折口信夫は坂口安吾マインドをもっていた人であるのを、今頃知った。作家たちのなかに熱烈な折口ファンがいるのはこういうところに(も)あるのだろうと思う。
・《唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます》
・鴎外の作品は《現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引き……もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた》
・《あきらめやゆとり(鴎外博士のあそび)や、通人意識・先覺自負などからは、嗜かれる文學が出て來ない》
・漱石の《あの捨て身から生れて來た將來力》
これらの表現が出現する「好惡の論」を以下に引用する。
折口のいう漱石と鴎外との比較の正否は、それぞれ人が判断したらよい。だが、漱石より鴎外を好んだ作家たちはおおむね、《紳士としての體面を崩さぬ樣》な、《とり紊さぬ賢者として名聲》を希求した人たちだったのではないかと、いま思いを馳せてみるのは、わたくしの場合、三島由紀夫、石川淳、加藤周一の顔を想起することによる(困ったことに、わたくしの最も愛する作家のひとり荷風も鴎外を上に置いたのだが)。
もっともこれらの作家たちーー《作家の手の爪には血が滲んでゐる》(坂口安吾『理想の女』)--彼等の爪に血が滲んでいることが少ないなどと(安易には)いうつもりは毛ほどもない。
ここでは中野重治の簡潔な文を掲げるのみにしておく。
…………
《血みどろになつた處》という折口の表現に反応してヘーゲルを引用しておこう。
折口は《血まみれの頭 blutiger Kopf》の人であったと同時に《白い亡霊 weiße Gestalt》の人でもあった(たとえば『死者の書』)。
だれにでも自己の内部にあるはずのこの「血まみれの頭」と「白い亡霊」、--それを見て見ないふりをして人生を送るべきかどうかは、人の生き方によるだろう。
このヘーゲルの二つの文を要約していえば、人は「世界の夜」 に留まり、「血まみれの頭」、「白い幽霊」を見すえなければならない。そのとき初めて精神の偉大な力が生まれる、ということになる。
フロイトはヘーゲルのこの「否定性」ーーゴダールの表現ならポジに対するネガーー、「世界の夜」「血まみれの頭」に相当するものを、「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」(参照)、あるいは「欲動の根 Triebwurzel」「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」(参照)等と呼んだ。
そしたわたくしの考えでは、ニーチェの《わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin》や《メドゥーサの首 Medusenhaupt》も、ヘーゲルの「血まみれの頭」、折口の「血みどろになつた處」と相同的である(参照)。
鴎外と逍遙と、どちらが嗜きで、どちらが嫌ひだ。かうした質問なら、わりに答へ易いのです。でも、稍老境を見かけた私どもの現在では、どちらのよい處も、嗜きになりきれない處も、見え過ぎて來ました。それでやつぱり、かうした簡單な討論の方へ加はれさうもありません。だからまして、廣く大海を探つて一粟をつまみあげろと言つた難題には、二の脚を踏まずには居られません。さあだれが嗜きで誰が嫌ひ。そんな印象も殘さない樣な讀み方で、作品を見續けて來た幾年の後、靜かにふりかへつて見ても、假作・實在の人物の性格や生活に、好惡を考へ分ける事が出來なくなつてゐます。(……)
だが強ひて申さば、自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。
文學上に問題になる生活の價値は、「將來欲」を表現する痛感性の強弱によつてきまるのだと思ひます。概念や主義にも望めず、哲學や標榜などからも出ては參りません。まして、唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。
逍遙博士はまだ生きて居られるので、問題にはしにくいと思ひますが、あの如何にも「生き替り死に變り、憾みを霽らさで……」と言つたしやう懲りもない執著が背景になつて、わりに外面整然としない作物に見失はれがちな、生活表現力を見せてゐます。つまりは、あきらめやゆとり(鴎外博士のあそび)や、通人意識・先覺自負などからは、嗜かれる文學が出て來ないのです。この意味の「嗜かれる」といふことは、よい生活を持ち來す、人間の爲になる文學、及び作者の評言といふ事になるのです。(……)
馬琴の日記を見ても、いやな根性や、じめ/\した、それでゐて思ひあがつた後世觀なども、却て、其文學の背景を色濃くし、性格的必然性を考へさせる樣になつて來ました。小づらにくい小言幸兵衞のもでるの樣な爺さまも、文學者として浮きぼりせられて來たのです。だから生活が知れるといふ事は、作者と作物との關係、生活の將來力と個性の表現傾向などが、長い人生の參考や、暗示や動力になるのです。此點において、私の考へる文學の目的に大なり小なり叶うて來るのです。
文學の目的は、私はかう申します。人間生活の暗示を將來して、普遍化を早める事です。此が、私の考へる文學の普遍性で、同時に、文學價値判斷の目安なのです。だから、結局、日記や傳記によつて、文學作品が註釋せられて、作者の實力が知られると言ふのは、抑文學者として哀れな事で、作品其物に、人間共有の拂ひがたい雲を吸ひよせる樣な、當來の世態の暗示を漂はしてゐる文學でなくてはならないのです。
芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)
折口のいう漱石と鴎外との比較の正否は、それぞれ人が判断したらよい。だが、漱石より鴎外を好んだ作家たちはおおむね、《紳士としての體面を崩さぬ樣》な、《とり紊さぬ賢者として名聲》を希求した人たちだったのではないかと、いま思いを馳せてみるのは、わたくしの場合、三島由紀夫、石川淳、加藤周一の顔を想起することによる(困ったことに、わたくしの最も愛する作家のひとり荷風も鴎外を上に置いたのだが)。
もっともこれらの作家たちーー《作家の手の爪には血が滲んでゐる》(坂口安吾『理想の女』)--彼等の爪に血が滲んでいることが少ないなどと(安易には)いうつもりは毛ほどもない。
ここでは中野重治の簡潔な文を掲げるのみにしておく。
世間には、漱石は通俗であつても鴎外は通俗でないといつたふうな俗見が案外に通用している傾きがある。実地には、漱石や二葉亭はなかなかに通俗ではなかつた。鴎外が案外に通俗であつた。(中野重治「鴎外その側面」)
…………
《血みどろになつた處》という折口の表現に反応してヘーゲルを引用しておこう。
人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)
折口は《血まみれの頭 blutiger Kopf》の人であったと同時に《白い亡霊 weiße Gestalt》の人でもあった(たとえば『死者の書』)。
だれにでも自己の内部にあるはずのこの「血まみれの頭」と「白い亡霊」、--それを見て見ないふりをして人生を送るべきかどうかは、人の生き方によるだろう。
力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。
精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)
このヘーゲルの二つの文を要約していえば、人は「世界の夜」 に留まり、「血まみれの頭」、「白い幽霊」を見すえなければならない。そのとき初めて精神の偉大な力が生まれる、ということになる。
フロイトはヘーゲルのこの「否定性」ーーゴダールの表現ならポジに対するネガーー、「世界の夜」「血まみれの頭」に相当するものを、「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」(参照)、あるいは「欲動の根 Triebwurzel」「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」(参照)等と呼んだ。
そしたわたくしの考えでは、ニーチェの《わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin》や《メドゥーサの首 Medusenhaupt》も、ヘーゲルの「血まみれの頭」、折口の「血みどろになつた處」と相同的である(参照)。
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrinの名だ。
……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)