子どもを叱っている最中の母が電話に出た知人の女性にまったく別個の音調で「あーら、奥様」とやりだすのは子どもにとって恐怖に近い瞠目体験である。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」)
吉岡実は《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》と書いているが、鷭の声になったはずの女の声がさらに家鴨の声に変化してしまうのである・・・それともあれはどちらも一羽の牝鶏の声だったのだろうか。
coquet という語がある。この語は coq から来ていて、一羽の雄鶏が数羽の牝鶏に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的」を意味する。(九鬼周造「「いき」の構造.」)
ーーこの文は人間の場合、 《一羽の牝鶏が数羽の雄鶏に取巻かれている》としなければならない。
「それはともかく、電車の中でいろいろなことを学んだよ。女の怖ろしさの片鱗も、最初に知ったのは電車の中だ。夏だった。三十くらいの人妻とおもえる女でね、丁度きのうのように、電車は空いていたが、並んで窓に向いて立って、触っていた。ブラウスの胸がしだいに盛り上がってきた。電車が停って、三人の乗客が入ってきた。そのうちの一人に、その女と知り合いの女がいたんだな。同年配の女だ。どういう具合になるかみていると、今まで乱れていた呼吸がすうっとおさまって、いかにも親しげで同時に儀礼的な挨拶を換しはじめた。顔色も態度も少しも乱れたところがない。こわいとおもったね」(吉行淳之介『砂の上の植物群』)
人は次の文も上に記した観点から読まねばならない。
……「肝心のとこがもう一つけけん。そやけどよく唸りはる女や」
スブやん、情けなく溜息をつけば、伴的はなぐさめるように、「京都の染物屋の二号はんや、週に二へんくらい旦つく来よんねん、丁度この二階やろ、始ったら天井ギイギイいうよってすぐわかるわ、もうええ年したおっさんやけど、達者なもんやで」
ちょいまち、とズブやん大形に手を上げ伴的をとめる、女がしゃべったのだ。
ーーあんた、御飯食べていくやろ、味噌汁つくろか。
男はモゾモゾと応え、ききとれぬ。と、突拍子もない声がズブやんの鼓膜にとびこんできた。
ーーお豆腐屋さん! うっとこもらうよオ。
男再び何事かしゃべり、女おかしそうに笑う。やがてドタドタとアパートの階段を乱暴にかけ上る音。ドアのノック、咳ばらい。
ーーそこに置いといて頂戴、入れもんとお金は夕方に一緒でええやろ、すまんなア。
しば静寂の後、再び床板きしみ女は唸り、ズブやんあっけにとられるのを、伴的ひと膝にじりよって、「やっとる最中に飯のお菜たのみよったんや、ええ面の皮やで豆腐屋も」(野坂昭如『エロ事師たち』)
こうして家鴨の声はふたたび、鷭の声に回帰するのである。
ーー湯豆腐やいのちのはてのうすあかり (久保田萬太郞)