このブログを検索

2017年5月30日火曜日

眼差しとしてのプンクトゥム

以下、「染みとプンクトゥム」のヴァリエーションである。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 (ラカン、S11)

(ジジェク、パララックス・ヴュ―、英文より

ここでジジェクは「対象以上の対象のなか in the object more than object itself」と鉤括弧付きで言っているが、このフレーズ自体はラカンにはない。だがもちろん、《あなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a)》(S11)のパラフレーズである。

つまり(究極的には)人物としての「対象」だけでなく、すべての対象(芸術作品、書物、風景等)には眼差しが染みとして書き込まれている、と言っていることになる。これがラカンの対象a の定義の一つの「絵のなかのシミ tache dans le tableau」の意味である。《 il se fait tache, il se fait tableau, il s'inscrit dans le tableau》 (S11)

この文脈において(何人かの)ラカン派は、《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 というラカン文を、ニーチェの次の文と「ともに」読む習慣がある。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。(ニーチェ『善悪の彼岸』146節)

ロラン・バルトによる《盲点(目に見えない染み la tache aveugle )》という表現も、ラカンの「絵のなかのシミ tache dans le tableau」に重要な起源のひとつがある。

作家はいつもシステムの盲点(システムの目に見えない染み la tache aveugle des systèmes )にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge、つまり、(『テクストの快楽』1973年)
私は、私の中を通り過ぎて行くシンボル系とイデオロギー系列を、《そういうものとして》は舞台上に(テクストに)演出して見せることができない。というもの、私自身がそれらの残す盲点(目に見えない染み la tache aveugle )だからだ。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

したがってバルトの遺作のプンクトゥム概念ーー「小さなシミ petite tache」がその特徴の一つである--は、ラカンの「絵のなかのシミ tache dans le tableau」=「眼差しregard」を(少なくとも)想起しつつ読むと、多くのことが鮮明になる。

プンクトゥム punctum とは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さなシミ petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことでもありーーしかもまた、骰子の一振りcoup de dés のことでもある…。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺すme point 偶然 hasard (それだけなく、私にあざをつけme meurtrit、私の胸をしめつけるme poigne)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章)
プンクトゥム punctum は…この写真に、ある見えない場 un champ aveugle を与えている…

プンクトゥムは、そのとき、一種の微妙な場外 hors champ subtil となり、イマージュは、それが示しているものの彼方に、欲望を向かわせるようになる。(『明るい部屋』第23章)

事実、バルトは『明るい部屋』の末尾近くの章で、「眼差し」をめぐって次のように記している。

「写真」には、私の目をまともに眼差す me regarder droit dans les yeux 能力がある(……)。

写真の眼差し regard には何か逆説的なところがあるが、ときにはそれが実人生においても起こることがある。

先日、一人の若者が、喫茶店で、連れもなく店内を見まわしていた。彼の眼差し regard はときどき私の上にそそがれた。そこで私は、彼が私を眼差している me regardait という確信をもったが、しかし彼が私を見ている me voyait かどうかは確かでなかった。それは考えられないような不整合であった。どうして見ることなしに眼差す regarder sans voir ことができるのか?

「写真」は注意 attention を知覚 perception から切り離し、知覚をともわない注意はありえないのに、ただ注意だけを向けるかのようである。それは道理に反することだが、ノエマのないノエシス noèse sans noème、思考内容のない思考作用 acte de pensée sans pensée、標的のない照準 visée sans cible である。(ロラン・バルト『明るい部屋』第46章)

この文はまずラカンの次の文とともに読みうる(眼差しとはサルトル起源でもあるが[参照])。

…眼差し regard は、例えば、誰かの目を見る je vois ses yeux というようなことを決して同じではない。私が目 yeux すら、姿 apparence すら見ていない ne vois pas 誰かによって自分が眼差されていると感じる me sentir regardé こともある。なにものかがそこにいるかもしれない ことを私に示す何かがあればそれで十分である。

例えば、この窓、あたりが暗くて、その後ろに誰かがいると 私が思うだけの理由があれば、その窓はその時すでに眼差しregard である。こういう眼差しが現れるやいなや、私が自分が他者の眼差しにとっての対象になっていると感じる、という意味で、私はすでに前とは違うものになっている。(ラカン、セミネールⅠ、02 Juin 1954)
視野においてはすべてが、二律背反的な二つの項がある。

①物 choses の側には眼差し regard がある。すなわち、物が私を眼差す regardent。
②私にはそれらの物が見える voir。

聖書においてしきりに強調される、《彼らは、見えないかもしれない眼をもっている Ils ont des yeux pour ne pas voir》という言葉は、この意味で理解されなければならない。

何が見えないかもしれないのか Pour ne pas voir quoi ? それはまさしく、物が私を眼差している les choses me regardent ことである。(ラカン、S11、11 mars 1964)

…………

冒頭に掲げたジジェクの叙述は、初期ジジェクからの繰返しである。彼は再三繰り返しているのは、いまだラカン的な「眼差し」が理解されていないからだろう。一般に「眼差し」と言われるとき、人はいまだデリダ的な眼差しを想起する。だがロラン・バルトの眼差しは上に見たようにデリダ的なものではない(デリダの実際がどうであるかは、わたくしは知らない。巷間で語られる「デリダ的」=下部構造的なものをここでは指示している)。

現代思想に精通している読者は、おそらく「眼差し」や「声」を、デリダ的な脱構築作業の第一の標的とみなす傾向があるに違いない。眼差しとは、「物自体」をその形式の現前の中で、あるいはその現前の形式の中で捉えるテオリアでなくして何であろう。声とは、話す主体の、それ自体-への-現前を可能にする純粋な「自己作用」の媒体でなくして何であろう。声とは、話す主体の、それ自体-への-現前 presence- to-itself を可能にする純粋な「自己作用 auto-affection」の媒体でなくして何であろう。「脱構築」の目的は、ほかでもない、眼差しが常に‐既に「下部構造」のネットワークによって決定されていることを暴露して見せることである。何が見え、何が見えないか、その境界を設定するのはそのネットワークである。見えないということはつまり、眼差し――「自己反省的」再専有によっては説明できない縁〔マージン〕あるいは枠――による捕獲から必然的に逃れるもののことである。それと同様に、脱構築は、声の自己現前が常に‐既に書記 writing の痕跡によって引き裂かれ/引き延ばされていることを暴露する。

しかしここで、われわれが注目しなければならないのは、ポスト構造主義的脱構築とラカンの間には何の共通点もないことである。ラカンは眼差しと声の機能を脱構築とはほとんど正反対の方法で説明する。ラカンにとって眼差しと声の対象は、主体の側ではなく対象の側にある。眼差しは、対象の中の(絵の中の)ある一点に刻印を押す。対象を見つめている主体は、すでにその点から見つめられている。つまり対象が私を見つめているのである。眼差しは、主体とその視野の自己現前を保証するどころか、絵の中の染み・汚点として機能する。その染みは明白な可視性を侵害し、私と絵との関係に、埋めることのできない亀裂を導入する。絵が私を見つめている点からは、私は絵を見ることができない。つまり、目と眼差しとは本質的に非対称的なのである。対象としての眼差しは染みであり、その染みが、私が安全で「客観的な」距離から絵を見ることを阻止し、私はその絵を自分の眼差ししだいでどうにでもなるようなものとして枠取りすることを妨害する。眼差しとは、いわば、(私の眼差しの)枠がすでに絵の「内容」の中に書き込まれているような点である。そして、このことはもちろん、対象としての声についてもあてはまる。声はーーたとえば特定の発声者に付属せずに私に語りかけてくる超自我の声はーーやはり一つの染みとして機能し、その染みは目立たない形で現前することによって、「異物」として介入し、私が自己同一性を確立するのを邪魔する。(ジジェク『斜めから見る』1991年)

ジジェクの21世紀に入ってからの真骨頂はもはやこの「基本」ではなく、たとえば次のような指摘にある(もちろんこれはカント派あるいはドゥルーズ派からの異論があるだろう)。

……対象a はカントの超越論的対象 transcendental object に近似している。なぜなら、対象a は「知られていないX」、仮象の彼方の対象の「ヌーメノンNoumenon」的核を表すから。それは《あなたのなかにあるあなた以上のもの quelque chose en toi plus que toi》である。

したがって対象a は、純粋視差対象 pure parallax objectとして定義される。…さらに厳密に言えば、対象a は、視差の裂目 parallax gapの「原因」である。

ここでのパラドクスは厳密なものである。まさにこの点にて、純粋差異が現れる。差異はもはや「二つの可能的に存在する対象 two positively existing objects」のあいだの差異ではない。そうではなく「「一」とそれ自体からの同じ対象を分割する divides one and the same object from itself」差異である。この差異「それ自体」は即座に測り知れない unfathomable 対象と一致する。

諸対象の間の単なる差異とは対照的に、純粋差異はそれ自体、対象である。(パララックス・ヴュー、原文


2012年のLESS THAN NOTHINGではこの考え方をまたしてもニーチェの次の文と結びつけている(たぶんジュパンチッチのニーチェ論起源だろうが)。

正午にそれは起こった。「一」は「二」となったのである。Um Mittag war's, da wurde Eins zu Zwei...(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年「高き山々の頂きから Aus hohen Bergen」)

 …………

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

対象aをめぐる記述をいくらか列挙しておこう。

対象aは穴である l'objet(a), c'est le trou( Lacan, S16, 27 Novembre 1968)
私は欲動の現実界 réel pulsionnel を穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動 la pulsionを特徴づけたことを。(Lacan, à Strasbourg le 26 janvier 1975 en réponse à une question de Marcel Ritter
我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。それは唯一、コルク栓(穴埋め bouchon)としてのみ現れる。このコルク栓は不可能の用語にて支えられている。我々が現実界について知っている僅かなことは、すべて本当らしさへのアンチノミーを示している。(Lacan、1976 AE.573)

ーー現実界には、《欠如が欠けている le manque vient à manquer》(Lacan,S.10)

欠如 manque とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴 trou はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

…………

※付記1

ジジェクの対象a=視差=純粋差異=超越論的対象の議論は、柄谷行人からの直接的影響である。

物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。

カントがアンチノミーを提示するのは、必ずしもそう明示したところだけではない。たとえば、彼はデカルトのように「同一的自己」と考えることを、「純粋理性の誤謬真理」と呼んでいる。しかし、実際には、デカルトの「同一的自己はある」というテーゼと、ヒュームの「同一的自己はない」というアンチテーゼがアンチノミーをなすのであり、カントはその解決として「超越論的主観X」をもちだしたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

もちろんラカンを素直に読めば当然そうなるのである。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 (ロレンツォ・キエーザ、 Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)

柄谷行人の超越論的主観をめぐる他の叙述は、「固有名とマナ(柄谷行人とラカン派)」を見よ。

…………

※付記2

ここでは眼差しとしてのプンクトゥムをめぐって記したが、プンクトゥムをめぐる核心はやはり次の文である(参照:純粋過去の切片としてのプンクトゥム)。

ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した dont pour la première fois je retrouvais dans un souvenir involontaire et complet la réalité vivante 》のである。(ロラン・バルト『明るい部屋』第28章「温室の写真 La Photographie du Jardin d’Hiver」)

以下、この文が核心でありうる根拠となるいくつかの文を列挙しておこう(バルト自身とドゥルーズから)。

ある種の写真に私がいだく愛着について(……)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム le studium)と、ときおりその場を横切り traverser ce champ やって来るあの思いがけない縞模様 zébrure とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥム le punctum と呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕 stigmate》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度 intensité という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間 le Temps」である。「写真」のノエマ(《それは = かつて = あった ça-a-été》)の悲痛な強調であり、その純粋表象 représentation pure である。(『明るい部屋』第32章)

このようにバルトが書くとき、プルーストの熱心な読者であった彼が《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》のことを想起していないわけがないのである。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur ・過去の即自存在 l'être en soi du passé・時のエロス的統合 synthèse érotique du temps である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかの回帰の永遠性l'éternité du retour dans le tempsへと導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』)
マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいかたち forme absolument nouvelle になっている。

コンブレーは、かつて現在 été présent であったような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。

それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、意志的記憶の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、リアリティréalité においてではなく、その真理において現われる。コンブレーは、純粋過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現在の意志的記憶と過去の意識的知覚の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur》である。つまりそれは、現在と過去、現勢的もの actuel である現在と、かつて現在であった過去との単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを越えて、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い、過去の即自存在 l'être en soi du passé である。《純粋状態にあるわずかな時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、「局在化した時間の本質 l'essence du temps localisée」である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)