き続けた。それは全国的な信仰体系ではなくて、地域的な信仰である。各地方にはその地方の多数のカミがいる。カミは人間の死後の救済にはかかわらず、現世において生活を保護したり、願いを遂げさせたり、幸福をもたらしたりするとともに、条件次第では災害を集団や個人に与えることもある。しかし人間相互の関係に介入して、社会的慣習を超えた規範を要求せず、特定の倫理的価値を正当化しないし、権威づけない。要するに神道を背景としては、仏教的な彼岸の代わりに死後の魂の救済を説くことはできないし、此岸の倫理的な秩序を構築することもできない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)

◆本居宣長『古事記伝』より
さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、(本居宣長『古事記伝』三)


◆中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」より
江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。特に家康の決めた「祖法」は変更を許されなかった。その下で、江戸期の特徴は航海術、灌漑技術、道路建設、水道建設、新田開発、手工業、流通業、金融業の発達である。江戸は人口百万の世界最大都市となり、医師数(明治二年で一万人)も国民の識字率もおそらく世界最高であった。江戸期に創立された商社と百貨店と多くの老舗は明治期も商業の中核であり、問屋、手形、為替など江戸の商業慣行は戦後も行なわれて、「いまだ江戸時代だ」と感じることがたくさんあった。

「戦後レジーム」が米国から多くを学ぼうとしたのも、過去の敗戦後の日本史の法則通りであるといえそうである。米国は、科学から政治経済を経て家庭生活までが理想とされた。気恥ずかしいほどであった(貧しくなった西欧にも類似の米国賛美はあった)。

天皇が政治に関与せず、マッカーサー元帥が将軍として君臨したのも、米軍が直接統治せず、日本の官僚制度を使ったのも、江戸期の天皇、幕府、諸侯の関係に似ている。占領軍の指令は何と「勅令第何号」として天皇の名で布告され、日本政府が実施の責任を負った。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収ーー歴史にみる「戦後レジーム」

2017年7月20日木曜日

「文字なしとて事たらざることはなし」

一般に「文字が無かったが、仏教とともに文字が伝来した」とされる日本の歴史だが、漢字伝来以前に日本独自の文字があったとされる議論があるそうだ。この文字は「神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)」と呼ばれる。

・否定説を唱えた者としては貝原益軒、太宰春台、賀茂真淵、本居宣長、藤原貞幹、伴信友などがある。現在も否定的な立場の研究者は多い。

・肯定論も古くから存在し、卜部兼方、忌部正通、新井白石、平田篤胤、大国隆正等が唱えた。(wiki)

たとえば「大分県国東郡国東町」の山奥で発見されたとする次のような石がある。




たまたま拾った画像であり、これを紹介しているのはたぶん専門研究者ではない。そもそもあまりにも鮮明すぎて偽物としか思えないが、風化していた文字を、さる僧侶が掘り直したとされている(参照:神代文字岩)。もちろんこの説明自体眉唾としなければならない。

繰り返せば、こういった遺跡の情報の真贋は常に疑わなくてはならないが、そうはいっても賀茂真淵や本居宣長等が思い込んでしまっていたらしい「漢字伝来以前にまったく文字がない」--上に引用したように《現在も否定的な立場の研究者は多い》、つまり真淵や宣長に同調しているーーとは、この専門研究者の考え方自体が、むしろひどく奇妙なものにわたくしには思われる。神代文字はあったにきまっているという「先入観」が全く素人のわたくしにはあるのである。

たとえば物を数えるのに、人は一本の線を引く。これ自体「文字」の始まりのひとつだろう。

ラカンは、フロイトの「一の徴 der einzige Zug」概念を展開しつつ、この「一本の線」をめぐる問いがなされている。



すくなくともどの国の古代においてもこういった一本の線だけではなく、そこから変形された文字があったに決まっているのではなかろうか。

次の図もラカンのセミネール9からである。



上に掲げた「一の徴」をめぐって、ラカンは10年後のセミネールにおいては次のように言うことになる。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17, 14 Janvier 1970)

ここで trait unaire を「一の徴」と訳したが、実際はこれは徴というより「ひとはけ」作用とでもいうべきものである。

L'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. (Badiou, L'être et l'événement)

小林秀雄の『本居宣長』を読んで、なんとも受けいれ難くなるのは、いま記した、わたくしにとっての「常識」が共有されていないせいである。

「古ヘより文字を用ひなれたる、今の世の心もて見る時は、言伝へのみならんは、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古ヘには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」(本居宣長「くず花」)

もっとも「産巣日神(ムスビノカミ)」をめぐる議論には魅了されないではない。

「直毘霊(ナオビノタマ)」にあるように、ーー「人はみな、産巣日神(ムスビノカミ)の御霊によりて、生れつるまにまに、身にあるべきかぎりの行(ワザ)は、おのづから知りてよく為る物にあれば」、「いかでか其上をなお強ることのあらむ」という事になる。文字による、智識の普及と教えという「強事(シヒゴト)」の成功の如きが、人の本質的な智識に、何を加え得たろうか。この点に関し、世の物識り人達の、その自負から来る錯覚はまことに深いのである。(小林秀雄『本居宣長』四十八)

前回、「ララングという母の言霊」にて「ララング/言語」をめぐると備忘を記したが、その核心となる文を再掲しよう。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺(言霊)である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだのつながりを証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングは、幼児を音声・リズム・沈黙の隠蝕等々で包む。ララングが、母の舌語(lalangue maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである。Colette Soler, Lacanian Affects, 2016)

上古の文字のない時代とは、人間の幼児期の言語のない「先史」時代、つまりララングの時代とほぼ相似的なものとして思いを馳せることができるのではないか。ラカンはこの時期の幼児が直面して使用する言葉を、「純シニフィアン signifiant pur」の物質性、あるいは「文字 lettre」といったりもする(参照)。(宣長の「文字」とはもちろん等価でないことを断っておこう)。

なにはともあれ小林秀雄=本居宣長の「ムスビノカミ」の考え方は、ラカンのララングにひどく近似している。

彼が註解者として入込んだのは、神々に名づけ初める、古人の言語行為の内部なのであり、其処では、神という対象は、その名と全く合体しているいるのである(高天原という名にしても同様である)。彼が立会っているのは、例えば「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)」の二柱の神の御名を正しく唱えれば、「生(ムス)」という御名のままに、「万ヅの物も事業(コト)も悉(コトゴト)に皆」生成(ウミナシ)賜う神の「かたち」は、古人の眼前に出現するという、「あやしき」光景に他ならなかった。(小林秀雄『本居宣長』四十八)

いやむしろ「父の諸名」に近似しているといったほうがいいかもしれない。この父の諸名は固有名に大きくかかわる[後述]。そもそもラカンにとって《固有名の真の性質は、「一の徴 trait unaire」としての文字 lettre である》(Lorenzo Chiesa、Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 )。

父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、(ラカン、S22,.11 Mars 1975)

 本居宣長にとっては、古事記冒頭の「神の諸名」の列挙は名付け行為であり、ラカンの「父の諸名」の名付けとどうして関連づけないでいられよう?

天地初めて発けし時、高天原に成る神の名は天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣神。此の三柱の神は並独り神と成り坐して身を隠すなり。 次に(……)宇摩志阿斯訶備比古遲神。次に天之常立神。上件の五柱神は別天神。 (『古事記』)
次(ツギニ)。都藝(ツギ)は、都具(ツグ)といふ用語の、體語になれるなり。(凡て言に體用の別あり。體とは動かぬをいふ。用とは活(ハタラ)くを云フ。其ノ體語に、本より體なると、用の體になれるとあり。いと上ツ代には、用語多くて、體語すくなかりしを、世々に人の言語の多くなりもてゆくまゝに、用語の分れて、體語にもなれるがいと多きなり。)

都具(ツグ)は都豆久(ツヅク)ともと同言なれば、都藝(ツギ)も都豆伎(ツゞキ)と云に同じ。さて其(ソレ)に縦横(タテヨコ)の別(ワキ)あり。

縦(タテ)は、假令(タトヘ)ば父の後(ノチ)を子の嗣(ツグ)たぐひなり。横は、兄(セ)の次に弟(オト)の生るゝ類ヒなり。記中に次(ツギニ)とあるは、皆此ノ横の意なり。

されば今此(コゝ)なるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美ノ神とある次(ツギニ)まで、皆同時にして、指續(サシツゞ)き次第(ツギツギ)に成リ坐ること、兄弟の次序(ツイデ)の如し。(父子の次第(ツイデ)の如く、前(サキ)ノ神の御世過(スギ)て、次に後ノ神とつゞくには非ず。おもひまがふること勿(ナカ)れ。)(本居宣長『古事記伝』)

…………

ここで、小林秀雄の『本居宣長』の第四十八章ーーわたくしにはこの書の核心のひとつと思われる叙述を抜き出しておこう。

神代の伝説(ツタエゴト)について、宣長が非常に明瞭な、徹底した考え方をしていた事は、「くず花」の議論の中によく現れている。

「まがのひれ」の著者が文字の徳を言うに対して、宣長は言伝えの徳を説くのだが、こういうことを言っている、--

「古ヘより文字を用ひなれたる、今の世の心もて見る時は、言伝へのみならんは、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古ヘには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」(くず花)

これも、いかにも宣長らしい、平明な譬えだが、平明過ぎて、読む者は、そのまま読み過ごし、このような事を明言した者は、この人以前に、誰一人いなかった事には、思い至らぬという事はあるのである。

おぼつかない神代の伝えごとを、そのまま受納れた真淵が、「古へを、おのが心言(ことば)にならはし得」たところを振返ってみるなら、それとは質の違った想像力が、この易しい譬えの裏には、働いているのが見えて来るであろう。--「言を以ていひ伝ふると、文字をもて書伝ふるとをくらべいはんには、互に得失有て、いづれを勝れり共定めが」くと、宣長は繰返し言っている、これは大事な事で、彼は定めがたき一般論などを口にしているのではない。ただ、両者は相違するという端的な事実に着目して欲しい、と言っているだけなのだ。ところが、其処に眼を向ける人がない。「上古言伝へのなりし代の心に立かへりて見」るという事が、今日になってみると如何に難かしいかを、宣長は考えるのであり、その言うところには、文字を用いなれたる人々が、知らずして抱いている偏見に、強く抗議したいという含みがある。

「文字は不朽の物なれば、一たび記し置きつる事は、いく千年を経ても、そのまゝに遣るは文字の徳也、然れ共文字なき世は、文字なき世の心なる故に、言伝へとても、文字ある世の言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし、今の世とても、文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に、空にはえ覚え居らぬ事をも、文字知らぬ人は、返りてよく覚え居るにてさとるべし、殊に皇国は、言霊の助くる国、言霊の幸はふ国と古語にもいひて、実に言語の妙なること、万国にすぐれたるをや」、

--神代より言い伝え、言霊の幸わう国と語り継いで来た「文字なき世は、文字無き世の心なる故」と、しっかりと想像力を働かせてみるなら、「言辞の道」に於いて、「浮きたる事」は、むしろ今の世の、「文字を知れる人」の側にある事に気付くであろう、というのが、宣長の言いたいところだったのである。

「まがのひれ」の著者が、「文字なかりし世々の古事は、皆その後の天皇の御心もて、よきさまに造り成し給へる物にて、実の事にはあらず」と言うに対して、宣長は、かしこげなる意見と、烈しく抗し、「中古迄、中々に文字といふ物のさかしらなくして、妙なる言霊の伝へなりし徳」を忘れてはならないと言う。先きにも言ったように、彼は、文字の徳を、少しも見損なっていなかったが、文字の徳と馴れ合い、言わば、「文字といふ物のさかしら」となれば、これは又別事である事を、見逃してはいなかった。それが「文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に」云々、という言い方になるのであり、そういう含みが辿れなければ、読まぬに等しいであろう。
(……)文字の出現以前、何時からとも知れぬ昔から、人間の心の歴史は、ただ言伝えだけで、支障なくつづけられていたのは何故か。言葉と言えば、話し言葉があれば足りたからだ。意味内容で、はち切れんばかりになっている、己れの肉声の充実感が、世人めいめいの心の生活を貫いていれば、人々と共にする生活の秩序保持の肝腎に、事を欠かぬ、事を欠く道理がなかったからだ。そういう、古人の言語経験の広大深刻な味いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆する事が出来た。「書契以来、不好談古」と言った斎部宿禰の古い嘆きを、今日、新しく考え直す要がある事を、宣長ほどよく知っていたものはいなかったのである。

先きに、宣長が歩いた、「古事記」注解という「廻り道」について述べたが、彼が、非常な忍耐で、ひたすら接触をつづけた「皇国(ミクニ)の古言」とは、注解の初めにあるように、「ただに其物其事のあるかたちのままに、やすく云初(イイソメ)名づけ初(ソメ)たることにして、されに深き理などを思ひて言る物に非れば」、--という、そういう言葉であった。未だ文字がなく、ただ発音に頼っていた世の言語の機能が、今日考えられぬほど優性だった傾向を、ここで、彼は言っているのである。宣長は、言霊という言葉を持ち出した時、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生れた、という事、言葉の意味が、これを発音する人の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたという、全く簡明な事実に、改めて、注意を促したのだ。情(ココロ)の動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微妙なもので、話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思い通りにはならぬものであり、それが、語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような、「たましひ」が持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである。

繰返すまでもなく、宣長は、文字の徳が、言伝えの徳に取って代った、などと言っているのではない。誰にも、そんな事の出来る力はありはしない。言伝えの遺産の上に、文字の道が開かれる事になったのだが、これは、言霊の働きを大きく制限しないでは行われなかった、そういう決定的な事に、他人が鈍感になって了った事を言う。上古の人々は、思うところを、われしらず口にするという自然な行為によって、言葉の意味を、全身を以て、感じ取っていた筈だから、其処に、言葉の定義を介入させる為には、話し方と話の内容とを、無理にも引裂かなければならなかったであろう。動く話し方の方を引離して、これを無視すれば、後には、動かぬ内容が残り、定義を待つ事になっただろう。文字の出現により、言語の機能の上で、思うにまかせぬ表現の様から、意のままになる内容の伝達への、大きな転回が可能になったわけだが、宣長は、これを、人々の心を奪うような大事とは、考えていなかった。太古の人々は、そのような事に未だ思い及ばなかったのではなく、そのような余計な事を思い付く必要を、感じていなかった、という考えだったからである。

彼等は、自分等が口にしている国語の抑揚さえ摑まえていれば、物事を知り、互に理解し合って暮らすのに、何の不自由もなかった。そういう生活が、文字と共に始まった歴史以前、どれほど久しい間、続けられて来たか。宣長は、この言伝えの世として、何一つ欠けたところのない姿の裡に、身を置いて、人々の心ばえを宰領している言語表現を想い描き、其処では、表現の才を言うより、表現の天分を言う方が、どれほど自然な事だったかを直覚していた。言語表現の本質を成すものは、習い覚えた智識に依存せず、その人の持って生れて来た心身の働きに、深く関わっているものだ、そういう言語機能の基本的な性質は、「文字ある世」になっても少しも変りはしないのだが、それが忘れられて了ったのである。

繰り返せば、今は曖昧なままの「思いつき」を記すが、これは固有名論、あるいはララング論としても読めるのではなかろうか。

宣長は《高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)》の「ムスビ」について、《産霊(ムスビ)とは、凡て物を生成(ナ)すことの霊異(クシビ)なる神霊(ミタマ)を申すなり》としている。すなわみムス・ビ(「生(ムス)」霊)である。他方、折口信夫は「結び」と読んでいる(現在の学会では否定されているようだが)。

この折口信夫の考え方はとても魅力的で、ラカンをいくらか読むわたくしは、ここでもまたボロメオ結びの「結び目」を想起してしまう。そして、それは固有名のことでもある(神の諸名!)。

三界(象徴界・想像界・現実界)の基礎は、フレーゲが固有名と呼ぶもの que FREGE appelle noms propres である。 (ラカン、S24. 16 Novembre 1976)

ーーさるラカン派が《ララングは固有名の核である lalangue is a nucleus of proper names》 (Bernard Nomine、2015)と言っているが、なるほどと思わせる。この「洞察」も、前回の記事(ララングという母の言霊)と関連付けうる。

いずれにせよ、古事記冒頭に出現する三つの神の名、アメノミナカヌシ(天之御中主神)、タカミムスヒ(高御産巣日神)、カムムスヒ(神産巣神)における二番目の「タカミムスヒ」が、古い皇室の皇祖神であり、アマテラス(天照大神)が皇祖神となったのは、記紀編纂の直前の天武、あるいは持統朝といった「新しい時代」とするのが、現在の学会の主流の見解である。すなわち「タカミムスヒ」が核心的な神の名なのである。《本来の皇祖神はアマテラスではなくタカミムスヒだったこと》(溝口睦子『アマテラスの誕生』)。

最後に、ここでの叙述は、古事記にも神の名にもいままでまったく関心がなかったシロウトの「思いつき」を記した、という範囲をでないことを--ことわるまでもないだろうがーー、敢えて繰り返し強調しておく。



2017年7月18日火曜日

うろんな事を又さくら花

本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなる云々(本居宣長『玉くしげ』)

…………

《日神の御事、四海萬國を照らしますとはいかゝ、此神の御伝説は、此子光華明彩照徹於六合之內とも、有閉天岩屋戶而刺許母理坐也,爾高天原皆暗、因此而常夜往なと、これら六合は天地四方の義なれ共、此には御国の借たるにて、四海萬國の義にあらすと思はるゝは、葦原中国悉暗といふにて知らるゝ也、此外にのみならす、天地内の異邦を悉に臨照ましますといへる伝説、何等の書にありや》(秋成、書簡)

日ノ神は即チ天つ日にまします御事は古事記書紀に明らかに見えて、疑ひなきを、(……)そもそも此日神は、天地のいはみ御照しましませ共、その始は皇国に成出坐て、其皇統即皇国の君とし天皇、今に四海を統御し給へり(宣長、書簡)

《凡大世界の内、舟楫の到らむ限は往廻りて、交易を事とす。是か往返の便に図せし地球之図といふ物を閲るに、文字以て事理の通ふ国は少にて、其余は国号をさへ聞知らぬが多く、しかも地形広大なるが見えたり。此図中にいでや吾皇国は何所のほどと見あらはすれは、たた心ひろき池の面にささやかなる一葉を散しかけたる如き小嶋なりけり。 然るを異国の人に対して、 此小嶋こそ万邦に先立て開闢 [ ヒラケ ] たれ、大世界を臨照まします日月は、ここに現しましし本国也、因て万邦悉く吾国の恩光を被らぬはなし、故に貢を奉て朝し来れと教ふ共、一国も其言に服せぬのみならす、何を以て爾 [ シカ ] いふそと不審せん時、ここの太古の伝説を以て示さむに、其如き伝説は吾国にも有て、あの日月は吾国の太古に現はれまししにこそあれと云争んを、誰か截断して事は果すへき。…… 余又戯て云、今大人を漢土、西竺の国 いつれにも生せしめ、三国の事跡を兼学せしめて後の覚悟いかなるや、可承思ゆ。》(秋成、書簡)

とにかくに皇国を万国の上に置むとするほとに云々とは、余が意と反覆せり。余は皇国の万国の上たることを世ひとの知らざることを恤フルを、上田氏は皇国の万国の上たらむことを憂ひて、とかくに余が言を破せんとす。ああ是非もなきこと也。 (宣長、書簡)

ーーというのが「近世最大の論争」といわれることがあるらしい宣長と秋成論争(1786年)の断片である。秋成は「やまとだましひ」の「臭気」といい、伊勢の「田舎者」と評す。宣長は「小智をふるふ漢意の癖」やら「まなさかしら心」と評す。本居宣長は1730年生れ、上田秋成は1734年生れであり、両者とも50歳代のこと。

この論争の記録は、宣長は「呵刈葭(かかいか)」、秋成は「安々言(やすみごと)」にある。「呵刈葭」は「あしかりよし」とも読まれ、その意味は「あしかる(刈葭)」人、すなわち悪人を「しかる(呵)」。

小林秀雄の『本居宣長』には後半になってようやくこの話が出現する。全50章のなかの第40、41、49章である。

宣長の学問は、その中心部に、難点を蔵していた。「古事記伝」の「凡ての神代の伝説(ツタエゴト)は、みな実事(マコトノコト)にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知ルべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきに非ず」という、普通の考え方からすれば、容易に宜えない、頑強とも見える主張で、これは、宣長が生前行った学問上の論争の種となっていたものだが、これを、一番痛烈に突いたのは、上田秋成であった。(小林秀雄『本居宣長』四十)

だが小林秀雄は上田秋成の「普通の考え方」による宣長批判をたいして気にしている様子はない。なぜだろうか?ーーさあて・・・

今は冒頭に引用した『玉くしげ』をもうすこし長く引用しておくだけにする。

皇國は格別の子細ありと申すは、まづ此四海萬國を照させたまふ天照大御神の、御出生ましましし御本國なるが故に、萬國の元本大宗たる御國にして、萬ヅの事異國にすぐれてめでたき、其ノ一々の品どもは、申しつくしがたき中に、まづ第一に穀は、人の命をつゞけたもちて、此上もなく大切なる物なるが、其ノ稻穀の萬國にすぐれて、比類なきを以て、其餘の事どもをも准へしるべし、然るに此國に生れたる人は、もとよりなれ來りて、常のことなる故に、心のつかざるにこそあれ、幸に此御國人と生れて、かばかりすぐれてめでたき稻を、朝夕に飽まで食するにつけても、まづ皇神たちのありがたき御恩賴をおもひ奉るべきことなるに、そのわきまへだになくて過すは、いともいとも物體なきことなり、さて又本朝の皇統は、すなはち此ノ世を照しまします、天照大御神の御末にましまして、かの天壤無窮の神勅の如く、萬々歳の末の代までも、動かせたまふことなく、天地のあらんかぎり傳はらせ給ふ御事、まづ道の大本なる此ノ一事、かくのごとく、かの神勅のしるし有リて、現に違はせ給はざるを以て、神代の古傳説の、虚僞ならざることをも知ルべく、異國の及ぶところにあらざることをもしるべく、格別の子細と申すことをも知ルべきなり、異國には、さばかりかしこげに其ノ道々を説て、おのおの我ひとり尊き國のやうに申せども、其ノ根本なる王統つゞかず、しばしばかはりて、甚みだりなるを以て、萬事いふところみな虚妄にして、實ならざることをおしはかるべきなり、さてかくのごとく本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなるに、今に至るまで外國には、すべて上件の子細どもをしることなく、たゞなほざりに海外の一小嶋とのみ心得、勿論まことの道の此ノ皇國にあることをば夢にもしらで、妄説をのみいひ居るは、又いとあさましき事、これひとへに神代の古傳説なきがゆゑなり、(本居宣長『玉くしげ』、1787年、58歳)

ーーしき嶋のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花(上田秋成、胆大小心録)

…………

遠い昔に最初の100頁程度を読んだだけで放り投げてあった小林秀雄の『本居宣長』をようやく読んでみようとしたのは、半年ほどまえ岡本かの子の短編を読んで、ああそうだったのか、と思ったせいもある。

彼の造詣の深さを証拠立てる事は彼が三十五歳雨月物語を成すすこし前、賀茂真淵直系の国学者で幕府旗本の士である加藤宇万伎に贄を執つたが、この師は彼の一生のうちで、一番敬崇を運び、この師の歿するまで十一年間彼は、この師に親しみを続けて来たほどである。この宇万伎は、彼が入門するとたちまち弟子よりもむしろ友人、あるひは客員の待遇をもつて、彼に臨み、死ぬときは、彼を尋常一様の国学者でないとして学問上の後事をさへ彼に托した。(岡本かの子「上田秋成の晩年」)
青年時代の俳諧三昧、それをもしこの年まで続けて居たとすれば、今日の淡々如きにかうまで威張らして置くものではない。淡々奴根が材木屋のむすこだけあつて、商才を弟子集めの上に働して、門下三千と称してゐる。これがまづ、いまいましい。四十の手習ひで始めた国学もわれながら学問の性はいいのだが、とにかく闘争に気を取られ、まとまつた研究をして置かなかつたのが次に口惜しい。俺を、学問に私すると云つた江戸の村田春海、古学を鼻にかける伊勢の本居宣長、いづれも敵として好敵ではなかつた。筆論をしても負けさうになればいつでも向ふを向いて仕舞ふぬらくらした気色の悪い敵であつた。これに向ふにはつい嘲笑や皮肉が先きに立つので世間からは、あらぬ心事を疑はれもした。人間性の自然から、独創力から、純粋のかんから、物事の筋目を見つけて行かうとする自分のやり方がいかに旧套に捉はれ、衒学にまなこが眩んでゐる世間に容れられないかを、ことごとく悟つた。 
南禅寺の本部で経行が始つた。その声を聞きながら、彼は死んだ人の名を頭の中で並べた。年代順に繰つて行つて五年前、享和元年に友だちの小沢蘆庵が七十九歳で死に、仕事敵の本居宣長が七十三で死んでゐるところまで来ると彼は微笑してつぶやいた――生気地なし奴等だ。 

十二歳年下で、六十歳の太田南畝がまだ矍鑠としてゐるのが気になつた。この男には、とても生き越せさうにも思へなかつた。世の中を狂歌にかくれて、自恣して居るこの悧恰な幕府の小官吏は、秋成に対しては、真面目な思ひやり深い眼でときどき見た。それで彼も、生き負けるにしろさう口惜しい念は起さなかつた。(岡本かの子「上田秋成の晩年」)


2017年7月16日日曜日

「もののあはれ」と「あばたもえくぼ」

恋せずば 人は心もなからまし 物のあはれも これよりぞ知る (藤原俊成)

「もののあはれ」は語りにくい。それはまず惚れることにかかわるからだ。

阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれども、其意はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふ也。俗にはたゞ悲哀をのみあはれと心得たれ共、情に感ずる事はみな阿波礼也(本居宣長『石上私淑言』)

だが惚れたら「あばたもえくぼ」になる。批評精神が働かなくなる。あの批評精神のかたまりのような小林秀雄の渾身の作『本居宣長』でさえ、あばたをえくぼとしているのではないかと疑いたくなる箇所がないではない。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。(ニーチェ『善悪の彼岸』146節)

小林秀雄は「本居宣長」を11年半も書き続けた。本居宣長はあきらかに小林秀雄を見返しているのである。

これをラカン派なら次のように言う(参照:眼差しとしてのプンクトゥム)。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 (ラカン、S11)

(ジジェク、パララックス・ヴュ―、英文より

ジジェクは次の文であばたがえくぼになるどころか、「あばた」こそ愛する原因となる、すくなくともその場合があると言っている。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係がない」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』ーー「愛の心理学:「女の笑い方、ジェスチャ」」)

いずれにせよ人は対象のなかに自分が書き込まれていなければ、愛さない。この自分が書き込まれていることをラカンは《絵のなかのシミ tache dans le tableau》=盲点と呼ぶ。そして当時の「学会」や「学者」への批判をしつづけた独学者「本居宣長」という対象には、あきらかに小林秀雄自身のシミが書き込まれている。

44歳の江藤淳は『本居宣長』の「新潮」連載がおわったあとの小林秀雄と対談で二度、森鴎外の『渋江抽斎』の名を出して小林秀雄に問いかけている、《私は……この御本を読みながら何度か鴎外の『渋江抽斎』のことを想いました》《さっきも申しあげたように、『本居宣長』を読みながら、しばしば鴎外の『渋江抽斎』を思い出したのですが、鴎外はなぜ渋江抽斎というような、ほとんど世間に知られていない考証家に惹かれたのかということを考えてみますと、……結局鴎外が自分の六十年近い生涯を振り返ったとき、本当の学問をしていたのは抽斎のほうで、自分ではなかったという痛恨を禁じ得なかったからではないか、と思うようになりました》。

この江藤淳の二度の問いかけに小林秀雄は無言のままである。渋江抽斎に鴎外が書き込まれているのはたしかであり、「あばたもえくぼ」の箇所がふんだんにあるのもたしかである。

あばたといわずにも、「もののあはれ」を語れば、人は女々しくなる。

おほかたの人の情といふ物は、女童のごとく、みれんにおろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にあらず、それはうはべをつくりひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢで、つゝむとつゝまぬとのたがひめ計也(本居宣長『紫文要領』)

《男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にあらず》とあるが、通念としての男のあるべき姿は《きつとして、かしこき》ことだろう。だが惚れるとは女になることなのである。

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010

宣長は愛する人だった。

事しあれば うれしかなしと 時々に うごく心ぞ 人のまごころ
うごくこそ 人の真心 うごかずと いひてほこらふ 人はいは木か
真ごころを つつみかくして かざらひて いつはりするは 漢のならはし
から人の しわざならひて かざらひて 思ふ真心 いつはりべしや  

――本居宣長「玉鉾百首」

小林秀雄はこの漢ごころに対する大和魂賛美を、たとえば次の文などを引用して語っているが、漢ごころとは《きつとして、かしこき》孟子風の態度であり、宣長は孔子はまったく違うと言っている。だから必ずしも「漢」自体の批判ではない。

孟子ニ、不動心ト云ルハ、大ナル偽ニシテイミジキヒガ事也、心ハモトヨリ動クガソノ用也、動カザルハ死物ニテ、木石ニ異ナル事ナシ、孟子ガ王道ヲ行ハシメムト思フモ、則心ヲ動カスニアラズヤ、又養浩然之気ト云ルモツクリ事也、孔子ニハ、カヤウノウルサキ事ハ、露バカリモ見ヘズ、聖人ノ意ニアラズ、コレモ、カノ心ヲ動カワズト云ト同ジタグイノ、自慢ノ作リ事也(本居宣長『玉勝間』)

…………

ここで精神分析ごころにかなり汚染されているここでの記述にさらに追い打ちをかけることにする(本居宣長も小林秀雄もそんな振舞いをゆるしてはくれないだろうが)。

ジジェク2016年の「私は哲学者だろうか AM I A PHILOSOPHER?」、PDF からである。

我々が「真の哲学者」をストア的に動じない主人の言説と同一とするなら、カントやヘーゲルのような哲学者はもはや哲学ではない。

カント以後「古典的あるいは新古典的なスタイルに哲学」、すなわち「全現実の基本構造」の大いなる透視図としての「世界的視点」の哲学は、議論の余地なくもはや不可能である。

…要するに、カントとともに、哲学はもはや主人の言説ではない。全哲学体系は、内在的不可能性、欠陥、非一貫性の閂によって旋転させられている。ヘーゲルとともに、事態はさらにいっそう展開する。ヘーゲルは(カント派が非難するように)プレ批判的な合理的形而上学へと回帰しているどころか、全ヘーゲルの弁証法は、「主人」の土台のヒステリー的な掘り崩しの一種である(ラカンはヘーゲルを《最も崇高なヒステリー》と呼んだ)。つまりあらゆる哲学的主張の内在的自己破壊と自己超克である。要するに、ヘーゲルの「体系」とは哲学的企画の欠陥を通した体系的ツアー以外の何ものでもない。(ZIZEK, AM I A PHILOSOPHER?  2016)

主人の言説からヒステリーの言説への移行とは、まさに男性的《きつとして、かしこき》態度から女性的《心ヲ動カス》態度への移行である。

ラカン派においては、下の図の上段が男性の論理、下段が女性の論理であり、S1は主人、$はヒステリーである(参照)。




上の文にあらわれているように、ジジェクにとって、ヘーゲルとは大いなる世界の透視図を描く合理的形而上学者ではけっしてなく(かつまた孟子風の「不動心」の哲学者でもなく)、「世界の闇」の哲学者、あるいは次の文にあらわれる否定性、欠如、空虚に「動かされる」哲学者である(バディウも同様である、《よいヘーゲルは「切り裂く」ヘーゲルである。すなわち、より高い統一へと昇華し得ない「非対称的矛盾」のヘーゲルである》(Théorie du sujet))。

意識において自我 Ichとその対象である実体 Substanz との間におこる不等性 Ungleichheitは…否定的なもの Negative 自体である。このネガ Negative は両者の欠如 Mangel と見なしうるが、しかし両者の魂 Seele であり両者を動かす。この理由で若干の古人は空虚 Leere をもって動因と解した。もっとも彼らは…このネガを自己 Selbst としてはとらえなかったが。(ヘーゲル『精神現象学』)

いやあシマッタ・・・、ヘーゲルなどまともに読んでいないにもかかわらずもっともらしく引用してしまった。これこそ「もののあわれ」に反する態度である!

すべて男も女も、わろものはわづかに知れる方の事を残りなく見せ尽くさむと思へるこそいとおしけれ(源氏「帚木」)

そもそも冒頭の百頁ほどしか読まずに長いあいだほうったらかしてあった小林秀雄の『本居宣長』をようやく読んだばかりのところでこうやってすぐさま記すのも「もののあはれ」にすこぶる反する振舞いである! これはなにやらと「さわいでいるだけ」の文である。《かぢとり、もののあはれも知らで、おのれ酒をくらひつれば、はやくいなむとて、しほみちぬ、風もふきぬべしと、さわげば》云々(紀貫之『土佐日記』)