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2015年12月17日木曜日

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

ベッドに縛りつけられると、荷風に手が伸びる。漱石でも鴎外でもなく、荷風がわたくしにはいい。青空文庫にある作品をiPadを腹の上に載せて読む。

断腸亭日記は大正六年から始まる、荷風歳卅九歳である。

十一月三十日。この頃小蕪味ひよし。自ら料理して夕餉を食す。今朝肴屋の半台にあなごと海鼠とを見たり。不図思出せば廿一二歳の頃、吉原河内楼へ通ひし帰途、上野の忍川にて朝飯くらふ時必ずあなごの蒲焼を命じたり。今はかくの如き腥臭くして油濃きものは箸つける気もせず。豆腐の柔にして暖きがよし。夜明月皎皎たり。

三九歳でこんなことを記している荷風は、なぜ晩年カツ丼ばかり喰っていたのだろう。とはいえ、なんとも不思議だ、ーーと不粋に言いはなってしまうほどではなく、最近ではそれなりに荷風の心境がわからないわけでもないつもりになっている。

ぼくがお金をためているって、ケチだとかなんとか、言っているそうですが、ぼくがお金をためているからこそ、戦時中、10年間1枚もの原稿も売れず、一文の印税収入もない時代、 僕は他人に頭1つ下げないで、思い通りの生活ができました。いまは平和です。平和の声 の裏には戦争がありません。それは紙一重のものなんですよ。だから、作品が売れる時は、 売れるだけの貯金をしておきます。人間の一生には浮き沈みということがあります。(永井荷風

ところで、〈あなた〉は《ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない》タイプかい?

どうもオレはいけない、ウニにもコノワタにもお世話になりたいタイプだ。

すききらひを押し通すにも、油斷はいのちとりのやうである。好むものではないすしの、ふだん手を出さうともしないなんとか貝なんぞと、いかにその場の行きがかりとはいへ、ウソにも附合はうといふ愛嬌を見せることはなかつた。いいや、いただきません、きらひです。それで立派に通つたものを、うかうかと……このひとにして、魔がさしたといふのだらう。ぽつくり、じつにあつけなく、わたしにとつてはただ一人の同鄕淺草の先輩、久保田萬太郞は地上から消えた。どうしたんです、久保田さん。久保勘さんのむすこさんの、ぶしつけながら、久保万さん。御當人のちかごろの句に、湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。その豆腐に、これもお好みのトンカツ一丁。酒はけつかうそれでいける。もとより仕事はいける。ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない。元來さういふ氣合のひとであつた。この氣合すなわちエネルギーの使ひ方はハイカラといふものである。(石川淳「わが万太郎」『夷齋小識』所收)




久保田萬太郞の死因は、梅原龍三郎邸にて設けられた宴席で赤貝のにぎり寿司を勧められて、ーー日頃は噛みにくい赤貝は口にしなかったのだがーー気を遣い断らずに赤貝を口に入れての窒息死だ。わたくしは赤貝も大好物なのだが、当地では稚貝しか手に入らずかつまた衛生上やや不安なので(ただしひどく安価で手に入る、蛤のほうが高価なくらいだ)、火をいくらか通して食すことにしている。最近は天ぷらなどにもする、「赤貝やころものはてのちぢこまり」。




少年時代、隣りに住んでいた母方の叔父がしばしばなまこを大量に購入してみずから調理し、このわたを大量に桶に入れてその薫りにうっとりしながら、家族一同で(子供や女性軍は炊きたてのごはんにのせて、男性軍は日本酒とともに)食す習慣があった。同時に作られるなまこ酢はむしろ副産物のようなものだった。




小な汚しい桶のままに海鼠腸が載っている。小皿の上に三片ばかり赤味がかった松脂見たようなもののあるのは鱲である。千住の名産寒鮒の雀焼に川海老の串焼と今戸名物の甘い甘い柚味噌は、お茶漬の時お妾が大好物のなくてはならぬ品物である。

先生は汚らしい桶の蓋を静に取って、下痢した人糞のような色を呈した海鼠の腸をば、杉箸の先ですくい上げると長く糸のようにつながって、なかなか切れないのを、気長に幾度となくすくっては落し、落してはまたすくい上げて、丁度好加減の長さになるのを待って、傍の小皿に移し、再び丁寧に蓋をした後、やや暫くの間は口をも付けずに唯恍惚として荒海の磯臭い薫りをのみかいでいた。

先生は海鼠腸のこの匂といい色といいまたその汚しい桶といい、凡て何らの修飾をも調理をも出来得るかぎりの人為的技巧を加味せざる(少くとも表示せざる)天然野生の粗暴が陶器漆器などの食器に盛れている料理の真中に出しゃばって、茲に何ともいえない大胆な意外な不調和を見せている処に、いわゆる雅致と称る極めてパラドックサルな美感の満足を感じて止まなかったからである。

由来この種の雅致は或一派の愛国主義者をして断言せしむれば、日本人独特固有の趣味とまで解釈されている位で、室内装飾の一例を以てしても、床柱には必ず皮のついたままの天然木を用いたり花を活けるに切り放した青竹の筒を以てするなどは、珍々先生はこんな事を考えるのでもなく考えながら、多年の食道楽のために病的過敏となった舌の先で、苦味いとも辛いとも酸いとも、到底一言ではいい現し方のないこの奇妙な食物の味を吟味して楽しむにつけ、国の東西時の古今を論ぜず文明の極致に沈湎した人間は、是非にもこういう食物を愛好するようになってしまわなければならぬ。(永井荷風『妾宅』)

これも荷風の食道楽を示すのではなく、風流ぶりを気取っていると読めないでもない。それでなかったら晩年カツ丼ばかりなどということがありうるだろうか。

わたくしの今回の痛風症状の発作もじつはーーこのわたはまったく手に入らない土地だがーー、なんとか似たものを喰いたいと思い、イカ墨が大量にとれる種類のイカをすこし大目に購入して(ふだんはイカ墨スパゲッティかリゾットを作る)、塩からを作り(いくらか赤貝の稚貝を混ぜて)、友を招いて酒を半日ほど飲んだせいだ(友がスッポンを持って来て捌き、日本酒をドバドバ入れた鍋にして、同時に食べたのもよくなかった・・・)。

ところで京都の大市のすっぽん鍋をゴゾンジだろうか? すっぽん鍋はあのようにシンプルにかぎる。



スッポンやいのちの腫れの場処ちがひ、--と記したところで、この数日の読書でエリティスの美しい詩句に出会ったことを思い出した。

きみは思うな、骨まで青く染める今ひとたびの夏を(中井久夫訳)

とすれば、これも変奏しておこう、「きみは思うな、骨まで赤く腫らす今ひとたびの海鼠腸まがいを」

…………

私は物語を書き終えたノートブックを閉じ、それを内ポケットに入れた。で、ポルチュゲーズ牡蠣を一ダースと、その店にある辛口の白ぶどう酒を水さし半杯分もってくるよう、ウェイターにたのんだ。物語を書いたあとは、まるで愛の行為をしたときのように、いつも空虚な感じがし、悲しいような楽しいような気持になるのだった。そしてこれがとても良い物語だということを確信した。どのくらい良いものかは、その次の日にそれを読み返すまでは、ほんとうにはわからないだろうが。

牡蠣は強い海のにおいとかすかな金属の味がしたが、冷たい白ぶどう酒はそれを洗い流して、あとにただ海の味と汁気を残した。私はその牡蠣を食べ、一つ一つの貝殻から冷たい汁を飲み、さわやかな味のぶどう酒で、それを流し込んだ。そうしていると空虚な感じが消え、楽しくなって、こえからの計画を立て始めた。(ヘミングウェイ『移動祝祭日―回想のパリ』福田陸太郎訳)



 ーーああ、なんとすてきな文章だろう。ひとは雑誌や作家のエッセイなどで、この文の変奏ーー牡蠣と辛口の白ワイン(たとえばシャブリ)をめぐる--に何度も遭遇して、小粋な料理屋を探したのではないか。

わたくしの手許にはヘミングウェイの作品はこの『移動祝祭日』しかないが、この最晩年の小説はときたま覗いてみる習慣がある。ヘミングウェイの食べ物の叙述にはとても惹きつけられる。

で、なんの話だったかーー。荷風に戻ろう。




日本にいる外国人は日本人が自分たちをあまり家に招かないとよく言う。私は幸運にも多くの作家から自宅へ招かれた。一番忘れ難いのは、永井荷風の家だ。(中央公論の)嶋中さんが荷風に会う時に私を同伴したのである。市川に向かい、狭まった道路を歩くと表札もなく目立たないお宅に着く。私たちは女中らしい人に案内されて中へ通された。日本人はよく「家は汚いですが」と謙遜しても実は大変清潔であるが、荷風の部屋は腰を下ろすと埃が舞い立った。荷風は間もなく現れたが、前歯は抜け、ズボンのボタンも外れたままの薄汚い老人そのものだった。ところが話し出した日本語の美しさは驚嘆するほどで、感激の余り家の汚さなど忘れてしまった。こんな綺麗な日本語を話せたらどれほど仕合わせだろうと思った。(ドナルド・キーン「私の大事な場所」)




荷風散人年八十一

三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる。
(……)
四月十九日。日曜日。晴。小林来話。大黒屋昼飯。



ほぼ毎日、店が休みでも先生がいらっしゃるとお作りしました。いつもきまって「並のカツ丼」と「上新香」、「お酒一合」をただ黙々と召し上がられました。

亡くなられた前日にも、いつもの「カツ丼」を召し上がっていかれました。(永井荷風と大黒屋




ーー荷風は一日一食主義であったという話もあるが、いつの頃からかはよくわからない。

 ……晩年の荷風は、毎日正午になるとハンコで捺したように何とかいう近くの食堂(京成電車沿線の何とかいう駅前にいまもあるらしい)にあらわれて、ハンコで捺したようにカツ丼(確かにカツ丼は独身男の象徴みたいな食物だと思う)を食ったそうだ。世の中には食物の味のわからない(あるいは食物の書けないだったか?)小説家に文豪なしという説(ビフテキと茶漬けでは西洋文学にかないっこなし、というのとはまた別の説らしい)もあるらしいが、その説でゆくと荷風などはどうなるのだろう?(後藤明生『壁の中』)



……昭和二十三年以降の「日乗」を読み進むにつれて私には、だんだんに荷風の後姿しか見えなくなってくるーーそれまでの、背が見えていたかと思うとくるりと顔がこちらへ向き直るという戦慄が年ごとに薄れて、老人の健脚がひたすら遠ざかっていく、とそんな印象を受けてならない。全集が刊行され、浅草の踊子たちに親しみ、芝居が上演され、役者たちと《鳩の街》を見てまわる。新聞記者に追いまわされ、街娼にまで顔を知られるようになり、やがて文化勲章を受けて、鞄の置き忘れ事件によって財産状態が世人の目を惹くところとなる。そうして身辺が多事になっていくにつれて「日乗」の記載は年々短くなる。(古井由吉『東京物語考』)


(文化勲章受章(昭和27年)前列左より辻善之助(仏教文化に功績)熊谷留蔵(結核の臨床科学に功績)梅原龍三郎(日本画)後列左より安井曹太郎(肖像画)朝永振一郎(物理学)荷風)

三十年頃までは《夜浅草》あるいは《燈刻浅草》という記が多くて夜の繁華街歩きになかなか精を出していたようなのが、やがて《午後、浅草》となり、人と会うことも減って一人で洋画を見ることが多くなる。(……)

さらに《午後》が《正午過ぎ》となり、三十三年頃にはただの正午、《正午浅草》あるいは《小林来話、正午浅草》あるいは《正午浅草、燈刻大黒屋》という短い記の羅列に近く、こうなるとかえって後姿なりにまた目の前に大きくアップされてきたようで、朝方に地元の不動産屋氏の御機嫌伺いを受けてから京成電車で押上まで出て浅草の洋食屋で昼飯を摂り、おそらくさしたることもなく早目に家にもどって、夕刻には地元駅前の大黒屋なる店に足を運ぶという、判で捺したような老年の生活の反復が伝わってくる。

(……)

そして三十四年三月一日、日曜日、雨の中を《正午浅草》に出たところが路上でにわかに歩行困難になり驚いて家に帰ったとあり、それから一週間あまり寝つくと、《正午浅草》もなくなって《正午大黒屋》となり、四月二十日以降は《小林来話》だけになる。

(……)

この素っ気もないような記録こそ、住まいは江戸川を渡った市川菅野であっても、わが東京物語の極みである。長年の孤立者がさらに年ごとにひとりになり、やがて月ごとにひとりになり、ついにひとりになる。しかしぎりぎりまで歩く。範囲は日ごとに狭まってきても、とにかく歩かないことには生きられない。最後には三町ばかりの道だけになり、同じ道の往き返りだけになり、それでもまっすぐ、はてしなく歩きつづける心地でいたのかもしれない。

四月廿九日、祭日、陰――と、なぜだか、最後の日まであるのだ。翌三十日の朝、通いの手伝いの女性に発見されたという。

昭和五十七年の八月に私は東京駅を出た新幹線の中でたまたま開いた週刊誌のグラビアに、昭和三十四年四月末の荷風終焉の姿を見て吃驚させられた。取り散らした独り暮しの部屋の、万年床らしい上から、スボンをおろしかけた恰好のまま、前のめりに倒れこんで畳に頬を捺しつけていた。ちょうど外食から帰宅したところで、吐血だったという。墜落だ、これは、と私はつぶやいたものだ。八十一歳の老人というよりも、むしろ壮年の死だ。孤立者は死ぬまで老年になるわけにはいかない。いまや文豪の死というよりも、一般市民の覚悟しなくてはならない最後の姿だ、と。(同上 古井由吉『東京物語考』)




昭和34年(1959)4月30日、79歳。2年前に新築した京成電車・八幡駅のすぐ北、八幡小学校裏手の自宅六畳間。荷風はいつも通り近所の食堂「大黒家」でカツ丼一杯を平らげ、日本酒一合を呑んだ。真夜中。急に気分が悪くなって胃から血を吐き、窒息で急逝。翌朝、家事手伝いの老婦が掃除にやってきて死んでいるのを発見された。哀しいことに、臨終の写真が昭和34年5月17日号(10日売り)に掲載された。(毎日新聞社「昭和史全記録」1989刊の628頁にも掲載) 居間から発見された現金二十八万円、定期預金八百万円、普通預金二千万円の通帳は、威三郎氏の名義で三菱銀行八幡支店に預けられたという。棺は市川署から葬儀社に手配した二千五百円の質素なものだったという。遺体をきよめた小問勝二氏は左腕に「こうの命」の刺青を見た。32歳の荷風が新橋芸者・豊松(吉野こう)と互いに彫りあった刺青だった。「落ちる葉は残らず落ちて昼の月…荷風」。合掌。(大田蜀山人・永井荷風・谷崎潤一郎 “遊学”

当時の《現金二十八万円、定期預金八百万円、普通預金二千万円の通帳》とは、現在のいくらほどになるのか?

1958年(昭和33年) 銀行員大卒初任給  12700円
1959年(昭和34年) 公務員大卒初任給  10200円

ーーなどというデータがネット上にはあるが、かりに当時の二十倍としたら、六億円ほどということになる。