「ひとつの生」une vie のほうが、「生というもの 」 la vie よりも重要であり、「ひとつの死」une mort のほうが「死というもの」 la mortよりも重要だというところなど、ドゥルーズはゴダールといちばん感性が響き合っているなと思いますね。ゴダールが不定冠詞についてほとんど同じことを言っている。《Une femme mariée》という映画があって、そこを《La femme mariée》にするかしないかをめぐって検閲でもめたときに、彼は《Une femme mariée》にしちゃった。そのほうが広いのだ、と。(蓮實重彦、共同討議「ドゥルーズと哲学」批評空間1996Ⅱ―9[ポジとネガ])
ひとりの女がいる。ひとつの生が、ひとつの死がある。
とすれば男というものは存在するのだろうか?
「女というものは存在しない」という命題を受け入れるなら、スラヴォイ・ジジェクが言うように、男というものの定義は次のようなものになる――男は「自分が存在すると信じている女である」。( アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』)
なぜ男というものは、自分が存在すると信じているのだろうか?
ーーオチンチンがわるいのである!
子供が生まれた瞬間にーーいや現在では胎児のうちからエコーでーーオチンチンの有無をまっさきに探りだし、「あ、男の子だわ、女の子だわ!」と選別する人間たちがわるいのである!
この人間の悪癖を根絶せねばならぬ!!
真のフェミニスト蚊居肢散人はそう宣言する!!!
とはいえ究極的には言語の使用を廃止すべきではなかろうか(概念という人間のパートナー)。
言語はレトリック Die Sprache ist Rhetorikである。というのは、 言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである。(Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen 講義録(WS 1871/72 – WS 1874/75)
だが蚊居肢散人はこの宣言をするためにさえ、言語を使用している・・・
なんたる男根主義者! 忸怩たらざることを得ない。
象徴秩序はまたファルス的秩序と呼ばれる。ファルス的秩序は、ファルス関数に従属している。ファルス関数が、私たちの世界の概念・社会秩序・性的ポジションを構成する。本能的な性的方向付け・男女の性的ポジションとしての両性の自然な刻印の不在という人間の宿命のなか、私たちはファルスに関するセクシャリティ内部でのみ私たち自身を位置づけうる。ファルス関数に依拠することなしでは両性の刻印のどんな可能性もない。(Liora Goder、What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan?ーーファルス秩序から逃れるための十か条)
なにはともあれ《真理は女である。die wahrheit ein weib 》(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年)
これだけは繰り返し強調せねばならぬ(参照:真理は女である。ゆえに存在しない)。