2017年7月14日金曜日

阿波礼

「あはれ」とは、「ああ、はれ」のことである。「なげく」とは「長息(ながいき)」することである。歌とは、「ああ、はれ」という生の感動の声を、「なげく」事によって形を整えることである。これが宣長の考え方であった。

今、人せちに物のかなしき事有て、堪がたからんに、其かなしき筋を、つぶつぶといひつゞけても、猶たへがたさのやむべくもあらず。又ひたぶるに、かなしかなしと、たゞの詞に、いひ出ても、猶かなしさの忍びがたく、たへがたき時は、覺えずしらず、聲をさゝげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばゝりて、むねにせまるかなしきをはらす。其時の詞は、をのづから、ほどよくあや有て、其聲長くうたふに似たる事ある物也。是すなわち歌のかたち也。たゞの詞とは、必異なる物にして、其自然の詞のあや、聲の長き所に、そこゐなきあはれの深さは、あらはるゝ也。かくの如く、物のあはれにたへぬところより、ほころび出て、をのづからあやある詞が、歌の根本にして眞の歌也。(本居宣長「石上私淑言」)

《たへがたき時は、覺えずしらず、聲をさゝげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばゝりて、むねにせまるかなしきをはらす》--これは漱石もプルーストもほとんど同じことを言っている。

涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる。(夏目漱石『草枕』)
われわれの悲しみが協力した作品は、われわれの未来にとって、苦しみの不吉な表徴であるとともに、なぐさめの幸福な表徴である、と解釈もできる。 (プルースト「見出された時」

だがまちがえてはならないのは、「あはれ」とは、かなしいことだけではないことである。

あはれといふに、哀の字を書て、ただ悲哀の意とのみ思ふめれど、あはれは、悲哀にはかぎらず、うれしきにも、おもしろきにも、たのしきにも、をかしきにも、すべてああはれと思はるるは、みなあはれ也、……又もののあはれといふも、同じことにて、物といふは、言を物いふ、かたるを物語、又物いふ、かたるを物語、又物まうで物見いみ、などいふたぐひの物にて、ひろくいふときに、添ることばなり。(本居宣長『玉の小櫛』)

究極のあはれとは、トラウマ的な心の衝撃の体験にかかわるといってさえよいかもしれない。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)

そうはいってもこの心の衝撃は尾を引くのであり、場合によっては「心がこじれる」のであるが。

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

面の皮が厚ければ、人はもののあはれなど感じない。フロイトはこの面の皮を「刺激保護壁 Reizschutz」と呼んだ。

外部から来て、刺激保護壁 Reizschutz を突破するほどの強力な興奮を、われわれは外傷性traumatischeのものと呼ぶ。

外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。(……)

刺激保護壁Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年

ーーミナさん、「健康」のために面の皮を厚くしましょう! そして内的興奮を他人に「投射」などして、「道理は不合理となり、博愛は苛責になる Vernunft wird Unsinn, Wohltat Plage」などということがないように「もののあはれ」に不感症になりましょう!!

宣長に戻れば、彼はこうも言っている。

・阿波礼といふは、深く心に感ずる辞也。是も後世には、たゞかなしき事をのみいひて、哀の字をかけども、哀はたゞ阿波礼の中の一つにて、阿波礼は哀の心にはかぎらぬ也。

・阿波礼はもと歎息の辞にて、何事にても心に深く思ふ事をいひて、上にても下にても歎ずる詞也。

・さてかくの如く阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれども、其意はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふ也。俗にはたゞ悲哀をのみあはれと心得たれ共、情に感ずる事はみな阿波礼也〉(本居宣長『石上私淑言』)

だがどうして「あはれ」は「哀れ」となったのか。《うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべてこころに思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故》(『玉の小櫛』)である。

バッハの結婚カンタータBWV202の冒頭をあの哀切なアリア「しりぞけ、もの悲しき影 Weichet nur, betrübte Schatten」ではじめた。なぜなのか。今とちがって昔はほとんどの場合「きむすめ」が「女」にかわってしまう記念日の儀礼であったからではないだろうか?ーー「ああ、はれ!」「阿波礼!」




…………

シューベルトは《悲しみを歌えば愛になり、愛を歌えば悲しみになる》と言った。すなわち愛を歌えば「もののあはれ」になるのである。

アファナシエフの2013年のD.960を聴く。ミスタッチの多い演奏で、なぜこんなところまでミスをしてしまうのか、と思いつつ聴いていた。でも瞑想の一楽章と悲痛の二楽章をへた歓びの三楽章にきて息をのんだ。各フレーズの始まりに宙吊りになったわずかな瞬間がある。彼はどもっている。《傷は、それを負わせた槍によってのみ癒されうる die Wunde schliesst der Speer nur, der sie schlug》(ワーグナー)

Valery Afanassiev plays Schubert Piano Sonata D. 960




それに私も、どうすればこのソナタ(D.960)の心理的な重みに耐えることができるだろう。たとえウィークデーの夜、小さなホールで演奏するだけとしても。このソナタをわが家で弾いたら何が起こるだろう? 大文字の「他者」がそのまったき光輝と恐怖とともに出現する。ある意味において、このソナタは私の不俱戴天の敵なのだ。弾けば弾くほど、私は具合が悪くなる。私を傷つけ、私の苦痛をいつまでも引きのばすことを知りながら―――今回も、とどめの一撃を与えてはくれないのだ―――私はこの他者を抱きしめ、接吻する。日常生活の中でなら、こんなにひどいカタストロフに襲われれば命を落としていただろう。(アファナシエフ『ピアニストのノート』)

彼はかつてこのD.960を「もののあはれ」と名づけて日本で演奏したそうだ。演奏は一楽章だったようだが。

「もののあはれ」とは、(アファナシエフによれば、)人生には出会いと別れ、幸福と不幸が入り混じっていて、それらは決して切り離しえないものであることによる感情に関わるものであり、『源氏物語』はそのことを何よりも美しく語っているという。そうして番組の終わりにアファナシエフ自身が「もののあはれ」の美学を体現する音楽であると語るシューベルトの最後のソナタの第一楽章が演奏される。(ハイビジョン特集「漂泊のピアニスト アファナシエフ もののあはれを弾く」