源氏物語より
・すべて男も女も、わろものはわづかに知れる方の事を残りなく見せ尽くさむと思へるこそいとほしけれ(源氏「帚木」)
・すべて男も女も、わろものはわづかに知れる方の事を残りなく見せ尽くさむと思へるこそいとほしけれ(源氏「帚木」)
・人の上を、難つけ、おとしめざまの事言ふ人をば、いとほしきものにし給へば(「蛍」)
・いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ御方にて、ことにもあらず思し消ちてもてなしたまふなるべし。月も入りぬ。 (「桐壺」)
・宮はいといとほしと思す中にも、男君の御かなしさはすぐれ給ふにやあらん(「少女」)
いとほしと言ふ言葉は、平安朝で有力になつたが、どうも、もとは「嫌だ」と言ふ事らしい。「厭ふ」と言ふ言葉を語根にしてをりまして、それを形容詞に活用させて、いとほしと言ふんだが、どうも、嫌だと言ふ事に使つたのが第一義らしい。
ところが、平安朝の物語になると、このいとほしと言ふ言葉は、後の室町時代になつて盛んに出て来るいとしと言ふ言葉、我々の使つてゐるおいとしいと言ふ言葉、と同じ意味に、多く使つてゐる。つまり、いとほしと言ふ形が、いたはしと言ふ形から影響を受けて、そつちの方に引張られて行つた、つまり、いたむを語根にした言葉に惹かれて行つたのです。それで、同じ時代の言葉でも、いたはしといとほしと、同義語が並んでゐる訣です。
この様に、いたはしと言ふ様な意味に引張られて、いとしと言ふ意味に使はれる一方には、いとはしと言ふ言葉と同じ様に嫌だと言ふ時にも使つてをるのです。けれどもしまひには、だん〳〵時代が進むと言ふと、いとはしい、嫌だと言ふ意味はなくなつてしまつて、第二義の方にずつと這入つて行つてしまふ。
併し、平安朝で見ますと、第一義が嫌だと言ふ意味なのか、第二義か第三義か知りませんが、兎に角、引きずられてゐる言葉、外の方にかぶれて、引きずられて行つた言葉が、いとしいと言ふやうな意味ですから、さうすると同じ言葉であるけれども、さう言ふ風に意味が変つて行くんです。ですから、どうもその間に調和を求めまして、嫌だと言ふ意味と、いとしいと言ふ意味との中間を歩くやうなものが、物語や日記等に沢山出てゐる。
それを我々が今日見ますと言ふと、いとしいとも釈けるし、嫌だ、嫌ひだとも釈けるのですけれども、昔の人はその間の考へ方と言ふものを、見つけてゐたんです。つまり、さう言ふ言葉が使はれてゐる時代が過ぎ去つて、忘れられてしまふと言ふと、もう、さう言ふことは考へられぬのと同じ事です。我々が書物を持たなくても、幸にその言葉の出来た時分に我々が生きてをつたら、さう言つた言葉ははつきりしてをりますね。
………さう言ふ風に、言葉と言ふものはだん〳〵変遷して、このいとほしと言ふ言葉と、いたはしと言ふ言葉とが歩み寄ると、その中間の意味と言ふものが出来て来る。それが今日の我々になると、どう訳して良いか訳すべき言葉がない。ごく、無感興に、訓詁解釈を行ふ人は、いとほしと言ふ言葉は、大抵、いとしいと言ふ意味に訳して、どうも為様のない時にはいとはしと言ふやうな、嫌だ、嫌ひだと言ふやうに訳す。それよりほか方法がなくなつてしまつてゐる。(折口信夫「国語と民俗学」)
ーー折口の見解における「いとほし」は、日本語版の「不気味なもの」であり、その両義性の成り立ちはほとんど相同的ということになる。
・こんな「親しい heimilich」場所を私は今まで見たことがない。(ゲーテ)
・「秘密の heimilich」力なき呪縛を解きうるは、ただ洞察の手あるのみ(ノヴァーリス)
・湖の左手に/牧場は森のなかに 「人眼に触れず heimilich」横たわっている(シラー)
……以上の長い引用のうちでわれわれにとってももっとも興味深いのは、heimlich という語が、その意味の幾様ものニュアンスのうちに、その反対語 unheimlich と一致する一つのニュアンスを示していることである。すなわち親しいもの、気持のいいもの des Heimliche が、気味の悪いもの、秘密のものdes Unheimliche となることがそれである。(フロイト『不気味なもの』1919)
・隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時は、なんでも「不気味な unheimilich」と呼ばれる。(シェリング)
「故郷の、故郷のような思いをさせる、自宅での、家内での」の意からさらに「人の眼に触れない、人の眼から隠されている」の概念が発生し、多様な関係において展開していった。(グリム辞典)
最も「いとほし」ものは、「玄牝の門」であるだろうことは「「玄牝の門」「杣径」「惚恍」「外祟」」に記した。