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2017年6月14日水曜日

究極のフェミニスト、ニーチェ

究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne であり、《われわれに対して世界が現われてくる仕方の中にある質的差異 différence qualitative、もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異》(プルースト)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

究極の絶対的差異とは、内的差異である。それはまた純粋差異とも呼ばれる。

永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋差異 la pure différence の世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

もちろんここでリトルネロという語を出してもよい。

ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。

Rappelons-nous l'idée de Nietzsche : l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle, mais qui capture les forces muettes et impensables du Cosmos.(ミラ・プラトー、1980年)

詳しくは、 愛の享楽回帰(リトルネロ)を見ていただくことにして、今、話題にしたいのは、仮象ー歌唱の詩人ニーチェの「最小の裂目 die kleinste Kluft」である。

言葉と音調があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。

それぞれの魂は、それぞれ別の世界をもっている。それぞれの魂にとって、他の魂はみな一つの背後世界 Hinterweltである。

最も似かよっているものどうしのあいだにかかっているとき、仮象 Schein は、たとえいつわりにせよ、最も美しい。わたしがそう言うのは、最小の裂目 die kleinste Kluft は、最も橋をかけにくいものであるから。

わたしにとってはーーどうしてわたしの外Ausser-mir というものがありえよう。外 Aussen というものは存在しないのだ。しかし、音調を聞くたびに、わたしはそのことを忘れる。忘れるということは、なんとよいことだろう。

事物に名と音調が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音声を発してことばを語るということは、美しい狂宴である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部)

ニーチェは第三部の前年に書かれた第二部でも「最小の裂目」と口に出している。

わたしの手は与えつづけて休むことがない、それがわたしの貧しさだ。どこを見てもわたしの目にうつるのは、待ちうける目と、あかりをともした憧れの寄るばかり。それがわたしの妬みだ。

おお、与える者のふしあわせ。わが太陽の憂鬱。欲しがることへの憧れ。飽満のなかの激しい飢え。

かれらはわたしから受ける。だがわたしはかれらの魂に触れることができるだろうか。与えることと受けること、そのあいだには一つの裂け目がある。そして最小の裂目 die kleinste Kluft こそ、いちばん橋をかけることはむずかしい。

わたしの美しさのなかから飢えが生まれる。わたしが光を与えている者たちに、わたしは痛みを加えてやりたい。わたしが贈り物を与えた者たちから、わたしは奪いたい。ーーこういうふうにわたしは悪意に飢える。(ニーチェ『夜の歌 Das Nachtlied』『ツァラトゥストラ』第二部)

だが、これは第三部で花開いたのである。そして1887年には大輪の花となる。

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象 Schein を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ『悦ばしき知』序文4番ーー1887年追加)

《思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどま》り、《仮象 Schein を崇める》のは女であることはよく知られている。

女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971ーー真理は女である。ゆえに存在しない)

人は《女の最大の関心事は見せかけ Schein》 なのを知らないわけではあるまい?

女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は嘘をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさである。

われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。(『善悪の彼岸』232番、1886年)

 したがって、人は女へと生成変化しなくてはならない。それがギリシャ人になることの真の意味である。

人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)

なぜ真のフェミニストであるニーチェが、アンチフェミニストと称されるのだろうか。ニーチェが究極のフェミニストであるのは、あまりにもあきらかなのに。

女が男の徳をもっているなら、逃げだすがよい。また、男の徳をもっていないなら、女自身が逃げだす。(『偶像の黄昏』「箴言と矢」28番、1888年)

ニーチェは男の徳をもっている女たちを嘲弄しただけである。

……「男性」に戦いをいどむ、と言っているのは、つねに手段、口実、戦術にすぎぬ。彼女らは、自分たちを「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」に引き上げることによって、女の一般的な位階を引き下げようとしている存在だ。それをなしうる最も確実な手段は、高等教育、男まがいのズボン、やじ馬的参政権である。つまるところ、解放された女性とは、「永遠の女性」の世界における無政府主義者、復讐の本能を心の奥底にひめている出来そこないにほかならない。 (ニーチェ『この人を見よ』1888年)

そもそも女性性とは「純粋差異」そのものであり、どんな概念化をも拒む「最小の裂目」である。これがニーチェあるいはラカンの言っていることである。ニーチェにとって詩人あるいはギリシャ人とは、解剖的には男性であっても、女性である。すくなくとも構造主義やラカンの反哲学的思考を経た21世紀人である我々はそう読まねばならない。

ラカンにとって女とは何だろうか? …解剖学的観点からの女の問題ではない。そうではなく、シニフィアンとしての象徴的意味作用における女の問題である。難題は、我々はしばしばイマジネールな女の意味に囚われたままであることだ。結果として、具象的な女のイメージから逃れえず、論理内での場の観点における女を考えることができないでいる。

ラカンは性別化の式で女をLⱥ Femme と書いている。つまり女とはシニフィアンであり、中身はない。(Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF

敢えてあまり知られていない女流ラカン派 Liora Goder の文を掲げたが、この認識が決定的である。シニフィアン、それは「見せかけ semblant」のことであり、ニーチェ用語では「仮象 Schein」のことである。《見せかけ、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! 》(Lacan,S18, 13 Janvier 1971) 
 
私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものが、大他者はない、すなわちS(Ⱥ)というシニフィアンである限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)

さらにーーこのところくり返して引用しているがーー次の二文を並べておこう。

わたしにとって今や「仮象」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。 Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
真理は見せかけの対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

人はニーチェからラカンを読んでもよい。ラカンからニーチェを読んでもよい。もちろんどちらか一方を徹底的に読み込む方法もあるだろう。だがどのやり方もなしで、いまだ《イマジネールな女の意味に囚われたまま》であるのは、いかんとも許容しがたい。

真理は女である。die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)
女というものは男(人間)の真理である la femme soit la vérité de l'homme(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

だがなぜ仮象(仮面)あるいは見せかけであることが真理なのであろうか。 これについては長々とした記述が必要であるが、ここでは詳細は割愛する(参照:性別化と四つの言説における「非全体」)。

簡潔に言ってしまえば、仮象に徹することによって象徴界の非一貫性(非全体pas-tout)が現われる、すなわち最小の裂目(純粋差異)に遭遇し得る(例外なしの論理・無限判断)。これをラカンは、見せかけに穴を開けることと言った。

見せかけのなかに穴を開けることが現実界である。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

他方、仮象(仮面)の裏には、なにか隠された真理があるとする態度においては、象徴界は安定してしまう(例外の論理・否定判断)。ゆえに最小の裂目に出会えない。この後者の態度を取ってしまっているのが、構造的な意味での「男」である。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

上のニーチェのような態度、たとえばロラン・バルトのように、仮面の下には何もないと考える人間が、構造的な意味での「女」である。

シーニュとは裂けめでありそれを開いてもべつのシーニュの顔がみえるだけである Le signe est une fracture qui ne s'ouvre jamais que sur le visage d'un autre signe(ロラン・バルト『記号の国』(シーニュの帝国 L'Empire des signes)

もちろんバルトだけではなく、ドゥルーズや小林秀雄も、すくなくともある相で「女」になることを希求した、としなければならない。

仮面は、他の仮面以外には、何も隠していない。反復される最初の項はない。Les masques ne recouvrent rien, sauf d'autres masques. Il n'y a pas de premier terme qui soit répété(ドゥルーズ『差異と反復』)
仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚きながら、何処へ行くのかも知らず、近代文明というものは駆け出したらしい。(小林秀雄「当麻」)

ドゥルーズがとりあげたプルーストの表現、《 十人のアルベルチーヌ dix Albertines 》、《密封した千の瓶 mille vases clos 》、《小さな差異 petites différences》、《最小の変化 minimum de variété》等々、さらにこれらを洗練させて《純粋多様体 multiplicité pure》と呼んだものは、すべてニーチェの《最小の裂目 die kleinste Kluft》にかかわる。

それぞれの愛は、それ自体でセリーのひとつのかたちを借りている。ふたつの愛の間には見出される小さな差異 petites différences と、対立関係とを、われわれはすでに同一の愛の中に発見している。たとえばアルベルチーヌへの愛と、もうひとつの愛である。なぜならば、アルベルチーヌは、数多くの魂と、数多くの顔を持っているからである。確かに、それらの顔と魂は、同じ面の上にはなく、セリーを構成している。(対立の法則によれば、《最小の変化 le minimum de variété は…ふたつである。われわれは精力的な一瞥、大胆な態度で思い出すのであるが、次に出会ったときに驚き、ほとんど独自の仕方で衝撃を受けるのは、どうしても次の機会に、ほとんどやつれたような横顔、一種の夢見るような甘さ、つまり、その前の思い出の中では無視されていたものによってである。》(プルースト)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

そしてラカンはこれらをY'a d'l'Un(一のようなものがある )と呼んだ。

純粋差異としての「一」は、要素概念と区別されるものである。L'1 en tant que différence pure est ce qui distingue la notion de l'élément.(S19,17 Mai 1972)