このブログを検索

2017年8月26日土曜日

折口信夫と女たち

以下、「藤澤寺の餓鬼阿弥」より引き続くメモ。折口初心者の、折口をめぐる評論のたぐいは一切読んだことのない者が、主にネット上から拾った備忘である。

 …………

折口の出生については、池田弥三郎氏の「私説折口信夫」が詳しいが、これによると事情はなかなか複雑である。父秀太郎と同居の叔母の間のこと、それに先行する母のあやまち、自己の出生に対する疑惑等、若き折口に二度も自殺を図らせるほどのものであった。池田氏のことばを借りれば、「折口の出生に関するかくろえごと」ということになる。その他にも、インクのしみのような額の痣、切り株で睾丸を裂くという幼児期の事故。(高橋広満「折口信夫と「既存者」」1980、PDF
父・秀太郎は河内国の名主の家の次男で、折口家の養子となり医を継いだ。信夫が生まれて7年のち双生児の弟が誕生するが、実は母こうが生んだのではなくて、同居する叔母ゆうと父の秀太郎との間に生まれたのであった。こうした家庭内の愛情にかかわる葛藤も、信夫の心に深い陰影を刻んだ。(wiki


幼き春(「古代感愛集」)

わが父に われは厭はえ
我が母は 我を愛メグまず
兄 姉と 心を別きて
いとけなき我を 育オフしぬ。



追悲荒年歌

ちゝのみの 父はいまさず、
はゝそばの 母ぞ かなしき。
はらはらの我と、我が姉
日に 夜に 罵コロばえにけり。
怒ります母刀自ハハトジ見れば、
泣き濡れて くどき給へり。
そこゆゑに、母のかなしさ。
家荒れて 喰ふものはなし。
庭寒く 鳥もあそばず。
あはれ かの雀の子らは、
軒の端ハゆ 顏さし出でゝ
ちゝと鳴き くゞもり鳴きて、
聲やめぬ。ふた聲ばかり――。
雀子も、餓ウゑ寒からむ。
あはれ/\ 喰ふ物やらむを――
腹へりて 我も居にけり。
頻々シクヽヽに いたむ腹かも。
晴るゝ日の空の靑みに、
こだまするもの音オトもなし。
靜かなる村の日ねもす――
村びとも みなから飢ゑて、
ま晝すら 寢貪ネムサボるらむ。
朝明ケよりものにい行きて、
歸り來し姉のみことの、
我を見て あはれと言ノらし、
町人マチビトの、姉にくれたる
蕎麥の粉の練れる餅モチヒの
燒きもちひ 喰へと言ひて、我に給タびたり。
くるゝ時、我を見し目の
姉が目の さびしかりしを
髣髴オモカゲに 今も忘れず。
ひた喰はゞ 片時の間ぞ。
喰はざらば 腹ぞ すべなき。
蕎麥もちひ 惜しみ、たしみて
ねもごろに 我が喰ひをるに、
ほろ/\と とすれば崩クえて
もろくくづるゝ蕎麥の粉の すべもすべなさ


『零時日記』に目を通すに、信夫は父が死亡せる十六歳前後、三囘にわたりて自殺を企圖せしことあり。學業成績下がり、卒業試驗にも落第せるこの間の事情、明白とは言ひがたけれど、この時期が彼にとりて重大なる青春期の危機なりしこと、まづは疑ひなし。(飯田眞『折口信夫、診断日本人』)





信夫は少年時代に父を通じて詩歌を知り、「うすら明るい知らぬ國の影」を感ず。詩歌の世界に「しみじみと親しまれる世界のやうな心地」を覺え、西行や芭蕉など、漂泊の詩人に己が孤獨なる心を託すに至る。當時在京中なりし叔母えいより送られたる『東京名所圖會』の見開きに書きとめたる短歌「たびごろもあつささむさをしのぎつつめぐりゆくゆくたびごろもかな」は、八歳頃の處女作と言はる。中學三年頃には鳳鳴會同人となりて短歌創作をはじめ、旅へ誘はるる心地高まる。(同上、飯田眞)

…………

医者だつた父は医者になれと殆ど遺言と申す事も出来るほど、死に際まで申して居ました。でも卒業した時は、母・叔母などを泣かしても、やつぱり文学をすると主張しました。而も私のは、二重の難関を通りぬけねばなりませんでした。文学をやるなら、第三高等学校へ行けと、やつと言ひ出してくれた叔母を更に失望させねばなりませんでした。其は、どうしても国学院へ這入らねばならないと言ふ不思議な決心を持つて居たからです。(折口信夫「新しい国語教育の方角」)

・独り身を守り遂げて、我々をこれまでにしあげてくれた、叔母えい子刀自も、もうとる年である。せめて一度は、年よりらしい、有頂天の喜びを催さしてあげたいと思ふけれど、私に、其望みを繋けてゐてくれる学位論文なども、書く気にもなれない。

・でもまだ〳〵、兄のうへを越す無条件の同情者が、尠くとも一人は、健在してゐる。前に述べた叔母である。私の、此本を出さうと決心した動機も、この人の喜びを、見たい為であつた。だから第一本は、叔母にまゐらせるつもりである。叔母は必、かこつであらう。かういふ、本の上に出た、自分の名を見ることのはれがましさの、恥ぢを言ふに違ひない。兄が、かうなると思はぬ先から、私の考へてゐた事なのである。叔母に捧げる志は、同時に、兄の為の回向にもなつてくれるであらう。(折口信夫「古代研究 追ひ書き」)

…………

以下、上にも一部引用したが、飯田真(眞)氏の折口論から引用する。「飯田真」とは現在ではあまり知られていない名かもしれないが、中井久夫の先輩にあたる方である。

……「友人」とは新潟大学精神科教授・飯田真先生で、私は1985年春、講演に招かれたのである。先生には、若いころ、東大分院で手を取って教えていただき、共著・共訳もある(『天才の精神病理』中央公論社、1972年、シュルテ『精神療法研究』医学書院、1969年)ーー( 中井久夫「信濃川の河口にて」『家族の肖像』所収)

現在からみて臨床用語的には、やや古くなっている箇所があるという観点もあるだろうが、そのまま抜粋する。たぶん折口信夫の研究者たちは、こういった精神分析的解釈をきらうのだろう、現在ではまったく参照されていないようにみえるが、わたくしにはとても面白い。引用元は「飯田眞 人物雑評 折口信夫」1-6からだが、段落分けをして小表題をつけた。


【里子・自殺企圖】
折口信夫は明治二十年、大阪に生まる。父は婿養子にて醫を本業とし、さらに家業の生薬屋を兼ぬ。幼時一時大和小泉に里子に出され、木津小學校を經て明治三十二年に大阪府立第五中學に入學せり。明治三十五年五月(十六歳)父死亡す。明治三十七年、卒 業試驗に落ち、その前後に數囘の自殺企圖あり。されど翌三十八年(十九歳)には同校を卒業し得たれど、醫科を學ばせむとする家人の意を斥け、國學院大學に入學、同四十三年、拔群の成績にて卒業するや、釋迢空の號を初めて用ゐる。…


【祖父・父・母】
折口信夫の生家は古く續ける生藥屋なりき。信夫誕生當時の家族は、兩親の他、曾祖母、祖母、二人の母方の叔母、姉、三人の兄にて、後に弟二人生まる。「祖父は、飛鳥ニ坐ス神社の神官の子なりしが、折口家の養子となり、醫を本業とし、舊來の家業を兼ぬるも、 差別なく部落民の治療に當り、その徳人より慕はれれたり。父は壻養子として折口家に入り、 祖父の跡を繼げるも、氣むつかしく、荒々しき氣性の人にて、晩年には患者を診ること少なかりし。母はいはゆるお孃さん育ちにて、わがままなる人なりしが、父には痛々しく思はるゝ程 よく仕へ、父の代診をつとむるなど、獨身なりし叔母二人と家業を切り廻したり。」(『母と子』) 恐らく信夫の父は、母系家族に對する一種の反逆兒にてはなからんかと想像せらる。

※『母と子』とあるが、この飯田氏の引用の仕方では、折口の著書から引かれているように思えるが、ネット上を探す限りでは、この『母と子』の引用には行き当たらず(飯田氏の論以外には)、不詳不明の箇所。


【遠くにある母の影】
信夫が幼年時代の資料極めて乏しけれども、『古代感愛集』に收められたる「幼き春」「乞丐 コツガイ 相」「追悲荒年歌」などの詩の中にうたはれし、幻想の織り込まれたる幼時の囘想を讀まんか、そが傷ましさ、想像を絶するものあり。「わが父にわれは厭はえ、我が母は我を愛 メグまず、兄姉と心を別きて、いとけなき我を育 オフ しぬ」(「幼き春」)「父のみの父はいまさず、ははそばの母ぞかなしき。はらからの我と我が姉、日に夜に罵 コロ ばえにけり」 (「追悲荒年歌」)。斯くのごとき彼の不幸なる幼年時代を決定づけたるものは、幼時の一時を里子に出されたることなり。里子に出されたる年齡、期間の詳細は明らかならざるも、このために幼年時代の信夫は母との對象關係斷ち切られたれば、我は見捨てられたりと感じ、 母の影は遠くのもの、覺束なきものとなりたりと推測せらる。


【父への反感、憎惡】
一方、父との對象關係も十分なるものにてはなく、當時「年と共に氣むつかしくなり、家人とも樂しげに話をかはすこともなく、母と顏をあはすことも嫌ひたり」(『母と子』) 父によりて彼の孤獨感の瘉されるべきすべもなかりし。かへりて父は母を信夫より遠ざくるていの人物なれば、部落民を診察することを拒否し、祖父の里との交際を斷つといふがごとき父の粗暴なる行爲は、幼き信夫の心に消しさりがたき父への反感、憎惡を生み、彼の出生前に死亡したる祖父への止みがたきあこがれと幻想的なる同一視おこり、祖父を父批判のよりどころとする結果となりたるがごとし。父に對する憎しみの激しきことは『近代悲傷集』の「すさのを」の 詩篇からも容易にうかがひ知らる。


【母代りの叔母えい、姉あい】
幼年時代の信夫は、母代りの叔母えい、姉あいによりて育てられたるならん。殊に八歳年上の姉とは、互ひに孤獨なる魂を温め合ふかの如くに親密にて、近親相姦的關係に近かりしかと想像せらるる節さへ見ゆる。「わが御姉 ミアネ 、 我を助けて、かき出でよ、汝が胸乳 ムナヂ 、あはれわれ、死ぬばかり、いと戀し、汝が生肌 イキハダ 」(「すさのを」) 晩年の『死者の書』におきても主人公大津皇子は、その刑死を萬葉集の中にてもつとも哀切なる同母姉大伯皇女への追慕によりて鎭魂せられたる皇子なり。 折口の中將姫を登場させたるは韜晦にてはなからむか。かくのごとき幼時の異常なる關係より自己の男性性との葛藤をおこし、去勢恐怖、さらには姉との同一化おこり、その結果異性愛が封じられ、これが後年の彼の女性恐怖、同性愛的傾向の發展につながるものと精神分析的に解釋釋すること可能なり。

※「わが御姉 ミアネ 、 我を助けて、かき出でよ、汝が胸乳 ムナヂ 、あはれわれ、死ぬばかり、いと戀し、汝が生肌 イキハダ 」(「すさのを」) も、ネット上では飯田氏以外の引用はない。


【兩親より遺棄】
いづれにせよ幼年時代の信夫は、兩親よりいはば遺棄され、しかもそれを被虐的に自己に關係づけたれば、兩親との對象關係正常に發展せず、ために生に對する信頼感が弱く、 生命否定的となり、男性としての十分なる性的同一性を確立することのできなかりしことは疑ひなき事實なれば、これが彼の分裂氣質的人格の形成、恐怖症の發展を促し、同時に信夫を同性愛に導く要因となりたることは確實なり。


【被害者意識】
晩年の信夫と起居を共にせる加藤守雄の『わが師折口信夫』岡野弘彦の『折口信夫の晩年』を讀むに、信夫の人柄、日常生活には、われわれ精神科醫が興味そそらせらるる部分、少なからず。

加藤は信夫の人間的印象につき次のごとく記す。「一オクターブ高き聲、なで肩にて丸味 ある體つき、いんぎんなる物腰、自己愛的、女性的なり」「氣性はげしく我が儘なる性格、惡 意ある批評や自分を傷つけむとせる言論には痛烈に反撥、反應過敏にて被害者意識つよく、先生が怒りは、不當にいためつけられたる自我を囘復せむがための闘ひ」「電話のベルにて過敏に怖る。相手の正體のわかるまで安心できず」。これらの記述より推察しうる信夫は、過敏、自己愛的、人間不信的、被害的傾向を有する分裂氣質に屬する人と言ひえむ。


【極度の潔癖・女性恐怖・饑餓恐怖・極端な刺激物嗜好】
彼の日常生活にはかなりの奇行目につく。その第一は極度に潔癖なることにて、書庫や部屋の埃を嫌ひ、他人の手が觸れたる襖、障子の把手は着物の袖にて摑み、電車の吊皮を持つときは手袋やハンチングを使ふなど直接自分の手にては觸れず(岡野)、フライパンをクレオソートにて消毒し、手に觸るるものはアルコール綿にて拭く(加藤)など、不潔恐怖の症状とも見られむ。

第二は女性恐怖にて、恐らく此が第一の不潔恐怖の原型と考へ得るものにて、女性を不潔視し、身邊にはほとんど女性を近づけず、食事は女性に作らせず、妻帶者の弟子の入りたる風呂には入らず、電車、バスの中にて女性の髮の毛觸るれば、すさまじき嫌惡感を示せり(岡野)。信夫の恐怖覺えざる女性は、親族の他はおそらく身邊にありし老婢、あるいは 「神の嫁」としての巫女的なる役割にとどまりをりたる女性ならむ。

第三は饑餓恐怖とも稱せらるゝ一種の貯藏癖にて、戰爭末期より戰後にかけての時期、護符の如くに硼砂入りの四斗の米を貯へをりたり。他人より贈られたる果物などは腐敗せるものも捨てずにとりおきて、奇妙なる果實酒を作るなど致したり(岡野)。

第四は刺戟物に對する極端なる嗜好にて、三十種にも及ぶ茶を常備し、ジンジャーエール、 コーヒーを好みたり。齒磨きは薄荷、樟腦、クレゾールなどを加へたる自家製のものを用ゐ、 ロートエキスの錠劑を愛用し、息の詰らむばかりのユーカリ油をマスクに垂らすこともありたり。 子供の頃には樟腦を齧りしことありたると言ふ。その極點に當れるはコカインに對する嗜癖 にて、大正末期より昭和初年にかけてはかなり濫用し、その結果晩年にはほとんど嗅覺失はれたり(岡野)。因に彼が旅行の際には愛弟子の誰かを同行したる他、必ず數種の茶、胃 腸藥、アルコール綿を携行したり(岡野)。

…………

この飯田氏の叙述を全面的に信頼するわけではない。とはいえ里子の外傷的記憶や父母からの疎外感は間違いないだろう。「追悲荒年歌」の《家荒れて 喰ふものはなし》、《腹へりて 我も居にけり。/頻々シクヽヽに いたむ腹かも》等も直接に後年の饑餓恐怖に繋がる。かつまた、姉あいを『死者の書』における藤原南家の郎女(中將姫)と関連付けようとする記述も、なぜ同性愛者かつ女性嫌悪であった折口があんなに憧憬的に女を書きえたのか、という問いのすくなくともひとつの解釈として読める(あくまでひとつの解釈であり、たとえばプルーストのアルベルチーヌ=アゴスチネリの例をあげての反論もあるだろう)。

――待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き聲だつた氣がする。――をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉體と一つに、おれの心は、急に締めあげられるやうな刹那を、通つた氣がした。…

をゝさうだ。伊勢の國に居られる貴い巫女――おれの姉御。あのお人が、おれを呼び活けに來てゐる。(折口信夫『死者の書』)

折口は鴎外よりも漱石を格段に好んだ。

漱石居士……此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年ーー血みどろになつた處

この評価は、養子に出された漱石との同一化の影響もあるはずである。同一化とは対象のなかのたった一つの徴だけで起こる。

《同一化は…対象人物の一つの特色 (「一の徴」einzigen Zug)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。》(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)