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2020年5月2日土曜日

夜這いの原義


此八千矛神、将婚高志国之沼河比売、幸行之時、到其沼河比売之家、歌曰、

夜知富許能(やちほこの)
迦微能美許登波(かみのみことは)
夜斯麻久爾(やしまくに)
都麻麻岐迦泥弖(つままきかねて)
登富登富斯(とほとほし)
故志能久邇邇(こしのくにに)
佐加志売遠(さかしめを)
阿理登岐加志弖(ありときかして)
久波志売遠(くはしめを)
阿理登伎許志弖(ありときこして)
佐用婆比爾(さよばひに)
阿理多々斯(ありたたし)
用婆比邇(よばひに)
阿理加用婆勢(ありかよばせ)
多知賀遠母(たちがをも)
伊麻陀登加受弖(いまだとかずて)
淤須比遠母(おすひをも)
伊麻陀登加泥婆(いまだとかねば)
遠登売能那須夜(をとめのなすや)
伊多斗遠於曾夫良比(いたとをおそぶらひ)
和何多多勢礼婆 比許豆良比(わがたたせれば ひこづらひ)
和何多多勢礼婆 阿遠夜麻邇(わがたたせれば あをやまに)
奴延波那伎奴(ぬえがなきぬ)
佐怒都登理(さのつとり)
岐芸斯波登與牟(きぎしはとよむ)
爾波都登理(にはつとり)
迦祁波那久(かけはなく)
宇礼多久母(うれたくも)
那久那留登理加(なくなるとりか)
許能登理母宇知(このとりもうち)
夜米許世泥(やめこせね)
伊斯多布夜(いしたふや)
阿麻波勢豆加比(あまはせずかひ)
許登能加多理(ことのかたり)
其登母許遠婆(こともこをば)





八千矛の  神の命は
八島国  妻枕(ま)きかねて
遠遠し  高志の国に
賢(さか)し女を  ありと聞かして
麗(くは)し女を  ありと聞こして
さ婚(よば)ひに  あり立たし
婚ひに  あり通はせ
太刀が緒も  いまだ解かずて
襲(おすひ)をも  いまだ解かねば
をとめの  寝(な)すや板戸を
押そぶらひ  わが立たせれば
引こづらひ  わが立たせれば
青山に  鵺(ぬえ)は鳴きぬ
さ野つ鳥  雉(きぎし)はとよむ
庭つ鳥  鶏(かけ)は鳴く
心痛(こちた)くも  鳴くなる鳥か
この鳥も  打ち止めこせね
いしたふや  天馳せ使
ことの  語りごとも  こをば


「夜這い」で検索しても、前々回のようにすこぶるお気に入りのGIFは見出せなかったが、少なくともも吉岡実的味わいのあるーー《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》ーー次のものを貼っておこう。







「つままぎ」と「よばひ」
「妻覓ぎ」という古語は、一口に言えば求婚である。厳格に見れば、妻探しということになる。これと似た用語例にある語は「よばふ」である。竹取物語の時代になると、すでに後世風な聯想のあったことが見えているが、やはり「呼ぶ」を語原としているのである。大きな声をあげて物を言うことである。つまり「なのる」というのと、同義語なのである。名誉ある敵手の出現を望む武士の、戦場で自ら氏名を宣する形式を言うことになってしもうたが、古くは、もっとなまめかしいものであった。 

人の名は秘密であった。男の名も、ずっと古くは幾通りも設けておいて、どれが本名だかわからなくしたものがあった。大汝命などの名の一部分の意義は、大名持すなわち多数の名称所有者の意であって、名誉ある名「大名」を持つという意ではないようだ。事実いろいろの名を持った神である。名を人格の一部と見て、本名を知れば、呪咀なども自在に行うことができるものと見たところから、なるべく名を周知させぬようにしたのである。男はそれではとおらぬ時代になっても、女は世間的な生活に触れることがすくなかったため、久しく、この風は守りおおせたものである。平安朝の中末のころになっても、やはりそうであったようである。

万葉(巻十二)に「たらちねの母がよぶ名を申さめど、道行く人を誰と知りてか」という歌のあるのは『あなたは、自分の名も家も言わないじゃありませんか。あなたがおっしゃれば、母が私によびかける私の名をば、おあかしも申しましょうが、行きすがりの人としてのあなたを、誰とも知らずに申されましょうか。』というのである。兄弟にも知らせない名、母だけが知っている名――父は知っているにしてもこうした言い方はする。しかし、母だけの養い子の時代を考えると、父母同棲の後もそんなこともなかったとは言えない――その名を、他人で知っているというのは夫だけである。女が男に自分の名を知られることは、結婚をするということになる。だから、男は思う女の名を聞き出すことに努める。錦木を娘の家の門に立てた東人とは別で、娘の家のまわりを、自身名と家とを喚うてとおる。これが「よばひ」でもあり「名告り」でもある。女がその男に許そうと思うと、はじめて自分の名をその男に明して聞かすのであった。 

こうして許された後も、男は、女の家に通うので、「よばふ」「なのる」が、意義転化をした時代になっても、ある時期の間は、家に迎えることをせない。これは平安朝になってもそうである。だからどうしても、長子などはたいてい極の幼時は、母の家で育つのである。古くから祖の字を「おや」と訓まして、両親の意でなく「おっかさん」の意に使うことになっているのは、字は借り物だが、語には歴史がある。母をもっぱら親とも言うのは、父に親しみの薄かった幼時の用語を、成長後までも使うたためである。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」初出1924年)



もちろんこの「よばひの原義」は折口解釈によるものだが、現在の国文学者のあいだでも(ネット上でいくらか探る限りでは)ほぼコンセンサスになっているようにみえる。

※付記

恋の原義
こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)
こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ(目上から)に対するこふ・いはふに近いこむ(籠む)などは、其原義の、生きみ魂の分裂の信仰に関係ある事を見せてゐる。(折口信夫「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として」)


➡︎ 「リルケとニーチェの乞い lust」


2019年3月22日金曜日

あなたを乞ふ

「私は愛している j' aime 」とは「私は欠如している je manque de」ということである。(ジャック=アラン・ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)

いやあ、じつにいいな、折口的で。日本人は「愛」などという語を使うべきではない。「乞ふ」でよろしい。愛とは乞食になることである。

こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)
こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ(目上から)に対するこふ・いはふに近いこむ(籠む)などは、其原義の、生きみ魂の分裂の信仰に関係ある事を見せてゐる。(折口信夫「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として」)


「私は愛している j' aime 」=「私は欠如している je manque de」とは、私は去勢されているということである。

ここでの去勢とは、オチンチンをちょん切ることではまったくない。それについては「穴と穴埋め」で比較的念入りに記したので繰り返さない。

その前提で次の文を読まねばならない。

私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢 castration」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジション position féminin からのみ真に愛する。愛することは女性化することである Aimer féminise。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽 un peu comiqueである。(On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller 、 2010)


もっとも「女性的」といっても、単純ではない。女性の享楽というものがあるのだから。これが愛をはばむ諸悪の根源である→「女性の享楽簡潔版」

――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象選択 choix amoureux よりも享楽のポジション position de jouissanceが決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることêtre battue, violée を想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女autre femmeだと想像したり、ほかの場所にいるêtre ailleur、いまここにいない absenteと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)

ああ、なんと厄介な女性の享楽! でも男が女に魅惑されるのは、このせいであるところがおおい。「いやよいやよも好きのうち」ってのは、女性の享楽の審級(身体の自動享楽)にある。女たちはエゴレベルではもちろん否定するが、エスレベルではまがいもない真実である。


女の身体は冥界機械 chthonian machine である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)
フェミニズムは、宿命の女を神話的誹謗、陳腐なクリシェとして片づけようとしてきた。だが宿命の女は、太古からの永遠なる(女による)性的領野のコントロールを表現している。宿命の女の亡霊は、男たちの女とのすべての関係に忍びよっている。(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture: New Essays", 1992)
女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼と怪物の三姉妹(ゴルゴン)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの権力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia “Vamps & Tramps: New Essays”、2011)


一方、男は単純である。男にはよっぼど若くて元気のいいときでなければ、「いやよいやよも好きのうち」なんてのはない。

蚊居肢子が女に惚れるときはだいたい次のメカニズムにある。

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が愛の引き金を引いたdéclenche l'amourのです。

ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を告白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は愛の引き金を見出しましたdécouvre le déclencheur。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。

このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシズム的イメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」、Jacques-Alain Miller、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "2010)


このミレールの言っている話は、フロイトによる愛の古典『ナルシシズム入門』に則っている。




たぶんここでの問いは、原ナルシシズムとは何か? であろう。それ以外は明瞭である。この原ナルシシズムについてはほとんどのフロイト・ラカン派でさえいまだわかっていない。

でも原ナルシシズムとは去勢への愛ーーかつて幼児が自分の身体だと思っていたものへの愛、つまり原大他者としての原母への愛ーーとその反復強迫(死の欲動)である。

原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

ほかの愛とは、すべて転移である。それが上の図で示した「代理人」の意味である。


■ジャック=アラン・ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』(1992)

精神分析における愛は転移 transfert である。…愛はたんなる置き換え déplacement、誤謬 erreur にすぎないように見える。私がある人物を愛するのは、常に別の人物を愛しているためである。Toujours, j'aime quelqu' un parce que j'aime quelqu'un d'outre.

この理由で精神分析において、愛は模造品の刻印を押されている。精神分析は愛のデフレdévalorise l'amour を促しているようにさえ見える。すなわち愛の生の降格 dégradation de la vie amoureuseを。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的であるl'amour est labyrinthique 。愛の道のなかで、人は途方に暮れ自らを喪う。

それにもかかわらず精神分析は愛の道を歩む。転移なき分析はない Il n'y a pas d'analyse sans transfert。…

分析家の実践は、愛の自動的性格 caractère automatique de l'amour を是認し利用する。…愛されるためには、分析家でありさえすれば十分である Pour être aimé, il suffit d'être analyste.。

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動性 l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちに食事を与えている場に遭遇した瞬間だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…(ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』1992)

長くなるが、引き続いた箇所のほうがいいかな。

我々はフロイトの仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移である l'amour est transfert。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。

精神分析作業は何に関わるのか? 対象a と対象x とのあいだの類似性、あるいは類似性の顕著な徴に関わる。これは、男は彼の母と似た顔の女に惚れ込むという考え方だけには止まらない。しかし最初のレベルにおいては、類似性のイマジネールな徴が強調される。この感覚的徴は、一般的な類似性から極度の個別的な徴へ、客観的な徴から主体自身のみに可視的な徴へと移行しうる。

そして象徴秩序に属する別の種類の類似性の徴がある。それは言語に直接的に基礎を置いている。例えば、「名」の対象選択を立証づける精神分析的な固有名の全審級がある。さらに複雑な秩序、フロイトが『フェティシズム』論文で取り上げた「鼻のつや Glanz auf der Nase」--独語と英語とのあいだ、glanz とglanceとのあいだの翻訳の錯誤において徴示的戯れが動きだし、愛の対象の徴が見出されるなどという、些か滑稽な事態がある。

類似性の三番目の相は、ひょっとして、より抽象的かもしれないが、愛の対象と何か他のものとの関係に関わる。すなわち主体が、かつて根源的対象と経験した同じ関係の状況のもとにある対象xに恋に陥ることがありうる。あるいはさらに別の可能性、対象x が自我自身と同じ関係にある状況。

フロイトは見出したのである。「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…

例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択choix d'objet narcissique である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)

例外はない。女性の方のなかには、「アタシとカレとのあいだの愛はそんなのじゃないわ」という人がいるかもしれないが。

私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。 事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。

また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。 こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な女性に会ったことがない不幸な男である、 という風に曲解して、私に同情を寄せてくる女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。 しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。 (三島由紀夫「女ぎらひの弁」)

いやあ、シツレイ! この三島ってヒドイね。でも彼は原ナルシシズムの人だから許してあげてください。

三島由紀夫は生後まもなく祖母夏子に取り上げられ、母親は4時間置きに、授乳をする時のみにしかわが子に逢う機会はなかったという話は名高く、これでは極端な「原ナルシシズム」人格になるに決まっている。原ナルシシストとは原母だけに忠誠を捧げ、他の女は糞という人格である。

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡traitsがある。何よりもまず、母への深く永遠な関係 un rapport profond et perpétuel à la mère である。(ラカン、S5、29 Janvier 1958)
⋯⋯⋯このようにして同性愛になったものは、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着 Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧(放逐)することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 der Mutter treu な者となる。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)

ネット上をみるとよくまとまった文があるので貼り付けておこう。

三島の初期の母子関係は異様なものであった。多くの人がその異様さの一端として引用するが,『伜』 によれば,三島の授乳は4時間おきで,祖母・夏子によって管理されており,授乳時間も10分か15分と決まっていたという(安藤,1998)。また,早くから母親と引き離され,ヒステリー持ちの祖母のカビ臭い部屋に置かれ,祖母の世話役的な育てられ方をした。近所の男の子との遊びも悪戲を覚えてはいけないとの理由で禁止され,女の子として育てられた。祖母の名を差し置いて最初に母の名を呼ぶことが祖母の ヒステリーを誘発することを恐れた幼い三島は,いつも祖母の名を先に呼ぶよう気を遣っていた(平岡, 1990)。

こうした陰鬱な時間は,三島が16歳で書いた処女作『花盛りの森(1944)』の中に,「祖母は神経痛をやみ,痙攣を始終起こした。(中略)痙攣が,まる一日,ばあいによっては幾夜さもつづくと,もっ と顕著なきざしが表れてきた。それは『病気』がわがものがおに家じゅうにはびこることである」と,幼い感受性でとらえた異常さと緊張が描写されている。ここには,①母性の早期の剥奪,②性の同一性の混乱,③依存を体験する前に大人に対する気遣いや世話を身につけてしまったことなど,世代の錯綜の問題などがすでに孕まれており,三島自身が初期に拘るようになるに十分な人生のスタートであった。(井原成男「ロールシャッハ・テストプロトコルからみた 三島由紀夫の母子関係と同性愛」2015)

2018年3月10日土曜日

巫女の緋袴

巫女の緋袴がとてつもないエロスを喚起するのはアキラカデアルガ、「赤と青と緑とゴダール」にて、「赤」という発情色についてそれを理論的に示した。




わたくしは30年ほどまえ京都に住んでおり、京都のなかでは最も好みの神社・北野天満宮をしばしば訪れたが、あるとき「梅仕事」をする巫女の姿に雷を打たれたことがある。だがあれはごく自然な現象であったのである。




この姿にとことん魅せられるのは、ほとんどすべての男性諸君と同様であろう。ただし、もしアナタがかりにあの処女たちに、みづのをひもを解いてまた結んでいただき、幸運にも「禊ぎの聖水」を浴びたとしても、無暗に歓喜してはならない。

・七処女は、何のために召されたか。言うまでもなくみづのをひもを解き奉るためである。…みづのをひもを解き、また結ぶ神事があったのである。

・みづのをひもは、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。

・そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。(折口信夫『水の女』)

すなわち「男なんざ光線とかいふもんだ/蜂が風みたいなものだ」(西脇順三郎)なのであり、聖水を浴びた後には、すぐさま「イボタの繁みから女のせせら笑いが/きこえてくる」のである。実のところアレはたまさかの蜘蛛の巣払いにすぎない。

わたくしは大学入試のときに九段のさるホテルに一週間ほど泊まったのだが、そのときあの悪評高い靖国神社に訪れたことをここで白状しなくてはならない。

あの神社はじつに美的な構造をもっている。杣径、つまり森の鞘の参道先に神殿があるのは、おおくの神社でもそうであるのだろうが、それに瞭然と開眼させられたのは、あの神社を訪れたときが初めてである。




杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 Holzwege と呼ばれている。(ハイデガー『杣径』)

そして、杣径の先の森の空地 Lichtungには、外立がある、《存在の開けた明るみ Lichtung の中に立つことを、私は、人間の「外立 Ex-sistenz」と呼ぶ。》(同ハイデガー)

外立、すなわちエク・スターシス ek-stasis とは、自身の外へ出てしまうことである。エクスタシー的開け(エクスターティッシュ・オッフェン ekstatisch offen)、忘我、恍惚、驚愕、狂気である。

18才の田舎者の少年が、緋袴のお尻をゆらめかせた巫女から、上品な流し目をおくられて神殿の奥に誘導サレタラ、どうして忘我恍惚とならずにいられよう? あれはロラン・バルトのいう沈黙のなかの叫び、「ゆらめく閃光 un éclair qui flotte」であった。




ああ、《竹藪に榧の実がしきりに落ちる/アテネの女神に似た髪を結う/ノビラのおつかさんの/「なかさおはいりなせ--」という》あの眼差し、あの言語外の仄かな言葉・・・(西脇順三郎「留守」)


ところで巫女たちが緋袴をはくように正式に取り決められたのは、明治以降らしい。それまでも赤い袴が主流ではあったらしいが。

いま画像を探ってみると、巫女の紺袴もあるようだ。




ああ、だがこれでは完膚なきまでのエロスの不在である。女性のみなさん、オトコを誘いたいときは、かならず赤い服を着ましょう!

紺袴では、「神の妻(メ)」・「一夜配偶(ヒトヨヅマ)」としてあきらかに失格である。もし朱色があからさまに猥褻だと感じてしまう繊細で上品な女性であるならば、京都下鴨神社の巫女にときにみられたあの臙脂色にすべきである。




邑落生活に於ける原始信仰は、神学が組織せられ、倫理化せられ、神殿を固定する様になつても、其と併んで、多少の俤は残らない地方はない程根強いものであつた。

常世からする神に対する感情は、寧「人」と言ふのが適してゐた。又、其が「人」のする事である事を知つて居たからかも知れない。我々の祖先は、之に「まれびと」と命けた。思ふに「まれびと」は、数人の扮装した「神」が村内を巡行する形になつて居るのが普通であるが、成年者の人員が戸数だけあつたものとして、家毎に迎へ入れられて一夜泊つたものと思はれる。さうして其家の処女或は主婦は、神の杖代として一夜は神と起臥を共にする。扮装神の態度から神秘の破れる事の多い為に、「神」となる者の数が減り、家毎に泊る事はなくなつたのであらう。だから邑落生活に於ける女性は、悉く巫女としての資格を持つてゐなければならなかつた。

巫女の資格の第一は「神の妻(メ)」となり得るか如何と言ふ事である。村の処女は必神の嫁として神に仕へて後、人の妻となる事が許されたのである。後期王朝初頭に於いて、民間に設ける事を禁じた采女(ウネメ)制度は、古くは宮廷同様国々の豪族の上にも行はれた事なのである。邑落々々の現神なる豪族が神としての資格を以て、村のすべての処女を見る事の出来た風が、文化の進んだ世にも残つてゐたのだ。数多の常世神が、一つの神となつて、神々に仕へた処女を、現神一人が見る事に改まつて来たのである。而も、明らかに大きな現神を戴かなかつた島々・山間では、今に尚俤の窺はれる程、近い昔まで処女の貞操は、まづ常世神に献ずるものとして居たのである。初夜権の存在は、采女制度の時代から現代まで続いてゐると見てよい。「女」になるはじめに、此式を経る事もある。裳着は成女となる儀式である。形式だけだが、宮廷にすら、平安中期まで、之を存してゐた。

神の常任が神主の常任であると共に、巫女も大体に於いて常任せられ、初夜の風習も単なる伝承と化してしまふ。すると、巫女なる処女の貞操は、神或は現神以外の人間に対しては、厳重に戒しめられる事になる。即「人の妻(メ)」と「神の嫁」とは、別殊の人となるのである。かうした風の生じる以前の社会には、常世神の「一夜配偶(ヒトヨヅマ)」の風が行はれてゐたものと思ふ事が出来る。其一人数人の長老・君主に集中したものが、初夜権なのである。(折口信夫『「とこよ」と「まれびと」と』)

なにはともあれ、「たたる」ことが肝要である。「祟り」とは、ハイデガーの「エク・スターシス ek-stasis」、すなわち「エクスタシー的開け(エクスターティッシュ・オッフェンekstatisch offen)」に違いないのである。


・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。

・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。

・たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。

・此序に言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)


そして恋とは、魂乞ひであり、巫女とはその至高の表象である。






こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)


そういえば、巫女の映画というものを観たことはないのだが、かつてあったのだろうかと探れば、あるにはあるようだ、だが行き当たったものはごく最近の作品「巫女っちゃけん」である。



ーー実に教育的な映画でスバラシイ

わたくし京都時代の住まいから歩いて5分ほどの場所に「梅宮大社」というまったく「大社」ではないお酒の神様を祀る神社があって、当時は桝酒が無料で飲めた。散歩がてら、あるいは煙草を買いにいくついでにしばしば訪れたものである。楼門前は、おそらく生活のためだろう、月極駐車場になっていた(最近ではあの下鴨神社でさえ経営難らしいが)。

梅苑は、梅の季節以外でもその鄙びた(ほとんど手入れされていない)佇まいーー菖蒲や紫陽花がことに美しかったーーを愛してしばしば訪れた。ところが入苑料をはらう窓口に坐っている巫女さんがしばしば居眠りしていて呼びかけてもなかなかオメザメにならないのである(梅の季節以外は、である)。不在のときも多かった。仕方なしにほぼつねに無銭入苑をさせていただいたことを懐かしく想い起してしまった。





さて話を戻せば、日活ロマンポルノ・リブート・プロジェクトにおいても、ぜひ巫女映画をつくるべきである。かつての黄金時代でさえ、日活ポルノ・エース監督の神代辰巳による、巫女の変種としての「凡庸な」映像しかないのである。


(四畳半襖の裏張り、神代辰巳、1973)


くりかえせばーーわたくしの偏見ではーー、梅摘みをする巫女が映像がこよなく重要である。すなわち卵よりも梅のほうがずっと大切である。

季節の関係でやむえないにしろ、西脇は、薔薇や菫、林檎や栗につけくわえて梅の実を歌うべきではなかったか。

灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に
麦の穂や薔薇や菫を入れた
籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。
生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で
神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。

ーー西脇順三郎「秋」


わたくしの場合、キノコ型のヒョウタンを磨き始めるためには、栗より梅のほうがずっと適している。

ラカンは次のように言っている。

トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance(ラカン,E 853)

すなわち欲望の審級から享楽への審級に「エクスタシー的開け(エクスターティッシュ・オッフェンekstatisch offen)」をするためには、人は梅の生垣に穴をあけねばならぬ。

人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」より)




もっとも巫女たちに梅摘みではなく、むしろ笛をふいていただく事により、こよなきエロスを喚起する場合があるのを否定するつもりはない。




ふと今思いついたが、神社神殿の大奥に「笛吹きの間」、「梅摘みの間」、あるいは折口の示唆を受けて「一夜配偶(ヒトヨヅマ)の間」を設ければ、21世紀における神社経営難などすぐさま解消するのではなかろうか。ようするに巫女・采女の「たたり」による「とこよ」ビジネス・「まれびと」ビジネスである。あの緋袴の乙女たちに雑事を与えることのみに終始してしまうのはいかにも勿体無く、本来の「魂乞ひ」の仕事をさせねばならない。

なにはともあれ肝腎なのは、折口のいう「「しゞま」の「ほ」」である。「とこよ」ビジネスとはなにも性交などしなくてもよいのである。この点、20世紀後半の至高のトウサク映画作家ベルトルッチは、わが日活ロマンポルノにはるかに先行していた。

たとえば Novecento である。



ひとはロバート・デ・ニーロとジェラール・ドパルデューのあいだにいる女性は巫女ではないかと思いを馳せてみなければならない。事実、彼女はこのあと神のたたりをおこすのである。




くりかえして強調すれば、実に折口的映像である。

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)


2017年8月31日木曜日

20世紀わが日本のサド侯爵

一體文學などいふものは、一人がよいといひだすと、いつまでもその批評が續くもので誰も彼も、前の人の言葉から離れて考へることの出來ないものであつて、存外つまらないものでも、昔の人が讃めたのだからといふので、安心してよいものだと思つてゐることがたび〳〵あります。赤人で例を取つて見ると、先の、

和歌の浦に潮みち來れば、潟をなみ、葦べをさして鶴鳴きわたる 

のようなもので、これがよいと思ふようでは、あなた方の文學を味ふ力が足りないのだと反省して貰はねばなりません。他人がよいからよいと思ふのは、正直でよいことですが、さういふのを支那の人はうまくいひました。それは、耳食といふ言葉で、人がおいしいといふのを聞くとおいしいと思ふのは、口で食べるのではなくて、耳で食べるのだ。見識がないといふ意味に使つてゐます。書物はたくさん讀まなくても、耳食の人にならない用心が必要です。(折口信夫『歌の話』)

いやあすばらしい。この折口信夫の話を読んでいると、多くの万葉秀歌に不感症のままの自らを慰めることができる。

最初期、正岡子規門下だったせいもあるのだろう。

真淵は歌につきては近世の達見家にて、万葉崇拝のところ抔当時にありて実にえらいものに有之候へども、生らの眼より見ればなほ万葉をも褒め足らぬ心地致候。真淵が万葉にも善き調あり悪き調ありといふことをいたく気にして繰り返し申し候は、世人が万葉中の佶屈なる歌を取りて「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するを恐れたるかと相見え申候。固より真淵自身もそれらを善き歌とは思はざりし故に弱みもいで候ひけん。しかしながら世人が佶屈と申す万葉の歌や、真淵が悪き調と申す万葉の歌の中には、生の最も好む歌も有之と存ぜられ候。そを如何にといふに、他の人は言ふまでもなく真淵の歌にも、生が好む所の万葉調といふ者は一向に見当り不申候。(尤もこの辺の論は短歌につきての論と御承知可被下候)真淵の家集を見て、真淵は存外に万葉の分らぬ人と呆れ申候。かく申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候。(正岡子規『歌よみに与ふる書』)

みなさんも折口信夫を見倣わなければならない!

◆加藤守雄『わが師 折口信夫』より。

「中山太郎氏の『日本盲人史』が出版され、それを記念する会合が(中略)催された時のことである。

主賓の中山さんが、演壇に上って挨拶していた。『日本盲人史』をまとめる苦心談のような ものだったが、その中で、折口先生の持っていられる久我家の文書のことにふれた。それは盲人史の資料としては重要なもので、もしそれ借覧することが出来ていたら、私の書物はも っと完全なものになったろう、といった意味のことを、皮肉まじりにのべた。

その時、最前列にいた折口先生が、突然立ち上った。飲みかけた茶碗を手に持ったまま、 つかつかと演壇に近づいた。

「中山さんのことばは、学者を侮蔑するものです。私は資料を貸し惜んだ覚えはありません。 資料をかくして置いて、それをたてに、他人の足をひっぱるような真似をするくらいなら、学問なぞ致しません。あの文書は全部お貸しします。失礼ですが、中山さんの書かれるものより、もっと秀れたものを書く自信が私にはあります」

出版記念会という場所柄から言っても、その主催者という立場から言っても、ほとんど無茶と言うべき発言だった。」

「同じようなことは、日本歌人協会の会長候補に佐佐木信綱博士が選ばれた時にも起きた。

その場にいた人から話を聞いて、私はその光景を目に見る思いがした。」

「「聞いているのが恐ろしいくらいでした」と、その人は言った。

「昭和の歌人のすべてが、佐佐木さんの業績を無条件に讃美していたと思われては、後世への恥辱です。私は皆さんのおっしゃるほどの価値を認めることは出来ません」歯にきぬ着せずに言われたらしい。」

「先生は悪意のある批評や、自分を傷つけようとする言論には、つねに痛烈に反撥された。 被害者意識も強かったようだ。しかし、どの場合にも、陰で足をひっぱったり、悪口をささやいたりはされない。常に、公衆の面前での、したがってしばしば無茶に見える、反撃だった。 先生の怒りは、不当にいためつけられた自我を回復する為の戦いなのだ。

そこには、時と所と相手とを全く顧慮しない、いちずさがあった。」

20世紀わが日本のサド侯爵のようではないか!

作家というものはその職業上、しかじかの意見に媚びへつらわなければならないのであろうか? 作家は、個人的な意見を述べるのではなく、自分の才能と心のふたつを頼りに、それらが命じるところに従って書かなければならない。だとすれば、作家が万人から好かれるなどということはありえない。むしろこう言うべきだろう。「流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ」。世論の馬鹿げた潮流が自分の生きている世紀を泥沼に引きずりこむなどということはしょっちゅうなのに、あのように自説を時流に合わせて曲げている哀れな輩は、世紀を泥沼から引き上げる勇気など決して持たないだろう。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」、『ガンジュ侯爵夫人』)

安藤礼二の『折口信夫』(2014年)ーー、一部で評判がとても高いーーの評言もネット上から拾うことができたので、ここに付け加えておこう。

・折口は自らの最後をすべてが消滅するゼロの地点に定める。・・・すべてをゼロにまで破壊し尽くし、その破滅の果てに新たなものの萌芽を見届けること。ゼロは新たなものの可能性を潜在的に孕んだ生成の場でもあった。

・折口はスサノヲ(出雲)の暴力とアマテラス(伊勢)の愛欲をともに認めてくれるような新たな神道の倫理を創り上げようとしていた。そこでは自然そのものが生ける神だった。自然は静的に理解されるものではなく、動的に生きられるものだった。他力ではなく自力で。(安藤礼二『折口信夫』)

※ここでの記述は、「折口信夫と女たち」とともに読まねばならない。かつまた「藤澤寺の餓鬼阿弥」とともに。



2017年8月30日水曜日

先史時代人と母との遭遇

折口信夫は「文学の起源」を「神授の呪言」だと言っている。

信仰に根ざしある事物だけが、長い生命を持つて来た。ゆくりなく発した言語詞章は、即座に影を消したのである。私は、日本文学の発生点を、神授(と信ぜられた)の呪言に据ゑて居る。(折口信夫「国文学の発生」)

折口信夫が徹底的に美しいのは、こういう箇所である。

たゞ今、文学の信仰起原説を最頑なに把つて居るのは、恐らくは私であらう。性の牽引や、咄嗟の感激から出発したとする学説などゝは、当分折りあへない其等の仮説の欠点を見てゐる。さうした常識の範囲を脱しない合理論は、一等大切な唯の一点をすら考へ洩して居るのである。音声一途に憑る外ない不文の発想が、どう言ふ訣で、当座に消滅しないで、永く保存せられ、文学意識を分化するに到つたのであらう。恋愛や、悲喜の激情は、感動詞を構成する事はあつても、文章の定型を形づくる事はない。又第一、伝承記憶の値打ちが、何処から考へられよう。口頭の詞章が、文学意識を発生するまでも保存せられて行くのは、信仰に関聯して居たからである。信仰を外にして、長い不文の古代に、存続の力を持つたものは、一つとして考へられないのである。(折口信夫「国文学の発生(第四稿) 唱導的方面を中心として 」)

もちろん「神授の呪言」における「神」や「呪言」をそのまま受けとるのではなく、現在のわれわれにとって神や呪言とは何かを問えばいいのである。ラカンは、神とは実は女のことだと言った。そしてわれわれの起源として母の舌語(ララング lalangue maternelle)、そのリトルネロを語った。

いずれにせよわれわれだれもが先史時代を経てきている。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』)

冒頭の折口の文を読んで、蓮實重彦が吉本隆明を引用しつつ書かれた70年代の文の「真意」にようやく接近した心持がする。

実は、この狩猟人と海との遭遇を、人類の歴史的な一時期に、ことによったらありえたかもしれない事実としてではなく、言語的な環境にあってたえず起こりつつあるはずなのに、それが不断に起りそびれていることへのいきどおりに近いものとして想像している吉本隆明を認めること(蓮實重彦)

もっとも以下で記そうとしていることは、「狩猟人と海との遭遇」とは、個人の発達段階においては「個人的先史時代人と母との遭遇」ではなかろうか、ということだが。

さて蓮實重彦文をもうすこし長く引用しておく。

……たとえばそれを「文化」の領域に据えてみた場合、マルクス、フロイト、ソシュール、レヴィ=ストロースといった「文化」的相貌のもとにたやすく傷つく無数の言葉を孕み持った吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』と題された一冊の書物は、「言語学」、「精神分析」、「文化人類学」などの「文化」的体系の中に住まう言葉からの執拗な、そして執拗であるからにはおのずとその限界を露呈せざるをえない攻撃にさらされており、もちろん、その攻撃のいっさいが無償の饒舌だとは断定しえないが、にもかかわらずなお吉本氏の言葉が言葉として自分を支えうるのは、それが言葉自身の孕む夢を虚構として切り捨ててはいないからだ。「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする」と吉本氏は「発生の機構」と題された冒頭の一節で「言語の本質」を探りつつ書いている。「人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発するはずである。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視覚に映ったとき意識はあるさわりをおぼえ〈う〉なら〈う〉という有節音を発するだろう。このとき〈う〉という有節音は海を器官が視覚的に反映したことにたいする反映的な指示音声であるが、この指示音声のなかに意識のさわりがこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取していれば〈海(う)〉という有節音は自己表出として発せられて、眼の前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示することになる。このとき、〈海(う)〉という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる」。

差異の概念を導入することなく音声の記号化に言及しているという意味でまさか、と言語学者は絶句するだろうし、言語学者ならずともそれに似た反応をみせるに違いないこの段落において、動物的な条件反射から意識的なしこりをへて自己表出としての指示性を獲得するという言語発生をめぐる吉本的な語彙の強引な展開ぶりに苛立つことは、ほとんど意味を持っておらず、狩猟人と青い海との遭遇によって、フランス人ロラン・バルトが日本語のうちに認めた言語的理想郷と同質の風景を構築した吉本氏が、「われわれの内部で西欧(日本)の総体が動揺し、父親たちから受けついだ国語がぐらりと揺れるにいたるまで、翻訳不能なるものの振動を感知し、それを決して減衰させずにおきたいという夢」をそのきわめて具体的な相貌において記述しているという点がまず何よりも重要なのだ。もちろんここでの吉本的な狩猟人は、西欧人バルトが苛立っている「体系」の重みをまったく背負っていないかにみえるが、実は、この狩猟人と海との遭遇を、人類の歴史的な一時期に、ことによったらありえたかもしれない事実としてではなく、言語的な環境にあってたえず起こりつつあるはずなのに、それが不断に起りそびれていることへのいきどおりに近いものとして想像している吉本隆明を認めることこそが、言語の夢にふさわしい読み方というものだ。おそらく海ばかりでなく「青さ」そのものを知らなかった吉本氏の狩猟人は、それを色彩として捉えうる瞳を持たぬままに、自然が洩らしたとも知れぬ〈う〉の音の声としては響かぬ共鳴ぶりに捉えられて立ちつくし、それがまだ聴いたことのないある響きに酷似していることをすばやく察知するに違いない。(蓮實重彦「言葉の夢と「批評」」『表層批判宣言』所収)

「たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする」を読み換えてみよう。「たとえば個人的先史時代人が、ある日はじめて世界に迷いでて、最初の誘惑者に遭遇したとする」。

…生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者 Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

このフロイトをめぐるラカン派の解釈については後述することにして、ここでは蓮實の『表層批判宣言』における折口信夫の『古代研究』に感嘆する西郷信綱への言及をまず引用しておく。

……「社会」と「個人」という対立の捏造が古代文学をも犯す「制度」になってしまっている現実を苦々しく喚起するのは、ここでは詳述しがたい理由によって井上究一郎とともに現代日本が持ちえた最大の「批評家」として位置づけうるべき西郷信綱である。たとえば「増補・詩の発生」(未来社)におさめられた「文学意識の発生」において、「文学の発生」という彼自身の主題の上を旋回しつづける二冊の書物、風巻景次郎の『文学の発生』と折口信夫の『古代研究』がもたらした感銘について語りながら、その主題探求の一時期に「人間の自我意識」という「近代的な概念」(“近代”傍点 原文)のみに立脚したおのれの方法的混乱を告白している。そしてその混乱は、一般に文学以前と想定される「非文学」の中に、「観念や意識ではなく、形であり造型である」文学の姿をいわば野性の思考として解き放つべく決意したときに解消されたのであり、その苦々しい体験から、「批評」が、井上究一郎の『失われた時を求めて』の翻訳にも比較すべき『古事記注釈』(平凡社)として結実しつつあるのだろうが、その混乱解消の契機となったのが、「社会」と「個人」というあのうんざりするほかない対立の図式の廃棄であったという点は、とりわけ注目されねばなるまい。(蓮實重彦「表層の回帰と「作品」」『表層批評宣言』所収)

こうして蓮實重彦は、90年代には、《「シーニュ」、「シニフィエ」、「シニフィアン」という三つの語彙がきわだたせる言語記号の定義が、ソシュール自身にとっての不幸にとどまらず、いまやその決算期にさしかかりつつある二〇世紀的な「知」の体系が蒙りもした最大の不幸なのもかしれぬという視点が、しかるべき現実感を帯び始めているのはまぎれもない事実だといわねばならない》(蓮實重彦「「魂」の唯物論的擁護にむけて」 1993年)と言うことになる。

上に引用したように西郷信綱は《観念や意識ではなく、形であり造型である》文学、その野性の思考ということを言っているが、ラカン派では言語の物質性(純シニフィアンの物質性)の強調、あるいはこの物質性にかかわるララングについて次のように言われたりする。

身体とララングとの最初期の衝撃。これが、法なき現実界、論理規則なき現実界を構成する。choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique.(ミレール2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)

…………

 ーー《ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン petite rengaine、リトルネロ ritournelle としての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。》(ドゥルーズ&ガタリ『ミラ・プラトー』1980年)

ラカンにとってリトルネロとは、母の言葉である。

リトルネロとしてのララング(母の舌語)lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)

この母の言葉が反復強迫=永遠回帰する。

ラカンは神とは実は女のことだ、と言っている。

精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 〉La femme》だということである。 ……Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、S23、16 Mars 1976ーー玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë)

こんなことはじつはーー無意識的にはーー誰もが知っている。最も静かな時間に訪れるのは母なる「女主人」である。知らないのは「最も静かな時間」を知らない連中だけである。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

「わたしの恐ろしい女主人」とは、アリアドネの声、母の声(音調)、そのリトルネロ、母のララングである。 lalangue(ララング)とはまず、喃語 lalationにかかわる。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収)

《「もの」としての言葉》と記す中井久夫には、「音調」のニーチェ(参照)はもとより、「ララング」や「言語の物質性」のラカン、あるいは折口信夫や西郷信綱、吉本隆明がいる、としてよいだろう。

ラカンは後年、眼差しと声を対象aの主要な化身として分離した。しかし彼の初期理論は眼差しが疑いようもなく特権化されている。だが声はある意味ではるかに際立ち根源的である。というのは声は生命の最初の顕現ではないだろうか?自身の声を聴き、人の声を認知する経験、これは鏡像における認知に先行するのではないか?そして母の声は最初の〈他者〉との問題をはらむつながりではないか?臍の尾に取って換わる非物質的な絆であり、最初期の生のステージの運命の多くを形作るものではないか?(ムラデン・ドラー  『Gaze and Voice as Love Objects』私訳)

◆喃語をしゃべる生後10ヶ月の赤ちゃん




わたくしが知りえたララングの最もすぐれた定義文を、仏女流ラカン派第一人者のコレット・ソレールの近著(ブルース・フィンク英訳2016)から引用しよう。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングlangageは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕éclipse等々で包む。ララングlangageが、母の舌語(la dire maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール2011, Colette Soler, Les affects lacaniens)

折口のいう文学の信仰起原(文学音声一途に憑る外ない不文の発想)、《神授(と信ぜられた)の呪言》は、現代のわれわれにとっては母のリトルネロ(ララング)として解釈されうる。母のララング、すなわち母の呪言=神授の呪言。

「アリアドネ」とディオニュソスが言った。「おまえが迷宮だ。」Ariadne, sagte Dionysos, du bist ein Labyrinth: (ニーチェ遺稿、1887年)

どの女にも母の影は落ちている。それがニーチェのアリアドネヴァリエーションである。

アリアドネはコジマ・ワーグナーだけもなく、ルー・アンドレアス・サロメだけでも彼の妹エリザベートだけでもない。その底には、真の迷宮としての母の呪言がある。

ニーチェは自白しているではないか。

わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と 妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつって いる。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙ってin meinen höchsten Augenblicken くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和 disharmonia praestabilita を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ。― (ニーチェ『この人を見よ』--妹エリザベートによる差し替え前の版 Friedrich Wilhelm Nietzsche: Ecce homo - Kapitel 3 )

ルー・アンドレアス・サロメは1894年にすでに次のように指摘している。

私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)

輝かしい理想としての永遠回帰は「不気味なもの」の仮面にすぎない(参照:不気味な仮面と反復強迫)。そしてその不気味なものの核心は、母のリトルネロ(ララング)である。

この「母の呪言」の「母」は、イマジネールな母ではない。大文字の母、母なる偉大な神としての母である。すなち誰にとっても原初にある《偉大な母なる神 große Muttergottheit》(『モーセと一神教』1939)、あるいは「原母 Urmutter」(ポール・バーハウ、1999)である。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネールーー「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」)

この「原穴の名」としての母、その呪言が恐ろしい理由を、死の直前のデリダがたくみに指摘している。

鳩が横ぎる。ツァラトゥストラの第二部のまさに最後で。「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」。

最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。それは私自身である。私の時間。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い plus proche de moi。私自身であるかのようにcomme en moi。私のなかの他者の声のようにcomme la voix de l'autre en moi。他者の私の声のように comme ma voix de l'autre。

そしてその名、この最も静かな時刻の名は、《わたしの恐ろしい女の主人》である。

……今われわれはどこにいるのか? あれは鳩のようではない…とりわけ鳩の足ではない。そうではなく「狼の足で à pas de loup」だ…(デリダ、2004、Le souverain bien – ou l’Europe en mal de souveraineté La conférence de Strasbourg 8 juin 2004 JACQUES DERRIDA)

母の呪言が恐ろしいのは、それが鳩の足で近づいてくるように感じられても、実際は狼の足であるからである。すなわち狼に貪り喰われる恐怖である。母なるオルギア(距離のない狂宴)の「声なき声」は、融合不安をももたらす。《…そのとき、声なき声がわたしに語った Dann sprach es ohne Stimme zu mir「おまえはそれを知っているではないか Du weisst es」》ーー《このささやきを聞いたとき、わたしは驚愕の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。》(ツァラトゥストラ)



2017年8月26日土曜日

折口信夫と女たち

以下、「藤澤寺の餓鬼阿弥」より引き続くメモ。折口初心者の、折口をめぐる評論のたぐいは一切読んだことのない者が、主にネット上から拾った備忘である。

 …………

折口の出生については、池田弥三郎氏の「私説折口信夫」が詳しいが、これによると事情はなかなか複雑である。父秀太郎と同居の叔母の間のこと、それに先行する母のあやまち、自己の出生に対する疑惑等、若き折口に二度も自殺を図らせるほどのものであった。池田氏のことばを借りれば、「折口の出生に関するかくろえごと」ということになる。その他にも、インクのしみのような額の痣、切り株で睾丸を裂くという幼児期の事故。(高橋広満「折口信夫と「既存者」」1980、PDF)
父・秀太郎は河内国の名主の家の次男で、折口家の養子となり医を継いだ。信夫が生まれて7年のち双生児の弟が誕生するが、実は母こうが生んだのではなくて、同居する叔母ゆうと父の秀太郎との間に生まれたのであった。こうした家庭内の愛情にかかわる葛藤も、信夫の心に深い陰影を刻んだ。(wiki)


幼き春(「古代感愛集」)

わが父に われは厭はえ
我が母は 我を愛メグまず
兄 姉と 心を別きて
いとけなき我を 育オフしぬ。



追悲荒年歌

ちゝのみの 父はいまさず、
はゝそばの 母ぞ かなしき。
はらはらの我と、我が姉
日に 夜に 罵コロばえにけり。
怒ります母刀自ハハトジ見れば、
泣き濡れて くどき給へり。
そこゆゑに、母のかなしさ。
家荒れて 喰ふものはなし。
庭寒く 鳥もあそばず。
あはれ かの雀の子らは、
軒の端ハゆ 顏さし出でゝ
ちゝと鳴き くゞもり鳴きて、
聲やめぬ。ふた聲ばかり――。
雀子も、餓ウゑ寒からむ。
あはれ/\ 喰ふ物やらむを――
腹へりて 我も居にけり。
頻々シクヽヽに いたむ腹かも。
晴るゝ日の空の靑みに、
こだまするもの音オトもなし。
靜かなる村の日ねもす――
村びとも みなから飢ゑて、
ま晝すら 寢貪ネムサボるらむ。
朝明ケよりものにい行きて、
歸り來し姉のみことの、
我を見て あはれと言ノらし、
町人マチビトの、姉にくれたる
蕎麥の粉の練れる餅モチヒの
燒きもちひ 喰へと言ひて、我に給タびたり。
くるゝ時、我を見し目の
姉が目の さびしかりしを
髣髴オモカゲに 今も忘れず。
ひた喰はゞ 片時の間ぞ。
喰はざらば 腹ぞ すべなき。
蕎麥もちひ 惜しみ、たしみて
ねもごろに 我が喰ひをるに、
ほろ/\と とすれば崩クえて
もろくくづるゝ蕎麥の粉の すべもすべなさ


『零時日記』に目を通すに、信夫は父が死亡せる十六歳前後、三囘にわたりて自殺を企圖せしことあり。學業成績下がり、卒業試驗にも落第せるこの間の事情、明白とは言ひがたけれど、この時期が彼にとりて重大なる青春期の危機なりしこと、まづは疑ひなし。(飯田眞『折口信夫、診断日本人』)





信夫は少年時代に父を通じて詩歌を知り、「うすら明るい知らぬ國の影」を感ず。詩歌の世界に「しみじみと親しまれる世界のやうな心地」を覺え、西行や芭蕉など、漂泊の詩人に己が孤獨なる心を託すに至る。當時在京中なりし叔母えいより送られたる『東京名所圖會』の見開きに書きとめたる短歌「たびごろもあつささむさをしのぎつつめぐりゆくゆくたびごろもかな」は、八歳頃の處女作と言はる。中學三年頃には鳳鳴會同人となりて短歌創作をはじめ、旅へ誘はるる心地高まる。(同上、飯田眞)

…………

医者だつた父は医者になれと殆ど遺言と申す事も出来るほど、死に際まで申して居ました。でも卒業した時は、母・叔母などを泣かしても、やつぱり文学をすると主張しました。而も私のは、二重の難関を通りぬけねばなりませんでした。文学をやるなら、第三高等学校へ行けと、やつと言ひ出してくれた叔母を更に失望させねばなりませんでした。其は、どうしても国学院へ這入らねばならないと言ふ不思議な決心を持つて居たからです。(折口信夫「新しい国語教育の方角」)

・独り身を守り遂げて、我々をこれまでにしあげてくれた、叔母えい子刀自も、もうとる年である。せめて一度は、年よりらしい、有頂天の喜びを催さしてあげたいと思ふけれど、私に、其望みを繋けてゐてくれる学位論文なども、書く気にもなれない。

・でもまだ〳〵、兄のうへを越す無条件の同情者が、尠くとも一人は、健在してゐる。前に述べた叔母である。私の、此本を出さうと決心した動機も、この人の喜びを、見たい為であつた。だから第一本は、叔母にまゐらせるつもりである。叔母は必、かこつであらう。かういふ、本の上に出た、自分の名を見ることのはれがましさの、恥ぢを言ふに違ひない。兄が、かうなると思はぬ先から、私の考へてゐた事なのである。叔母に捧げる志は、同時に、兄の為の回向にもなつてくれるであらう。(折口信夫「古代研究 追ひ書き」)

…………

以下、上にも一部引用したが、飯田真(眞)氏の折口論から引用する。「飯田真」とは現在ではあまり知られていない名かもしれないが、中井久夫の先輩にあたる方である。

……「友人」とは新潟大学精神科教授・飯田真先生で、私は1985年春、講演に招かれたのである。先生には、若いころ、東大分院で手を取って教えていただき、共著・共訳もある(『天才の精神病理』中央公論社、1972年、シュルテ『精神療法研究』医学書院、1969年)ーー( 中井久夫「信濃川の河口にて」『家族の肖像』所収)

現在からみて臨床用語的には、やや古くなっている箇所があるという観点もあるだろうが、そのまま抜粋する。たぶん折口信夫の研究者たちは、こういった精神分析的解釈をきらうのだろう、現在ではまったく参照されていないようにみえるが、わたくしにはとても面白い。引用元は「飯田眞 人物雑評 折口信夫」1-6からだが、段落分けをして小表題をつけた。


【里子・自殺企圖】
折口信夫は明治二十年、大阪に生まる。父は婿養子にて醫を本業とし、さらに家業の生薬屋を兼ぬ。幼時一時大和小泉に里子に出され、木津小學校を經て明治三十二年に大阪府立第五中學に入學せり。明治三十五年五月(十六歳)父死亡す。明治三十七年、卒 業試驗に落ち、その前後に數囘の自殺企圖あり。されど翌三十八年(十九歳)には同校を卒業し得たれど、醫科を學ばせむとする家人の意を斥け、國學院大學に入學、同四十三年、拔群の成績にて卒業するや、釋迢空の號を初めて用ゐる。…


【祖父・父・母】
折口信夫の生家は古く續ける生藥屋なりき。信夫誕生當時の家族は、兩親の他、曾祖母、祖母、二人の母方の叔母、姉、三人の兄にて、後に弟二人生まる。「祖父は、飛鳥ニ坐ス神社の神官の子なりしが、折口家の養子となり、醫を本業とし、舊來の家業を兼ぬるも、 差別なく部落民の治療に當り、その徳人より慕はれれたり。父は壻養子として折口家に入り、 祖父の跡を繼げるも、氣むつかしく、荒々しき氣性の人にて、晩年には患者を診ること少なかりし。母はいはゆるお孃さん育ちにて、わがままなる人なりしが、父には痛々しく思はるゝ程 よく仕へ、父の代診をつとむるなど、獨身なりし叔母二人と家業を切り廻したり。」(『母と子』) 恐らく信夫の父は、母系家族に對する一種の反逆兒にてはなからんかと想像せらる。

※『母と子』とあるが、この飯田氏の引用の仕方では、折口の著書から引かれているように思えるが、ネット上を探す限りでは、この『母と子』の引用には行き当たらず(飯田氏の論以外には)、不詳不明の箇所。


【遠くにある母の影】
信夫が幼年時代の資料極めて乏しけれども、『古代感愛集』に收められたる「幼き春」「乞丐 コツガイ 相」「追悲荒年歌」などの詩の中にうたはれし、幻想の織り込まれたる幼時の囘想を讀まんか、そが傷ましさ、想像を絶するものあり。「わが父にわれは厭はえ、我が母は我を愛 メグまず、兄姉と心を別きて、いとけなき我を育 オフ しぬ」(「幼き春」)「父のみの父はいまさず、ははそばの母ぞかなしき。はらからの我と我が姉、日に夜に罵 コロ ばえにけり」 (「追悲荒年歌」)。斯くのごとき彼の不幸なる幼年時代を決定づけたるものは、幼時の一時を里子に出されたることなり。里子に出されたる年齡、期間の詳細は明らかならざるも、このために幼年時代の信夫は母との對象關係斷ち切られたれば、我は見捨てられたりと感じ、 母の影は遠くのもの、覺束なきものとなりたりと推測せらる。


【父への反感、憎惡】
一方、父との對象關係も十分なるものにてはなく、當時「年と共に氣むつかしくなり、家人とも樂しげに話をかはすこともなく、母と顏をあはすことも嫌ひたり」(『母と子』) 父によりて彼の孤獨感の瘉されるべきすべもなかりし。かへりて父は母を信夫より遠ざくるていの人物なれば、部落民を診察することを拒否し、祖父の里との交際を斷つといふがごとき父の粗暴なる行爲は、幼き信夫の心に消しさりがたき父への反感、憎惡を生み、彼の出生前に死亡したる祖父への止みがたきあこがれと幻想的なる同一視おこり、祖父を父批判のよりどころとする結果となりたるがごとし。父に對する憎しみの激しきことは『近代悲傷集』の「すさのを」の 詩篇からも容易にうかがひ知らる。


【母代りの叔母えい、姉あい】
幼年時代の信夫は、母代りの叔母えい、姉あいによりて育てられたるならん。殊に八歳年上の姉とは、互ひに孤獨なる魂を温め合ふかの如くに親密にて、近親相姦的關係に近かりしかと想像せらるる節さへ見ゆる。「わが御姉 ミアネ 、 我を助けて、かき出でよ、汝が胸乳 ムナヂ 、あはれわれ、死ぬばかり、いと戀し、汝が生肌 イキハダ 」(「すさのを」) 晩年の『死者の書』におきても主人公大津皇子は、その刑死を萬葉集の中にてもつとも哀切なる同母姉大伯皇女への追慕によりて鎭魂せられたる皇子なり。 折口の中將姫を登場させたるは韜晦にてはなからむか。かくのごとき幼時の異常なる關係より自己の男性性との葛藤をおこし、去勢恐怖、さらには姉との同一化おこり、その結果異性愛が封じられ、これが後年の彼の女性恐怖、同性愛的傾向の發展につながるものと精神分析的に解釋釋すること可能なり。

※「わが御姉 ミアネ 、 我を助けて、かき出でよ、汝が胸乳 ムナヂ 、あはれわれ、死ぬばかり、いと戀し、汝が生肌 イキハダ 」(「すさのを」) も、ネット上では飯田氏以外の引用はない。


【兩親より遺棄】
いづれにせよ幼年時代の信夫は、兩親よりいはば遺棄され、しかもそれを被虐的に自己に關係づけたれば、兩親との對象關係正常に發展せず、ために生に對する信頼感が弱く、 生命否定的となり、男性としての十分なる性的同一性を確立することのできなかりしことは疑ひなき事實なれば、これが彼の分裂氣質的人格の形成、恐怖症の發展を促し、同時に信夫を同性愛に導く要因となりたることは確實なり。


【被害者意識】
晩年の信夫と起居を共にせる加藤守雄の『わが師折口信夫』、岡野弘彦の『折口信夫の晩年』を讀むに、信夫の人柄、日常生活には、われわれ精神科醫が興味そそらせらるる部分、少なからず。

加藤は信夫の人間的印象につき次のごとく記す。「一オクターブ高き聲、なで肩にて丸味 ある體つき、いんぎんなる物腰、自己愛的、女性的なり」「氣性はげしく我が儘なる性格、惡 意ある批評や自分を傷つけむとせる言論には痛烈に反撥、反應過敏にて被害者意識つよく、先生が怒りは、不當にいためつけられたる自我を囘復せむがための闘ひ」「電話のベルにて過敏に怖る。相手の正體のわかるまで安心できず」。これらの記述より推察しうる信夫は、過敏、自己愛的、人間不信的、被害的傾向を有する分裂氣質に屬する人と言ひえむ。


【極度の潔癖・女性恐怖・饑餓恐怖・極端な刺激物嗜好】
彼の日常生活にはかなりの奇行目につく。その第一は極度に潔癖なることにて、書庫や部屋の埃を嫌ひ、他人の手が觸れたる襖、障子の把手は着物の袖にて摑み、電車の吊皮を持つときは手袋やハンチングを使ふなど直接自分の手にては觸れず(岡野)、フライパンをクレオソートにて消毒し、手に觸るるものはアルコール綿にて拭く(加藤)など、不潔恐怖の症状とも見られむ。

第二は女性恐怖にて、恐らく此が第一の不潔恐怖の原型と考へ得るものにて、女性を不潔視し、身邊にはほとんど女性を近づけず、食事は女性に作らせず、妻帶者の弟子の入りたる風呂には入らず、電車、バスの中にて女性の髮の毛觸るれば、すさまじき嫌惡感を示せり(岡野)。信夫の恐怖覺えざる女性は、親族の他はおそらく身邊にありし老婢、あるいは 「神の嫁」としての巫女的なる役割にとどまりをりたる女性ならむ。

第三は饑餓恐怖とも稱せらるゝ一種の貯藏癖にて、戰爭末期より戰後にかけての時期、護符の如くに硼砂入りの四斗の米を貯へをりたり。他人より贈られたる果物などは腐敗せるものも捨てずにとりおきて、奇妙なる果實酒を作るなど致したり(岡野)。

第四は刺戟物に對する極端なる嗜好にて、三十種にも及ぶ茶を常備し、ジンジャーエール、 コーヒーを好みたり。齒磨きは薄荷、樟腦、クレゾールなどを加へたる自家製のものを用ゐ、 ロートエキスの錠劑を愛用し、息の詰らむばかりのユーカリ油をマスクに垂らすこともありたり。 子供の頃には樟腦を齧りしことありたると言ふ。その極點に當れるはコカインに對する嗜癖 にて、大正末期より昭和初年にかけてはかなり濫用し、その結果晩年にはほとんど嗅覺失はれたり(岡野)。因に彼が旅行の際には愛弟子の誰かを同行したる他、必ず數種の茶、胃 腸藥、アルコール綿を携行したり(岡野)。

…………

この飯田氏の叙述を全面的に信頼するわけではない。とはいえ里子の外傷的記憶や父母からの疎外感は間違いないだろう。「追悲荒年歌」の《家荒れて 喰ふものはなし》、《腹へりて 我も居にけり。/頻々シクヽヽに いたむ腹かも》等も直接に後年の饑餓恐怖に繋がる。かつまた、姉あいを『死者の書』における藤原南家の郎女(中將姫)と関連付けようとする記述も、なぜ同性愛者かつ女性嫌悪であった折口があんなに憧憬的に女を書きえたのか、という問いのすくなくともひとつの解釈として読める(あくまでひとつの解釈であり、たとえばプルーストのアルベルチーヌ=アゴスチネリの例をあげての反論もあるだろう)。

――待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き聲だつた氣がする。――をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉體と一つに、おれの心は、急に締めあげられるやうな刹那を、通つた氣がした。…

をゝさうだ。伊勢の國に居られる貴い巫女――おれの姉御。あのお人が、おれを呼び活けに來てゐる。(折口信夫『死者の書』)

折口は鴎外よりも漱石を格段に好んだ。

漱石居士……此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年ーー血みどろになつた處)

この評価は、養子に出された漱石との同一化の影響もあるはずである。同一化とは対象のなかのたった一つの徴だけで起こる。

《同一化は…対象人物の一つの特色 (「一の徴」einzigen Zug)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)



2017年8月24日木曜日

藤澤寺の餓鬼阿弥

以下、折口信夫のゴシップにちかい「情報」を掲げる。折口信夫の評論のたぐいを一切読んだことがない者のメモである。

このメモは、最近、折口信夫をいくらか読んで、ある種の「感銘」を受けたことにより、どんな方だったのかを(わずかばかりだが、主にネット上で)探ってみた断片である。

たとえば--少し前にも引用したが(参照)--、次のようなことを言う折口はなんとしても素晴らしい。

・自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる

・唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)

感銘を受けたとはいえーーそしてわずかしか折口を読んでないにしろーー、わたくしはどちらかというと折口のような思考(マレビトに代表される)を「脱神秘化」したいというヒネクレタ思いがあるので、彼に徹底的にハマルということは(いまのところ)ありえない、と思っている。

精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に《女 〉La femme》だということである。 ……Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».》( (ラカン、S23、16 Mars 1976ーー玄牝之門・コーラ χώρα・ゾーエー Zoë)

…………

以下、メモである。

柳田國男に出会う以前の折口信夫は、前近代的で生々しい「神憑り」から生まれた神道系の結社と深い関係をもち、しかしながら、「憑依」が明らかにしてくれるその神秘的な体験の諸相を、きわめて近代的な学問の方法、主体と客体の区別を撤廃してしまう「一元論」の哲学や北東アジア諸地域を対象とした比較言語学にして比較神話学の方法を用いて明らかにしようとしていた。(安藤礼二「折口信夫という「謎」」)

前(サキ)の世の 我が名は、 人に、な言ひそよ。 藤澤寺の餓鬼阿弥(ガキアミ)は、 我ぞ(釋迢空)

二人とも(正岡子規、折口信夫)生涯独身の借家住まい。身辺のあれこれについて、驚くべき無頓着と淡泊を示す一方、食生活への執着が異様に激しいこと。そしてその執着を隠蔽しようとしなかったこと。実際、両者とも、それぞれが自分が生きた時代の、”知識人” ”学者”としては珍しく、肉・臓物類まで歓び貪る己の口腹の貪婪・希有な大食をその文章において標榜してはばかることがない。さらに問題は、彼らにおけるそのような執着が、あまりにも脂ぎり、あまりにも情けないほどに子供めき、およそ美食・大食の伝統の志向する”洗練された感覚” “卓抜した生活思想”という主題とは無縁なことである。(持田叙子『折口信夫 独身漂流』1999)

父母のみ手はなれて/乞食に堕ちなむ宿世 持ち持ちて/現れ来る人の/相(折口信夫「乞丐相」)

ーー折口信夫は《顔に痣があるがゆえに両親にうとまれていると感じていた》(鎌田東二『宗教と霊性』)そうだ。

この書物、第一巻の校正が、やがてあがる今になつて、ぽっくりと、大阪の長兄が、亡くなつて行つた。さうして今晩は、その通夜である。私は、かん/\とあかるい、而もしめやかな座敷をはづして、ひっそりと、此後づけの文を綴つてゐるのである。夜行汽車の疲れをやすめさせようと言ふ、肝いり衆の心切を無にせまい為、この二階へあがつて来たのであつた。

かうして、死んで了うた後になつて考へると、兄の生涯は、あんまりあぢきなかつた。ある点から見れば、その一半は、私ども五人の兄弟たちの為に、空費して了うた形さへある。

昔から、私の為事には、理会のある方ではなかつた。次兄の助言がなかつたら、意志の弱い私は、やっぱり、家職の医学に向けられて居たに違ひない。或は今頃は、腰の低い町医者として、物思ひもない日々を送つてゐるかも知れなかつた。懐徳堂の歴史を読んで、思はず、ため息をついた事がある。百年も前の大阪町人、その二・三男の文才・学才ある者のなり行きを考へさせられたものである。秋成はかう言ふ、境(ミ)にあはぬ教養を受けたてあひの末路を、はりつけものだと罵つた。そんなあくたいをついた人自身、やはり何ともつかぬ、迷ひ犬の様な生涯を了へたではないか。でも、さう言ふ道を見つけることがあつたら、まだよい。恐らくは、何だか、其暮し方の物足らなさに、無聊な一生を、過すことであつたらうに。養子にやられては戻され、嫁を持たされては、そりのあはぬ家庭に飽く。こんな事ばかりくり返して老い衰へ、兄のかゝりうどになつて、日を送る事だらう。部屋住みのまゝに白髪になつて、かひ性なしのをっさん、と家のをひ・めひには、謗られることであつたらう。(折口信夫「古代研究 追ひ書き」)

…………

(折口の墓は)墓荒らしの跡のような、荒廃した風情。共同体から、何らかの理由で排除された人たちの墓、あるいは共同体の墓所から追放された人たちの墓なのではないか。そう思いました。その有様に緊張していると、その真ん中に、折口と春洋の親子塚がありました。その瞬間、私は、理解したように思ったのです。 折口が、徹底したアウトサイダーだという事を。日本文化の正統にたいして、刃をつきつけ続ける、確信的な反逆者なのだ、と。 巣鴨の染井墓地にある、柳田國男の墓の堂々たる姿と、誠に対象的な墓でした。これほど、一目ですべてが解ってしまう墓もないでしょう。折口は恐ろしい…。 『死者の書』も、『古代感愛集』も恐ろしかったけれど、この墓ほどは怖くない。墓をまごう事なく作品に、自らの存在証明にしてしまっている。少なくとも、その鋭利さにおいては、古代エジプトの王たちや、中国の皇帝たちに勝っているとすら思う。(福田和也『死ぬことを学ぶ』)
この折口ってのは、それまでの国文学の歴史をみんなひっくり返したとんでもない奴で、今どきの学者は折口の仕事の残り滓をあさって辛うじて偉そうな顔をしてるってほどの大学者なんだ。戦前はコカインは非合法じゃなかったから薬局いけば買えたんだ。それでも折口先生は吸いすぎて鼻の粘膜がボロボロになって血を噴いたっていうからね。実際鼻血だらけの原稿用紙が残ってるんだ。

(……)それに少年愛でね、弟子はみんな丸刈りにしてメガネをかけさせていた。それが先生のお好みだったんだな。目星をつけたのには、しつこくしつこく迫って、学問は頭からだけ入るもんじゃないとかいって襲ったり。与太じゃないよ、命からがら逃げた弟子がちゃんと書いているんだから。 (福田和也『人でなし稼業』)

…………

◆室生犀星『我が愛する詩人の伝記』より
堀が女性的であったということは、声もそうだが、からだの肉つきにあぶらがあって、顔はまんまるかった。食べものも、おいもとか、じねんいもとか、卵料理が好きだった。唇は赤く髪も黒かった。病で床の中にいた時分、釈迢空が見舞いに軽井沢から来られる日に、彼は何を遠慮したのか、今日は起きられないと先生に言ってくれ、僕は起きないからと奥さんのたえ子に言った。だってそんなに元気なのにどうしてお会いにならないのですと言うと、訳はいわないで寝たきりだと言ってくれと、会わなかったのだ。たえ子はきっとお会いするのが窮屈なのであろう、それに釈さんとこの前会った後で熱が出たからそういうのであろうと思ったが、私はそこに病人としてのたしなみを見る気がした。折角見舞いに来た尊敬する人の気に反いて、会わないということに堀がその気になったことに、病人のわが儘(まま)のかなしみがあって、はなはだ女性的であると私は思った。僅かにそのような我儘というものの心理は複雑なものであった。釈迢空は堀辰雄に好意をもっていたし、好意は非公式の愛情をも潜めていたものらしい、堀もそれをうすうす知っていたから、おとろえた姿をこの人の眼に見せたくなかったのだろう。(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』)


◆折口信夫「『かげろふの日記』解説」
一人を褒めるのに、も一人をけなすと言ふ行き方は、甚だ不幸な方法で、私などは、其をせぬことにしてゐるのだが、今の場合あまり適切に、一言二言で言ひきつてしまふことが出来るから、さう言ふ見方をさせて貰ふ――のだが、過ぎ去つた芥川龍之介、この人の王朝は、今昔物語式には最的確な王朝物は書いたけれど、源氏・伊勢が代表する平安朝の記録と言ふところには達しなかつた。堀君は心虚しうして書く人だけに、極めておほまかにではあるが、おほまかだけに、王朝貴族の生活のてまを適切に捉へることが出来た。源氏の論文を書いた人の中には、私の尊敬してゐる人々が多いが、その方々にも、堀君の「若菜の巻など」は、是非読んで頂きたいと思つてゐる。其ほど、源氏の学史にとつては、大きな提言をしてゐる。

「伊勢物語など」は、堀君の詩人としての権威を、感じさせる文章である。りるけのどういのの悲歌を引いて、神に似た夭折者を哭し、その魂を鎮めようとする考へ方をひき出して来てゐる。その点は、古代日本人に似てゐるが、又違ふ。西洋人のやうに、其を自分の慰め・救ひとするのではなく、たゞ人の魂を鎮めることにしてゐたと言ふあたり、……併しどちらにしても、此鎮魂的なものが、一切のよい文学の底にあることになる。


◆堀辰雄「伊勢物語など」より
折口先生の説によると、敍景歌といふものは、先づ最初、旅中鎭魂の作であつた。昔、男が旅に出るとき、別れにあたつて、女が自分の魂の半分を分割して與へる。又、男も自分の魂の半分を分離してわが家に留めるものと人々に信ぜられてゐた。旅中、その妻の魂を鎭めてしづかに自分に落ち着かせるやうにと、男はその日に見た旅の景色などを夜毎に詠んだのである。さういふ歌がだんだん萬葉の中頃から獨立して、純粹な敍景そのものの歌となつていつた。しかし、すべての日本の敍景歌の中にはさういふ初期のレクヰエム的要素がほのかに痕を止めてゐるのである。――そのやうにわが國に於ける敍景歌の發生を説かれる折口先生の創見に富んだ説は何んと詩的なものでありませう。僕はこの頃折口先生の説かれるかういふ古い日本人の詩的な生活を知り、何よりも難有い氣がいたしてゐる者であることを、この際一言して置きたいと思ひます。(堀辰雄「伊勢物語など」)



2017年8月21日月曜日

血みどろになつた處

折口信夫は坂口安吾マインドをもっていた人であるのを、今頃知った。作家たちのなかに熱烈な折口ファンがいるのはこういうところに(も)あるのだろうと思う。

・《自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる》

・《唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます》

・鴎外の作品は《現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引き……もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた》

・《あきらめやゆとり(鴎外博士のあそび)や、通人意識・先覺自負などからは、嗜かれる文學が出て來ない》

・漱石の《あの捨て身から生れて來た將來力》

これらの表現が出現する「好惡の論」を以下に引用する。

鴎外と逍遙と、どちらが嗜きで、どちらが嫌ひだ。かうした質問なら、わりに答へ易いのです。でも、稍老境を見かけた私どもの現在では、どちらのよい處も、嗜きになりきれない處も、見え過ぎて來ました。それでやつぱり、かうした簡單な討論の方へ加はれさうもありません。だからまして、廣く大海を探つて一粟をつまみあげろと言つた難題には、二の脚を踏まずには居られません。さあだれが嗜きで誰が嫌ひ。そんな印象も殘さない樣な讀み方で、作品を見續けて來た幾年の後、靜かにふりかへつて見ても、假作・實在の人物の性格や生活に、好惡を考へ分ける事が出來なくなつてゐます。(……)
だが強ひて申さば、自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。

文學上に問題になる生活の價値は、「將來欲」を表現する痛感性の強弱によつてきまるのだと思ひます。概念や主義にも望めず、哲學や標榜などからも出ては參りません。まして、唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。
逍遙博士はまだ生きて居られるので、問題にはしにくいと思ひますが、あの如何にも「生き替り死に變り、憾みを霽らさで……」と言つたしやう懲りもない執著が背景になつて、わりに外面整然としない作物に見失はれがちな、生活表現力を見せてゐます。つまりは、あきらめやゆとり(鴎外博士のあそび)や、通人意識・先覺自負などからは、嗜かれる文學が出て來ないのです。この意味の「嗜かれる」といふことは、よい生活を持ち來す、人間の爲になる文學、及び作者の評言といふ事になるのです。(……)
馬琴の日記を見ても、いやな根性や、じめ/\した、それでゐて思ひあがつた後世觀なども、却て、其文學の背景を色濃くし、性格的必然性を考へさせる樣になつて來ました。小づらにくい小言幸兵衞のもでるの樣な爺さまも、文學者として浮きぼりせられて來たのです。だから生活が知れるといふ事は、作者と作物との關係、生活の將來力と個性の表現傾向などが、長い人生の參考や、暗示や動力になるのです。此點において、私の考へる文學の目的に大なり小なり叶うて來るのです。
文學の目的は、私はかう申します。人間生活の暗示を將來して、普遍化を早める事です。此が、私の考へる文學の普遍性で、同時に、文學價値判斷の目安なのです。だから、結局、日記や傳記によつて、文學作品が註釋せられて、作者の實力が知られると言ふのは、抑文學者として哀れな事で、作品其物に、人間共有の拂ひがたい雲を吸ひよせる樣な、當來の世態の暗示を漂はしてゐる文學でなくてはならないのです。
芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)

折口のいう漱石と鴎外との比較の正否は、それぞれ人が判断したらよい。だが、漱石より鴎外を好んだ作家たちはおおむね、《紳士としての體面を崩さぬ樣》な、《とり紊さぬ賢者として名聲》を希求した人たちだったのではないかと、いま思いを馳せてみるのは、わたくしの場合、三島由紀夫、石川淳、加藤周一の顔を想起することによる(困ったことに、わたくしの最も愛する作家のひとり荷風も鴎外を上に置いたのだが)。

もっともこれらの作家たちーー《作家の手の爪には血が滲んでゐる》(坂口安吾『理想の女』)--彼等の爪に血が滲んでいることが少ないなどと(安易には)いうつもりは毛ほどもない。

ここでは中野重治の簡潔な文を掲げるのみにしておく。

世間には、漱石は通俗であつても鴎外は通俗でないといつたふうな俗見が案外に通用している傾きがある。実地には、漱石や二葉亭はなかなかに通俗ではなかつた。鴎外が案外に通俗であつた。(中野重治「鴎外その側面」)

…………

《血みどろになつた處》という折口の表現に反応してヘーゲルを引用しておこう。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)

折口は《血まみれの頭 blutiger Kopf》の人であったと同時に《白い亡霊 weiße Gestalt》の人でもあった(たとえば『死者の書』)。

だれにでも自己の内部にあるはずのこの「血まみれの頭」と「白い亡霊」、--それを見て見ないふりをして人生を送るべきかどうかは、人の生き方によるだろう。

力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。

精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)

このヘーゲルの二つの文を要約していえば、人は「世界の夜」 に留まり、「血まみれの頭」、「白い幽霊」を見すえなければならない。そのとき初めて精神の偉大な力が生まれる、ということになる。

フロイトはヘーゲルのこの「否定性」ーーゴダールの表現ならポジに対するネガーー、「世界の夜」「血まみれの頭」に相当するものを、「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」(参照)、あるいは「欲動の根 Triebwurzel」「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」(参照)等と呼んだ。

そしたわたくしの考えでは、ニーチェの《わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin》や《メドゥーサの首 Medusenhaupt》も、ヘーゲルの「血まみれの頭」、折口の「血みどろになつた處」と相同的である(参照)。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

2017年8月16日水曜日

漢字のための言語の怠惰性

このところ国文学者の文をいくらか読んでいるのだが、わたくしはこの領野をずっと敬遠してきた。いまさらながら、この齢になって、ああ、そうなのか、そうだったのか、と驚くことが多く、好奇心で読んでいるというよりも、驚きに促されて読んでいる。まったく未知の領野とさえいっていいので--そもそも万葉集でさえまともに読んだことはないーー、ひどい無知をさらしているはずである。「初山踏み」という言葉さえおこがましいのであって、麓のまわりの様子をうかがっているレベルである。山に登るつもりはいまのところない。

さて前回も引用したが折口信夫の文を先ず再掲しよう。

我々の国語は、漢字の伝来の為に、どれだけ言語の怠惰性能を逞しうしてゐたか知れない程で、決して順当の発達を遂げて来たものではないのである。(折口信夫「古語復活論」)
何と言つても、語が目の支配を受けて、口を閑却すると言ふ事は、正しい事ではありません。(折口信夫「新しい国語教育の方角」)

折口はこういうことで何を言っているのか。

以前、柄谷行人が引用する吉本隆明の文に感心したことがある。

ところで、和歌の韻律は「文字」の問題とどう関係しているのだろうか。国学者は、荷田在満の「国歌八論」以来、音声によって唱われた歌と、書かれた歌の差異を問題にしてきたといえる。本居宣長において、『古事記』の歌謡は唱われたものであり、歌謡の祖形だとみなされた。吉本隆明は、賀茂真淵が指摘したように、それらは祖形であるどころか、すでに“高度”なレベルにあるという。

《いま『祝詞』には、「言ひ排く」、「神直び」、「大直び」という耳なれない語が、おおくみつけられる。はじめに<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>という言葉があった。成文化するとき漢音文字をかりて、「言排」、「神直備」、「大直備」と記した。これが、<言ひ排く>、<神直び>、<大直び>と読みくだされる。この過程は、なんでもないようにみえて、表意、あるいは表音につかわれた漢字の形象によって、最初の律文化がおおきな影響をこうむった一端を象徴している。<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>といえば、すくなくとも『祝詞』の成立した時期までは、あるあらたまった言葉として流布されていた。「なほび」という言葉は、神事、あるいはその場所などにかかわりのある言葉としてあった。<かむ>とか<おほ>とかは尊称をあらわしていた。そのころの和語は、適宜に言葉を重ねてゆけば、かなり自在な意味をもたせることができたとみられる。しかし、これを漢字をかりて「言排」、「神直備」、「大直備」のように表記して、公式な祭式の言葉としたとき、なにか別の意味が、漢字の象形的なイメージ自体からつけ加えられた。これは和語の<聖化>のはじまりであり、<聖化>も律文、韻文化へのひとつの契機と解すれば、ここにすでに歌の発生の萌芽のようなものは、あった。

成句や成文となれば、さらに律化、韻化の契機はふかめられた。語句の配列はそのもので、ひとつの律化だからである。》(「初期歌謡論」)

この注目すべき吉本隆明の考えにしたがえば、歌の発生、あるいは韻律化はそもそも漢字を契機としている。宣長が祖形とみなすような「記」、「紀」の歌謡は、文字を媒介しなければありえないような高度な段階にある。それは音声で唱われたとしても、すでに文字によってのみ可能な構成をもっている。《たぶん、宣長は、<書かれた言葉>と<音声で発せられた言葉>との質的なちがいの認識を欠いていた。すでに書き言葉が存在するところでの音声の言葉と、書き言葉が存在する以前の音声の言葉とは、まったくちがうことを知らなかった》(「初期歌謡論」)(柄谷行人『日本近代文学の起源』)

この吉本隆明の観点は、賀茂真淵以外にも、時枝誠記の次の指摘の文脈のなかにあるだろうと当時は憶測した。

「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、従つて「空蝉の世」は、人生の義より転じて、蝉の脱殻の如き無常空虚の世の義となり、更に「空蝉の殻」のごとき語が生まれるやうになつた。(時枝誠記『国語学原論』)

ところで吉本隆明は、「エクリチュールの概念を折口は西洋より先に発見していた」と言っているそうだ(参照)。吉本がどんな意味で「エクリチュール」という語を使っているのかは知らないが、デリダとバルトのエクリチュールの定義を掲げよう。

いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立会いから分離されたエクリチュールーーーこうしたエクリチュールによる本質的な漂流……(デリダ『署名、出来事、コンテクスト』)
エクリチュールとは個人言語ではなく、ひとつの言表行為であり(言表されたものではなく)、その行為を通して主体は、白いページという舞台の上で、自らを散逸させたり斜めに身を投げたりしながら、みずからの分割を演じてゆく。(ロラン・バルト「答え」、1971)

エクリチュールとは「言表内容」ではなく「言表行為」なのである。とすれば、吉本は時枝というよりも折口を想起しつつ上の文を書いたのかもしれない。

わずかに折口信夫を読んだなかでも上に引用した文以外に、たとえば次のような叙述にめぐりあう。

・おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うた

・鬼と言ふ語は、仏教の羅卒と混同して、牛頭・馬頭の様に想像せられてしまうた。其以前の鬼は、常世神の変態であるのだが、次弟に変化して、初春の鬼は、全く羅卒の如きものと考へられたのである。(「鬼の話」)

われわれ日本語使いは、ひらがなで記してさえ、漢字表象が常に張りついている。折口は《何と言つても、語が目の支配を受けて、口を閑却すると言ふ事は、正しい事ではありません》と強調することによって、それを嫌ったのである。

記銘における兆候性あるいはパラタクシス性は、言語化によって整序されているとはいえ、その底に存在し続けている。それは日本語の会話において音声言語の裏に常に漢字表象が張りついているという高島俊男の指摘に相似的である。想起においても兆候性あるいはパラタクシス性は、影が形に添うごとく付きまとって離れない。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』)

したがって折口は次のようにいう。

(漢字という)この千幾年来の闖入者が、どれだけ国語の自然的発達を妨げたかといふことは、実際文法家・国語学者の概算以上である。漢字の勢力がまだわれ/\の発想法の骨髄まで沁み込んでゐなかつた、平安朝の語彙を見ても、われ/\の祖先が、どれ程緻密に表現する言語を有もつてゐたかは、粗雑な、概括的な発想ほかすることの出来ない、現代の用語に慣された頭からは、想像のつかない程である。(折口信夫「古語復活論」)


2017年8月1日火曜日

神事としてのお盆

私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである。(柳田国男『先祖の話』)

…………

お盆は、仏事だろうか、それとも神事だろうか。

次のような説明がある。

お盆については、多くの方が仏教の行事と考えているようですが、元来は日本固有の先祖祀りがもとになっています。

ところが、江戸時代に入り、幕府が檀家制度により、庶民の祖先供養まで仏式でおこなうよう強制したため、お盆も仏教の行事と誤解され、現在に至っているのです。

神道の家庭でも、お盆の期間中は、自宅の祖霊舎を清めて、季節の物などをお供えし、家族揃ってご先祖様をお祀りします。

我が国では、古くから神祀りとともに、ご先祖様の御霊をお祀りする祖霊祭祀がおこなわれ、神と祖霊の加護により平安な生活を過ごしてきました。この神とは、自らと繋がりのあるご先祖様が徐々に昇華して神となったご存在なのです。(……)

仏教が伝来すると、盂蘭盆会の行事が諸寺院でおこなわれるようになり、当初は僧侶の供養が中心でしたが、その後、我が国の祖霊祭祀と結びついて、ご先祖様を祀る「お盆」となりました。(「神道いろは」神社新報社)

ははあ、そうなのか。もうすこし柳田国男を探ってみよう。冒頭にかかげた『先祖の話』にお盆の話が詳しいそうだが、わたくしの手許にはモチロンなく、青空文庫にもこの名著はまだ上がっていない。いまは別の論から。

我々の祭の日の中で、一ばん全国的なものは盆の魂祭であろう。これは早くから仏寺の管掌に属し、従って仏教によって解釈せられ、国の祭日からは除外せられていたが、それはただ一部の変化に止まり、事実はこれもまためでたい節供であり、人が集ってイワウ日であったことは、かなりはっきりと私は証明することが出来る。日本の東半分では、今でも盆の魂祭に対して、暮にもう一度ミタマ祭というのがあり、この方は全く仏教との交渉がなく、清らかな米の飯を調じて、祖霊に供しまた自分たちもこれに参与する。ただ荒御霊と称して新たに世を去った霊魂のために、特別の作法がある点だけが、盆祭とよく似ている。つまりは盆の行事は、この方に力を傾け過ぎていたのである。(柳田国男「年中行事覚書」)

というわけでお盆とは、起源は仏教ではなく、神にかかわる。これも言われてみれば当然である。仏教が入ってくる前には神しかいなかったのであり、その前にも人は死んでいるのだから。

柳田国男の弟子にあたる折口信夫は、「まれびと」のひとであり、師匠の柳田のようには祖先の霊魂(タマ)のみを強調することはない(折口曰く神観念は三つある、「霊魂を神とする観念」、「霊魂を内にそなえた神の観念」、「鎮魂呪術を行う呪術者を神とする観念」)。だがこの二人の見解の相違はさておき、お盆の起源が神祭りであるということについては一致している。

盆の祭り(仮りに祭りと言うて置く)は、世間では、死んだ聖霊を迎へて祭るものであると言うて居るが、古代に於て、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、謂はゞ魂を切り替へる時期であつた。即、生魂・死霊の区別なく取扱うて、魂の入れ替へをしたのであつた。生きた魂を取扱ふ生きみたまの祭りと、死霊を扱ふ死にみたまの祭りとの二つが、盆の祭りなのだ。

盆は普通、霊魂の游離する時期だと考へられて居るが、これは諾はれない事である。日本人の考へでは、魂を招き寄せる時期と言ふのがほんとうで、人間の体の中へ其魂を入れて、不要なものには、帰つて貰ふのである。此が仏教伝来の魂祭りの思想と合して、合理化せられて出来たものが、盆の聖霊会である。

七夕の祭りと、盆の祭りとは、区別がない。時期から言うても、七夕が済めば、すぐ死霊の来る盆の前の生魂の祭りである。現今の人々は、魂祭りと言へば、すぐさま陰惨な空気を考へる様であるが、吾々の国の古風では、此は、陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であつた。(折口信夫「盆踊りの話」)

2017年7月24日月曜日

神仏習合と神仏分離

「神仏習合と神仏分離」などという表題をつけたが、以下は小林秀雄の『本居宣長』を読むなかでの派生備忘であり、一夜漬けとはいわないまでも、一週間漬け程度の、「ほぼ千年の間、日本文化そのものであった神仏習合思想」が明治政府の神仏分離政策によって崩壊したという「通説」しか知らなかった者のメモである。


◆加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年より
十七世紀以前に日本仏教は神仏習合を特徴としていた。神仏習合は、仏教の宗教的超越性を排して「現世利益」を強調することで大衆の中へ浸透したのである。十三世紀にはいわゆる「鎌倉仏教」が神仏習合を破って仏教信仰の超越性を強調する。しかしそれも、その後次第に神仏習合の広大な土壌に吸収されていった。その後最後にあらわれたのが、キリスト教弾圧の手段として徳川政権が導入した寺請制度である。寺請制度はすべての大衆を仏教寺院に強制的に登録する。寺院組織は行政機関の一部になり、タテマエとしての仏教の大衆化が徹底するが、同時に強い信仰の体系としての仏教は、もはや時代の支配的な価値の中心でなくなった。儀式(葬式など)、神仏習合がとりこんだ祖先崇拝(盆、仏壇)、さまざまな風俗(祭りなど)、全く現世的な願掛けなどは、多かれ少なかれ仏教と係わって徳川時代から今日まで残る。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


◆阪本是丸「神仏分離・廃仏毀釈の背景について」2005年より
本地垂迹説。これに関して、辻善之助先生が明治四十年の『史学雑誌』に「本地垂迹説の起源について」というのをずっと連載されていて、この辻先生の論文がいわゆる神仏習合の歴史を研究する基本の論文になっております。(……)そのなかで先生は、「即神明が仏法を悦び仏法を崇拝するといふ思想を事実的に現出せしめて」、それで神仏習合の端緒を開いた、それ以下は神仏習合の思想の起こったところから本地垂迹説ができるまでを考えてみようということで、「神仏習合」という言葉を使われた。これが最も学術的に早いと考えております。
佐藤弘夫さんが「神仏習合論」を書いている本の中で、神仏習合の帰結である神仏分離について書いています。「仏教と神道とはそれぞれの持続的独自性を保持しながら、相互補完的に習合していたのであり、神道が仏教に包摂されたり、両者が完全に渾然融合する関係にはなかったのである。神仏分離という大きな変革が達成された基盤には、こうした神祇信仰の歴史の流れがあったと理解すべきであろう」というふうに述べています。基本的には私はこの立場に立っております。
朝廷においては、いちばん神仏習合したとされる平安時代にあっても神仏隔離、神事に際しては仏事をしないという、決定的な作業があったということだけは知って置いていただきたい。
私は神仏分離が良かったとかけしからんといったことではなくて、一体何故そういうものが可能だったのか、しかも、それは単なる権力だけだったのか。いや、実はそうではなくて、それを受容した一種の受け皿があったのだろう。それがなければ、あれだけのものはできなかったということを述べたいのです。
仮に「ほぼ千年の間、日本文化そのものであった神仏習合思想」なるものが存在したとしても、実際にはそれに何の関心も興味も、そして信仰もなかった者たちが別当・社僧・寺僧となっていたのではないか、という疑念が拭い切れないのです。(阪本是丸「神仏分離・廃仏毀釈の背景について」2005年、pdf)


◆大黒学「国家神道の基礎知識」2007年より

【神仏習合】
複数の宗教が一体化される現象は、「習合」と呼ばれる。神社神道と仏教は、その間にさまざま な形態の関係を展開させた。その結果として生じた神社神道と仏教との習合は、「神仏習合」と呼ばれる。 神仏習合にはさまざまな形態がある。そのひとつは、神は仏による救済を必要とする存在であると考える形態の神仏習合である。この考え方のもとに、「神宮寺」と呼ばれる仏教の寺院が神社の傍らに建立され、そこで神社の祭神に対する供養が実施された。 神は仏教を守護する存在であると考える形態の神仏習合もある。すなわち、帝釈天や梵天などのインドの神々と同列の位置に神社神道の神々を置くという形態の神仏習合である。この考え方のもとに、仏教の寺院を建立するに際して、その場所の土地神が「鎮守社」と呼ばれる神社に祀られた。

【本地垂迹説】
神仏習合の形態のひとつに、「本地垂迹説」と呼ばれるものがある。これは、神々というのは仏や菩薩が衆生救済のために姿を変えて現われたものであるという思想のことである。 神の本来の姿である仏または菩薩は、その神の「本地」または「本地仏」と呼ばれる。逆に、 仏または菩薩が姿を変えて現われた神は、もとの仏または菩薩の「垂迹」または「垂迹身」または「権現」と呼ばれる。

【廃仏毀釈】
慶応 4 年 (1868) の 3 月から閏 4 月にかけて、政府は、神仏習合に終止符を打つ数回の布告を発した。それらの布告は総称して「神仏分離令」または「神仏判然令」と呼ばれる。神仏分離令は、神社に対して、仏像、梵鐘、仏具などを取り除くことや、 「社僧」や「別当」などと称して 神社に仕えていた僧侶を還俗させることなどを命じたものである。 神仏分離令を契機として、廃仏思想を抱く国学者、儒者、地方官吏、各地の神職は仏教に対する排撃を推進し、それはやがて一般の民衆を巻き込んだ運動へと発展した。この運動は「廃仏毀釈」と呼ばれ、これによって、全国の多くの寺院が廃寺に追い込まれ、また、多くの堂塔、仏像、仏画、仏典などが破壊されたり焼却されたりした。


◆幸田露伴『魔法修行者』より
神仏混淆は日本で起り、道仏混淆は支那で起り、仏法婆羅門混淆は印度で起っている。


◆羽根田文明『仏教遭難史論』より

ーーあまり知られていない方だが、この書の序文を、上に引用した阪本是丸の話に出てくる辻善之助が書いているらしい。

各神社に、社家の神主もあったけれども、みな社僧の下風に立ち掃除、または御供の調達等の雑役に従い、神社について、何らの権威もなかったのである。しかれども伊勢神宮を始め、その他に社僧なくして、神主の神仕する神社もあったが、いわば少数であった。

社僧の神社に奉仕するのは、僧徒が神前で祝詞を奏するのではなく、廣前に法楽とて読経したのであるから、社殿に法要の仏具を備え付けるは勿論、御饌(みけ)も魚鳥の除いた精進ものであった。神前に法楽の読経することは、古く詔勅を下して、之を執行せしめられたのである。…

…いずれの神社にも、神前に読経して法楽を捧げたものである。かかる情態(ありさま)であるから、遂にはかの八幡宮の如く、神殿内に仏像を安置して、これを神体とする神社が多くあった。大社が既にこの如くである故に、村落の小社は、概ね仏像を神体にしたのである。…

…堂作りの社殿に、極彩色を施し、丹塗りの楼門や二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。故に神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ。何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ、空しく涙を呑み、窃に時機の来たらんことを待っておった。(羽根田文明『仏教遭難史論』)


◆ヴィーシィ・アレキサンダー「近世寺院と農村の関係を考え直す: 高尾山薬王院の例に基づいて」
徳川社会の基礎となった身分制度において仏教僧侶と尼僧は神主、百姓、町人より高い身分を与えられていました。


◆原田正俊「「江戸時代の政治・イデオロギー制度における神道の地位 ー 吉田神道の場合 ー」によせて」
身分制の問題としても、僧侶身分が近世初頭より比較的安定していたのに対し、神職身分は不確定の部分も多かった。(……)

一部の大社の神職は身分的に安定したものであっても、実際は村落内部に百姓身分の神職も多数存在し、その身分は複雑かつ不安定であった。村落内には専業の神職、庄屋が兼帯する鍵取りといった神職、神宮寺にいたっては社僧が祭礼の道師を勤め、地域や神社によって状況は多様であった。神職の身分の在り方は、僧侶身分に比べて極めて低く、不安定なものであった。

村落内の神職身分の多くは、慣習のもと神まつりを主催するものであって、身分的には百姓と同帳で人別改めが行われている場合も多かった。(原田正俊「「江戸時代の政治・イデオロギー制度における神道の地位 ー 吉田神道の場合 ー」によせて」)


◆菊池寛『明治文明綺談』1943年
徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。

そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。

しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。 

僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。

そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎したのである。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。…

それだけにまた、江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。

『堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(熊沢蕃山「大学或問」)

… 荻生徂徠も、 『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)

と、その浪費振りと搾取のさまを指弾している。(菊池寛『明治文明綺談』1943年)

◆加藤周一『日本文化における時間と空間』
仏教渡来以前からの民間信仰を今かりに神道とよぶとすれば、神道のカミは神仏習合を通して、また仏教を離れて独立に、大衆の中に生き続けた。それは全国的な信仰体系ではなくて、地域的な信仰である。各地方にはその地方の多数のカミがいる。カミは人間の死後の救済にはかかわらず、現世において生活を保護したり、願いを遂げさせたり、幸福をもたらしたりするとともに、条件次第では災害を集団や個人に与えることもある。しかし人間相互の関係に介入して、社会的慣習を超えた規範を要求せず、特定の倫理的価値を正当化しないし、権威づけない。要するに神道を背景としては、仏教的な彼岸の代わりに死後の魂の救済を説くことはできないし、此岸の倫理的な秩序を構築することもできない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)

◆本居宣長『古事記伝』より
さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、(本居宣長『古事記伝』三)


◆中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」より
江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。特に家康の決めた「祖法」は変更を許されなかった。その下で、江戸期の特徴は航海術、灌漑技術、道路建設、水道建設、新田開発、手工業、流通業、金融業の発達である。江戸は人口百万の世界最大都市となり、医師数(明治二年で一万人)も国民の識字率もおそらく世界最高であった。江戸期に創立された商社と百貨店と多くの老舗は明治期も商業の中核であり、問屋、手形、為替など江戸の商業慣行は戦後も行なわれて、「いまだ江戸時代だ」と感じることがたくさんあった。

「戦後レジーム」が米国から多くを学ぼうとしたのも、過去の敗戦後の日本史の法則通りであるといえそうである。米国は、科学から政治経済を経て家庭生活までが理想とされた。気恥ずかしいほどであった(貧しくなった西欧にも類似の米国賛美はあった)。

天皇が政治に関与せず、マッカーサー元帥が将軍として君臨したのも、米軍が直接統治せず、日本の官僚制度を使ったのも、江戸期の天皇、幕府、諸侯の関係に似ている。占領軍の指令は何と「勅令第何号」として天皇の名で布告され、日本政府が実施の責任を負った。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収ーー歴史にみる「戦後レジーム」)