2017年7月12日水曜日

魔女の厨房

このところフロイトの1920年以降の代表論文のいくつかを読んだのだが、以下はその派生物である。主に精神分析臨床にかかわる箇所なので、わたくしは具体的には関知しない部分だが、ここに備忘の形として残しておく。

…………

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第三章、1937年)

ーー《するとやはり魔女の厄介になるのですな》とはもちろんゲーテの『ファウスト』「魔女のくりや(魔女の厨房)」におけるメフィストフェレスの発言である(いまの訳は鴎外による)。

この文は、フロイトは最晩年まで欲動という手に負えないものに降参していることを示している。

フロイトが分析経験において拓いたこれらの道、彼は生涯これらの道を追及し、約束の地と呼べるものに最後に到達します。しかしながら、彼が約束の地に入場できたとは言えません。彼の遺書 son testament とみなすことができる『終りある分析と終りなき分析』を読むと、彼が意識していたなにものかがあるとしたら、自分がこの約束の地へと入場できなかったことであることがわかります。(ラカン、S1, 13 Janvier 1954)

では最後のラカンはどうであろうか。約束の地に至ったのであろうか?

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。

Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.(Lacan, “Conférences aux USA,1976)

これが最後のラカンである。以下の文も同様。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, Le Séminaire XXIV, 16 Novembre 1976)

ここでの症状とは原症状のことである。つまりフロイトの遺書曰くの「原始時代のドラゴン」(後述)との同一化しつつ、なんとか折り合いをつけてドラゴンから距離をとることがラカンにとっての「分析の終り」である。

このラカンによる「分析の終り」は、ジジェクの「否定的なもの=死の欲動」という思考におけるヘーゲルの「否定的なものに留まること否定的なもの Negativen に留まる verweilt 」にほぼ相当するはずである(臨床と哲学的思考の区別はもちろんある)。

精神は、否定的なものを見すえ、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)

ここで再度ゲーテのファウストから引用して、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」と強調しておこう。

ところでラカンは、「分析の終りは症状の同一化である」といった半年後、次のように言うことになる。

馬鹿げたことじゃない、精神分析がペテン escroquerie に陥りうると言うのは。c'est pas absurde de dire qu'elle peut glisser dans l'escroquerie. (ラカン、S24、15 Mars 1977)
精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないかい? 

…… la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?(S24、19 Avril 1977)

フロイト、ラカンの両者とも「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」という治癒不能のものには対応仕切れなかったのである。このドラゴンの存在が、現代ラカン派内でいわれる「症状のない主体はない」の真の意味である。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., 1975, pp.106-107.摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。《私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine》(S22, 18 Février 1975)。ラカンは対象aよりも症状概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)

さて何度か引用しているフロイトの「残存現象 Resterscheinungen」と「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」の叙述箇所を再掲しておこう。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年ーー残存現象と固着

この「原始時代のドラゴン」を家畜化するには、「魔女の厄介」にならなければならない。だがフロイトにとってこのドラゴンは具体的に何だろうか?

すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験を、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第二章)

ーー「すべての神経症的障害」とあるが、これはラカン的な「精神病・倒錯・神経症」の三区分における神経症でではない。すべての症状ということである。

フロイトの神経症には二区分がある。現勢神経症と精神神経症である。これがフロイトにとって、(ほぼ)すべての症状である。

現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核であり、そして最初の段階である。(フロイト『精神分析入門』1916-1917)
現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、ことに精神神経症 Psychoneurosen がおきやすいことが分かる。自我は、しばらくのあいだは、宙に浮かせたままの不安を、症状形成によって拘束し binden、閉じ込めるのである。外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第八章、1926年)

ーーほかにも「ホロコースト生存者の子供たちのPTSD」に現勢神経症にかかわる記述をいくらか拾っている。

 フロイトは現勢神経症を扱い得なかった。概念だけは継続的にある。なぜ扱い得なかったかといえば、原始時代のドラゴンにかかわる症状だから。

フロイトが《原始時代(の) Urzeit wirklich》、あるいは「太古の archaischen」というときは、欲動にかかわるエスのことである。

「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただ エス Es のことを考えているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

くり返せば、原始時代のドラゴンの完全な家畜化は不可能である。ゆえに(人によって)ときおりにか常にかは別にして、野獣は回帰する。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

フロイトはこうも言っている。

自我の強度が病気、疲労などによって弱まれば、それまで幸いにして飼い馴らされた欲動 gebändigten Triebe のすべてはふたたびその要求の声を高め、異常な方法でその代償満足を求めることになる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第三章)

ここで、2001年に出版されたRICHARD BOOTHBYの『哲学者としてのフロイト、ラカン後のメタ心理学』の結論部分のとてもすぐれた叙述を抜き出しておこう。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象 representations に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰 unrepresented excess」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

RICHARD BOOTHBYが簡明に言っていることとは、ようするに人には治癒不能の(欲動にかかわる)原症状が誰にでもあるということである。そしてこれは思いの外、ポストフロイト世代には忘れられている。BOOTHBYがいうように、《フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方》だったせいもあるのかもしれないが。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisseが、欲動の固着 Fixierungen der Libido 点を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』第23章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1916-1917)

この文は上に引用した残存現象とほぼ同じことを言ってはいるが、フロイトにおいてこういう形では稀にしか表現されていない、ということは言えるのかもしれない。《発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである》(フロイト、1937)。

だが、そもそも頻出する「現勢神経症」概念でさえ忘れられているのだから、結局もはやフロイトはたいして読まれていないということだろう。

…………

最後にわたくしが理解する範囲での「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」についての、いくらか具体的なラカン派の処方箋を掲げておこう。

精神分析の実践は、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(父との同一化)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを症状との同一化とした。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains)

ラカン自身であるなら、たとえば次のように言うことになる。

倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le pere」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である。あなた方が好むなら、サントームと言ってもよい le père est un symptôme ou un sinthome, comme vous le voudrez》(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

この文脈のなかで« père-version »父ヴァージョン(父の倒錯)ともいっており、ようするに父との同一化、エディプス的症状、理念や神を信じ込むのも倒錯の一種ということになる。

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン、S23、11 Mai 1976)

 ラカンは別に「正常な」性関係を、《norme-mâle》ーー男の規範とも言っている。これは悪い規範 norme mal と読めもする。すなわち正常な性関係とは、「父」の介入による前性器的「多形倒錯 polymorphe Perversität」--もちろんフロイト用語であるーーの男根化(ファルス化)である。

…………

結局、人間は原ドラゴンを飼い馴らすために、「倒錯」という症状が必要不可欠なのである。ミレール用語の「ふつうの精神病」とは、これもまた結局「倒錯」のことにすぎない。

倒錯は欲望に起こる偶発事ではない。すべての欲望は倒錯的である。いわゆる象徴秩序がそうしたいようには、享楽はけっしてその場のなかにないという限りで。

La perversion n'est pas un accident qui surviendrait au désir. Tout désir est pervers dans la mesure où la jouissance n'est jamais à la place que voudrait le soi-disant ordre symbolique.(L'Autre sans Autre par JACQUES-ALAIN MILLER,2013)