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2017年7月20日木曜日

「文字なしとて事たらざることはなし」

一般に「文字が無かったが、仏教とともに文字が伝来した」とされる日本の歴史だが、漢字伝来以前に日本独自の文字があったとされる議論があるそうだ。この文字は「神代文字(じんだいもじ、かみよもじ)」と呼ばれる。

・否定説を唱えた者としては貝原益軒、太宰春台、賀茂真淵、本居宣長、藤原貞幹、伴信友などがある。現在も否定的な立場の研究者は多い。

・肯定論も古くから存在し、卜部兼方、忌部正通、新井白石、平田篤胤、大国隆正等が唱えた。(wiki)

たとえば「大分県国東郡国東町」の山奥で発見されたとする次のような石がある。




たまたま拾った画像であり、これを紹介しているのはたぶん専門研究者ではない。そもそもあまりにも鮮明すぎて偽物としか思えないが、風化していた文字を、さる僧侶が掘り直したとされている(参照:神代文字岩)。もちろんこの説明自体眉唾としなければならない。

繰り返せば、こういった遺跡の情報の真贋は常に疑わなくてはならないが、そうはいっても賀茂真淵や本居宣長等が思い込んでしまっていたらしい「漢字伝来以前にまったく文字がない」--上に引用したように《現在も否定的な立場の研究者は多い》、つまり真淵や宣長に同調しているーーとは、この専門研究者の考え方自体が、むしろひどく奇妙なものにわたくしには思われる。神代文字はあったにきまっているという「先入観」が全く素人のわたくしにはあるのである。

たとえば物を数えるのに、人は一本の線を引く。これ自体「文字」の始まりのひとつだろう。

ラカンは、フロイトの「一の徴 der einzige Zug」概念を展開しつつ、この「一本の線」をめぐる問いがなされている。



すくなくともどの国の古代においてもこういった一本の線だけではなく、そこから変形された文字があったに決まっているのではなかろうか。

次の図もラカンのセミネール9からである。



上に掲げた「一の徴」をめぐって、ラカンは10年後のセミネールにおいては次のように言うことになる。

ここで、私はフロイトのテキストから「一の徴 trait unaire」の機能を借り受けよう。すなわち「徴の最も単純な形式 la forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」である。我々精神分析家を関心づける全ては、「一の徴」に起源がある。(ラカン、S.17, 14 Janvier 1970)

ここで trait unaire を「一の徴」と訳したが、実際はこれは徴というより「ひとはけ」作用とでもいうべきものである。

L'un, qui n'est pas, existe seulement comme opération. (Badiou, L'être et l'événement)

小林秀雄の『本居宣長』を読んで、なんとも受けいれ難くなるのは、いま記した、わたくしにとっての「常識」が共有されていないせいである。

「古ヘより文字を用ひなれたる、今の世の心もて見る時は、言伝へのみならんは、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古ヘには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」(本居宣長「くず花」)

もっとも「産巣日神(ムスビノカミ)」をめぐる議論には魅了されないではない。

「直毘霊(ナオビノタマ)」にあるように、ーー「人はみな、産巣日神(ムスビノカミ)の御霊によりて、生れつるまにまに、身にあるべきかぎりの行(ワザ)は、おのづから知りてよく為る物にあれば」、「いかでか其上をなお強ることのあらむ」という事になる。文字による、智識の普及と教えという「強事(シヒゴト)」の成功の如きが、人の本質的な智識に、何を加え得たろうか。この点に関し、世の物識り人達の、その自負から来る錯覚はまことに深いのである。(小林秀雄『本居宣長』四十八)

前回、「ララングという母の言霊」にて「ララング/言語」をめぐると備忘を記したが、その核心となる文を再掲しよう。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺(言霊)である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだのつながりを証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングは、幼児を音声・リズム・沈黙の隠蝕等々で包む。ララングが、母の舌語(lalangue maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである。Colette Soler, Lacanian Affects, 2016)

上古の文字のない時代とは、人間の幼児期の言語のない「先史」時代、つまりララングの時代とほぼ相似的なものとして思いを馳せることができるのではないか。ラカンはこの時期の幼児が直面して使用する言葉を、「純シニフィアン signifiant pur」の物質性、あるいは「文字 lettre」といったりもする(参照)。(宣長の「文字」とはもちろん等価でないことを断っておこう)。

なにはともあれ小林秀雄=本居宣長の「ムスビノカミ」の考え方は、ラカンのララングにひどく近似している。

彼が註解者として入込んだのは、神々に名づけ初める、古人の言語行為の内部なのであり、其処では、神という対象は、その名と全く合体しているいるのである(高天原という名にしても同様である)。彼が立会っているのは、例えば「高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)」の二柱の神の御名を正しく唱えれば、「生(ムス)」という御名のままに、「万ヅの物も事業(コト)も悉(コトゴト)に皆」生成(ウミナシ)賜う神の「かたち」は、古人の眼前に出現するという、「あやしき」光景に他ならなかった。(小林秀雄『本居宣長』四十八)

いやむしろ「父の諸名」に近似しているといったほうがいいかもしれない。この父の諸名は固有名に大きくかかわる[後述]。そもそもラカンにとって《固有名の真の性質は、「一の徴 trait unaire」としての文字 lettre である》(Lorenzo Chiesa、Count-as-one, Forming-into-one, unary trait, S1 )。

父の諸名 、それは、何かの物を名付けるという点での最初の諸名 les noms premiers のことだ。

…c'est ça les Noms-du-père, les noms premiers en tant que ils nomment quelque chose](ラカン、(ラカン、S22,.11 Mars 1975)

 本居宣長にとっては、古事記冒頭の「神の諸名」の列挙は名付け行為であり、ラカンの「父の諸名」の名付けとどうして関連づけないでいられよう?

天地初めて発けし時、高天原に成る神の名は天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣神。此の三柱の神は並独り神と成り坐して身を隠すなり。 次に(……)宇摩志阿斯訶備比古遲神。次に天之常立神。上件の五柱神は別天神。 (『古事記』)
次(ツギニ)。都藝(ツギ)は、都具(ツグ)といふ用語の、體語になれるなり。(凡て言に體用の別あり。體とは動かぬをいふ。用とは活(ハタラ)くを云フ。其ノ體語に、本より體なると、用の體になれるとあり。いと上ツ代には、用語多くて、體語すくなかりしを、世々に人の言語の多くなりもてゆくまゝに、用語の分れて、體語にもなれるがいと多きなり。)

都具(ツグ)は都豆久(ツヅク)ともと同言なれば、都藝(ツギ)も都豆伎(ツゞキ)と云に同じ。さて其(ソレ)に縦横(タテヨコ)の別(ワキ)あり。

縦(タテ)は、假令(タトヘ)ば父の後(ノチ)を子の嗣(ツグ)たぐひなり。横は、兄(セ)の次に弟(オト)の生るゝ類ヒなり。記中に次(ツギニ)とあるは、皆此ノ横の意なり。

されば今此(コゝ)なるを始めて、下に次ニ妹伊邪那美ノ神とある次(ツギニ)まで、皆同時にして、指續(サシツゞ)き次第(ツギツギ)に成リ坐ること、兄弟の次序(ツイデ)の如し。(父子の次第(ツイデ)の如く、前(サキ)ノ神の御世過(スギ)て、次に後ノ神とつゞくには非ず。おもひまがふること勿(ナカ)れ。)(本居宣長『古事記伝』)

…………

ここで、小林秀雄の『本居宣長』の第四十八章ーーわたくしにはこの書の核心のひとつと思われる叙述を抜き出しておこう。

神代の伝説(ツタエゴト)について、宣長が非常に明瞭な、徹底した考え方をしていた事は、「くず花」の議論の中によく現れている。

「まがのひれ」の著者が文字の徳を言うに対して、宣長は言伝えの徳を説くのだが、こういうことを言っている、--

「古ヘより文字を用ひなれたる、今の世の心もて見る時は、言伝へのみならんは、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立ちかへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古ヘには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけむ昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠かざりし也」(くず花)

これも、いかにも宣長らしい、平明な譬えだが、平明過ぎて、読む者は、そのまま読み過ごし、このような事を明言した者は、この人以前に、誰一人いなかった事には、思い至らぬという事はあるのである。

おぼつかない神代の伝えごとを、そのまま受納れた真淵が、「古へを、おのが心言(ことば)にならはし得」たところを振返ってみるなら、それとは質の違った想像力が、この易しい譬えの裏には、働いているのが見えて来るであろう。--「言を以ていひ伝ふると、文字をもて書伝ふるとをくらべいはんには、互に得失有て、いづれを勝れり共定めが」くと、宣長は繰返し言っている、これは大事な事で、彼は定めがたき一般論などを口にしているのではない。ただ、両者は相違するという端的な事実に着目して欲しい、と言っているだけなのだ。ところが、其処に眼を向ける人がない。「上古言伝へのなりし代の心に立かへりて見」るという事が、今日になってみると如何に難かしいかを、宣長は考えるのであり、その言うところには、文字を用いなれたる人々が、知らずして抱いている偏見に、強く抗議したいという含みがある。

「文字は不朽の物なれば、一たび記し置きつる事は、いく千年を経ても、そのまゝに遣るは文字の徳也、然れ共文字なき世は、文字なき世の心なる故に、言伝へとても、文字ある世の言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし、今の世とても、文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に、空にはえ覚え居らぬ事をも、文字知らぬ人は、返りてよく覚え居るにてさとるべし、殊に皇国は、言霊の助くる国、言霊の幸はふ国と古語にもいひて、実に言語の妙なること、万国にすぐれたるをや」、

--神代より言い伝え、言霊の幸わう国と語り継いで来た「文字なき世は、文字無き世の心なる故」と、しっかりと想像力を働かせてみるなら、「言辞の道」に於いて、「浮きたる事」は、むしろ今の世の、「文字を知れる人」の側にある事に気付くであろう、というのが、宣長の言いたいところだったのである。

「まがのひれ」の著者が、「文字なかりし世々の古事は、皆その後の天皇の御心もて、よきさまに造り成し給へる物にて、実の事にはあらず」と言うに対して、宣長は、かしこげなる意見と、烈しく抗し、「中古迄、中々に文字といふ物のさかしらなくして、妙なる言霊の伝へなりし徳」を忘れてはならないと言う。先きにも言ったように、彼は、文字の徳を、少しも見損なっていなかったが、文字の徳と馴れ合い、言わば、「文字といふ物のさかしら」となれば、これは又別事である事を、見逃してはいなかった。それが「文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に」云々、という言い方になるのであり、そういう含みが辿れなければ、読まぬに等しいであろう。
(……)文字の出現以前、何時からとも知れぬ昔から、人間の心の歴史は、ただ言伝えだけで、支障なくつづけられていたのは何故か。言葉と言えば、話し言葉があれば足りたからだ。意味内容で、はち切れんばかりになっている、己れの肉声の充実感が、世人めいめいの心の生活を貫いていれば、人々と共にする生活の秩序保持の肝腎に、事を欠かぬ、事を欠く道理がなかったからだ。そういう、古人の言語経験の広大深刻な味いを想い描き、宣長は、はっきりと、これに驚嘆する事が出来た。「書契以来、不好談古」と言った斎部宿禰の古い嘆きを、今日、新しく考え直す要がある事を、宣長ほどよく知っていたものはいなかったのである。

先きに、宣長が歩いた、「古事記」注解という「廻り道」について述べたが、彼が、非常な忍耐で、ひたすら接触をつづけた「皇国(ミクニ)の古言」とは、注解の初めにあるように、「ただに其物其事のあるかたちのままに、やすく云初(イイソメ)名づけ初(ソメ)たることにして、されに深き理などを思ひて言る物に非れば」、--という、そういう言葉であった。未だ文字がなく、ただ発音に頼っていた世の言語の機能が、今日考えられぬほど優性だった傾向を、ここで、彼は言っているのである。宣長は、言霊という言葉を持ち出した時、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生れた、という事、言葉の意味が、これを発音する人の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたという、全く簡明な事実に、改めて、注意を促したのだ。情(ココロ)の動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微妙なもので、話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思い通りにはならぬものであり、それが、語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような、「たましひ」が持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである。

繰返すまでもなく、宣長は、文字の徳が、言伝えの徳に取って代った、などと言っているのではない。誰にも、そんな事の出来る力はありはしない。言伝えの遺産の上に、文字の道が開かれる事になったのだが、これは、言霊の働きを大きく制限しないでは行われなかった、そういう決定的な事に、他人が鈍感になって了った事を言う。上古の人々は、思うところを、われしらず口にするという自然な行為によって、言葉の意味を、全身を以て、感じ取っていた筈だから、其処に、言葉の定義を介入させる為には、話し方と話の内容とを、無理にも引裂かなければならなかったであろう。動く話し方の方を引離して、これを無視すれば、後には、動かぬ内容が残り、定義を待つ事になっただろう。文字の出現により、言語の機能の上で、思うにまかせぬ表現の様から、意のままになる内容の伝達への、大きな転回が可能になったわけだが、宣長は、これを、人々の心を奪うような大事とは、考えていなかった。太古の人々は、そのような事に未だ思い及ばなかったのではなく、そのような余計な事を思い付く必要を、感じていなかった、という考えだったからである。

彼等は、自分等が口にしている国語の抑揚さえ摑まえていれば、物事を知り、互に理解し合って暮らすのに、何の不自由もなかった。そういう生活が、文字と共に始まった歴史以前、どれほど久しい間、続けられて来たか。宣長は、この言伝えの世として、何一つ欠けたところのない姿の裡に、身を置いて、人々の心ばえを宰領している言語表現を想い描き、其処では、表現の才を言うより、表現の天分を言う方が、どれほど自然な事だったかを直覚していた。言語表現の本質を成すものは、習い覚えた智識に依存せず、その人の持って生れて来た心身の働きに、深く関わっているものだ、そういう言語機能の基本的な性質は、「文字ある世」になっても少しも変りはしないのだが、それが忘れられて了ったのである。

繰り返せば、今は曖昧なままの「思いつき」を記すが、これは固有名論、あるいはララング論としても読めるのではなかろうか。

宣長は《高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)》の「ムスビ」について、《産霊(ムスビ)とは、凡て物を生成(ナ)すことの霊異(クシビ)なる神霊(ミタマ)を申すなり》としている。すなわみムス・ビ(「生(ムス)」霊)である。他方、折口信夫は「結び」と読んでいる(現在の学会では否定されているようだが)。

この折口信夫の考え方はとても魅力的で、ラカンをいくらか読むわたくしは、ここでもまたボロメオ結びの「結び目」を想起してしまう。そして、それは固有名のことでもある(神の諸名!)。

三界(象徴界・想像界・現実界)の基礎は、フレーゲが固有名と呼ぶもの que FREGE appelle noms propres である。 (ラカン、S24. 16 Novembre 1976)

ーーさるラカン派が《ララングは固有名の核である lalangue is a nucleus of proper names》 (Bernard Nomine、2015)と言っているが、なるほどと思わせる。この「洞察」も、前回の記事(ララングという母の言霊)と関連付けうる。

いずれにせよ、古事記冒頭に出現する三つの神の名、アメノミナカヌシ(天之御中主神)、タカミムスヒ(高御産巣日神)、カムムスヒ(神産巣神)における二番目の「タカミムスヒ」が、古い皇室の皇祖神であり、アマテラス(天照大神)が皇祖神となったのは、記紀編纂の直前の天武、あるいは持統朝といった「新しい時代」とするのが、現在の学会の主流の見解である。すなわち「タカミムスヒ」が核心的な神の名なのである。《本来の皇祖神はアマテラスではなくタカミムスヒだったこと》(溝口睦子『アマテラスの誕生』)。

最後に、ここでの叙述は、古事記にも神の名にもいままでまったく関心がなかったシロウトの「思いつき」を記した、という範囲をでないことを--ことわるまでもないだろうがーー、敢えて繰り返し強調しておく。