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2017年7月24日月曜日

神仏習合と神仏分離

「神仏習合と神仏分離」などという表題をつけたが、以下は小林秀雄の『本居宣長』を読むなかでの派生備忘であり、一夜漬けとはいわないまでも、一週間漬け程度の、「ほぼ千年の間、日本文化そのものであった神仏習合思想」が明治政府の神仏分離政策によって崩壊したという「通説」しか知らなかった者のメモである。


◆加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年より
十七世紀以前に日本仏教は神仏習合を特徴としていた。神仏習合は、仏教の宗教的超越性を排して「現世利益」を強調することで大衆の中へ浸透したのである。十三世紀にはいわゆる「鎌倉仏教」が神仏習合を破って仏教信仰の超越性を強調する。しかしそれも、その後次第に神仏習合の広大な土壌に吸収されていった。その後最後にあらわれたのが、キリスト教弾圧の手段として徳川政権が導入した寺請制度である。寺請制度はすべての大衆を仏教寺院に強制的に登録する。寺院組織は行政機関の一部になり、タテマエとしての仏教の大衆化が徹底するが、同時に強い信仰の体系としての仏教は、もはや時代の支配的な価値の中心でなくなった。儀式(葬式など)、神仏習合がとりこんだ祖先崇拝(盆、仏壇)、さまざまな風俗(祭りなど)、全く現世的な願掛けなどは、多かれ少なかれ仏教と係わって徳川時代から今日まで残る。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


◆阪本是丸「神仏分離・廃仏毀釈の背景について」2005年より
本地垂迹説。これに関して、辻善之助先生が明治四十年の『史学雑誌』に「本地垂迹説の起源について」というのをずっと連載されていて、この辻先生の論文がいわゆる神仏習合の歴史を研究する基本の論文になっております。(……)そのなかで先生は、「即神明が仏法を悦び仏法を崇拝するといふ思想を事実的に現出せしめて」、それで神仏習合の端緒を開いた、それ以下は神仏習合の思想の起こったところから本地垂迹説ができるまでを考えてみようということで、「神仏習合」という言葉を使われた。これが最も学術的に早いと考えております。
佐藤弘夫さんが「神仏習合論」を書いている本の中で、神仏習合の帰結である神仏分離について書いています。「仏教と神道とはそれぞれの持続的独自性を保持しながら、相互補完的に習合していたのであり、神道が仏教に包摂されたり、両者が完全に渾然融合する関係にはなかったのである。神仏分離という大きな変革が達成された基盤には、こうした神祇信仰の歴史の流れがあったと理解すべきであろう」というふうに述べています。基本的には私はこの立場に立っております。
朝廷においては、いちばん神仏習合したとされる平安時代にあっても神仏隔離、神事に際しては仏事をしないという、決定的な作業があったということだけは知って置いていただきたい。
私は神仏分離が良かったとかけしからんといったことではなくて、一体何故そういうものが可能だったのか、しかも、それは単なる権力だけだったのか。いや、実はそうではなくて、それを受容した一種の受け皿があったのだろう。それがなければ、あれだけのものはできなかったということを述べたいのです。
仮に「ほぼ千年の間、日本文化そのものであった神仏習合思想」なるものが存在したとしても、実際にはそれに何の関心も興味も、そして信仰もなかった者たちが別当・社僧・寺僧となっていたのではないか、という疑念が拭い切れないのです。(阪本是丸「神仏分離・廃仏毀釈の背景について」2005年、pdf


◆大黒学「国家神道の基礎知識」2007年より

【神仏習合】
複数の宗教が一体化される現象は、「習合」と呼ばれる。神社神道と仏教は、その間にさまざま な形態の関係を展開させた。その結果として生じた神社神道と仏教との習合は、「神仏習合」と呼ばれる。 神仏習合にはさまざまな形態がある。そのひとつは、神は仏による救済を必要とする存在であると考える形態の神仏習合である。この考え方のもとに、「神宮寺」と呼ばれる仏教の寺院が神社の傍らに建立され、そこで神社の祭神に対する供養が実施された。 神は仏教を守護する存在であると考える形態の神仏習合もある。すなわち、帝釈天や梵天などのインドの神々と同列の位置に神社神道の神々を置くという形態の神仏習合である。この考え方のもとに、仏教の寺院を建立するに際して、その場所の土地神が「鎮守社」と呼ばれる神社に祀られた。

【本地垂迹説】
神仏習合の形態のひとつに、「本地垂迹説」と呼ばれるものがある。これは、神々というのは仏や菩薩が衆生救済のために姿を変えて現われたものであるという思想のことである。 神の本来の姿である仏または菩薩は、その神の「本地」または「本地仏」と呼ばれる。逆に、 仏または菩薩が姿を変えて現われた神は、もとの仏または菩薩の「垂迹」または「垂迹身」または「権現」と呼ばれる。

【廃仏毀釈】
慶応 4 年 (1868) の 3 月から閏 4 月にかけて、政府は、神仏習合に終止符を打つ数回の布告を発した。それらの布告は総称して「神仏分離令」または「神仏判然令」と呼ばれる。神仏分離令は、神社に対して、仏像、梵鐘、仏具などを取り除くことや、 「社僧」や「別当」などと称して 神社に仕えていた僧侶を還俗させることなどを命じたものである。 神仏分離令を契機として、廃仏思想を抱く国学者、儒者、地方官吏、各地の神職は仏教に対する排撃を推進し、それはやがて一般の民衆を巻き込んだ運動へと発展した。この運動は「廃仏毀釈」と呼ばれ、これによって、全国の多くの寺院が廃寺に追い込まれ、また、多くの堂塔、仏像、仏画、仏典などが破壊されたり焼却されたりした。


◆幸田露伴『魔法修行者』より
神仏混淆は日本で起り、道仏混淆は支那で起り、仏法婆羅門混淆は印度で起っている。


◆羽根田文明『仏教遭難史論』より

ーーあまり知られていない方だが、この書の序文を、上に引用した阪本是丸の話に出てくる辻善之助が書いているらしい。

各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。

社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのではなく、廣前に法楽とて読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備え付けるは勿論、御饌(みけ)も魚鳥の除いた精進ものであった。神前に法楽の読経することは、古く詔勅を下して、之を執行せしめられたのである。…

…いずれの神社にも、神前に読経して法楽を捧げたものである。かかる情態(ありさま)であるから、遂にはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は、概ね仏像を神体にしたのである。…

…堂作りの社殿に、極彩色を施し、丹塗りの楼門や二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ。何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ、空しく涙を呑み、窃に時機の来たらんことを待っておった。(羽根田文明『仏教遭難史論』)


◆ヴィーシィ・アレキサンダー「近世寺院と農村の関係を考え直す: 高尾山薬王院の例に基づいて」
徳川社会の基礎となった身分制度において仏教僧侶と尼僧は神主、百姓、町人より高い身分を与えられていました。


◆原田正俊「「江戸時代の政治・イデオロギー制度における神道の地位 ー 吉田神道の場合 ー」によせて」
身分制の問題としても、僧侶身分が近世初頭より比較的安定していたのに対し、神職身分は不確定の部分も多かった。(……)

一部の大社の神職は身分的に安定したものであっても、実際は村落内部に百姓身分の神職も多数存在し、その身分は複雑かつ不安定であった。村落内には専業の神職、庄屋が兼帯する鍵取りといった神職、神宮寺にいたっては社僧が祭礼の道師を勤め、地域や神社によって状況は多様であった。神職の身分の在り方は、僧侶身分に比べて極めて低く、不安定なものであった。

村落内の神職身分の多くは、慣習のもと神まつりを主催するものであって、身分的には百姓と同帳で人別改めが行われている場合も多かった。(原田正俊「「江戸時代の政治・イデオロギー制度における神道の地位 ー 吉田神道の場合 ー」によせて」)


◆菊池寛『明治文明綺談』1943年
徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。

そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。

しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。 

僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。

そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎したのである。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。…

それだけにまた、江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。

『堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(熊沢蕃山「大学或問」)

… 荻生徂徠も、 『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)

と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。(菊池寛『明治文明綺談』1943年)

◆加藤周一『日本文化における時間と空間』
仏教渡来以前からの民間信仰を今かりに神道とよぶとすれば、神道のカミは神仏習合を通して、また仏教を離れて独立に、大衆の中に生き続けた。それは全国的な信仰体系ではなくて、地域的な信仰である。各地方にはその地方の多数のカミがいる。カミは人間の死後の救済にはかかわらず、現世において生活を保護したり、願いを遂げさせたり、幸福をもたらしたりするとともに、条件次第では災害を集団や個人に与えることもある。しかし人間相互の関係に介入して、社会的慣習を超えた規範を要求せず、特定の倫理的価値を正当化しないし、権威づけない。要するに神道を背景としては、仏教的な彼岸の代わりに死後の魂の救済を説くことはできないし、此岸の倫理的な秩序を構築することもできない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)

◆本居宣長『古事記伝』より
さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、(本居宣長『古事記伝』三)


◆中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」より
江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。特に家康の決めた「祖法」は変更を許されなかった。その下で、江戸期の特徴は航海術、灌漑技術、道路建設、水道建設、新田開発、手工業、流通業、金融業の発達である。江戸は人口百万の世界最大都市となり、医師数(明治二年で一万人)も国民の識字率もおそらく世界最高であった。江戸期に創立された商社と百貨店と多くの老舗は明治期も商業の中核であり、問屋、手形、為替など江戸の商業慣行は戦後も行なわれて、「いまだ江戸時代だ」と感じることがたくさんあった。

「戦後レジーム」が米国から多くを学ぼうとしたのも、過去の敗戦後の日本史の法則通りであるといえそうである。米国は、科学から政治経済を経て家庭生活までが理想とされた。気恥ずかしいほどであった(貧しくなった西欧にも類似の米国賛美はあった)。

天皇が政治に関与せず、マッカーサー元帥が将軍として君臨したのも、米軍が直接統治せず、日本の官僚制度を使ったのも、江戸期の天皇、幕府、諸侯の関係に似ている。占領軍の指令は何と「勅令第何号」として天皇の名で布告され、日本政府が実施の責任を負った。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収ーー歴史にみる「戦後レジーム」