2017年7月7日金曜日

引力と斥力

【引力と斥力】

エロスは己れ自身を循環 cycle として・循環の要素 élément d'un cycle として生きる。それに対立する要素は、記憶の底にあるタナトスでしかありえない。両者は、愛と憎悪、構築と破壊、引力 attractionと斥力 répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

まず厳密さを期さずに、このドゥルーズの文をラカンのセミネール19に現れる次の図をベースにしてパラフレーズしてみよう。



①semblant(見せかけ)とは、仮象の動作主 agent である(参照)。
②この仮象の主体の底にある真理 vérité とはタナトスである。
③仮象の主体は享楽(究極のエロス)に融合したい。
④だが、真理であるタナトスの斥力がその融合を邪魔する。
(そもそもラカンの主体の定義においては、完全な融合は「主体の死」である)。
⑤ゆえに享楽の残余(剰余享楽)が生まれる。
⑥こうして仮象の動作主は、上の図の動きを永続的に循環する。

今、「厳密さを期さずに」としたのは、ラカンがこの図において実際に示している享楽とは、異者としての身体(身体は大他者でありかつ異物である[参照])をめぐっており、つまり構造的に不快をもたらす身体としての享楽の根という意味での享楽であるから。つまりここでは拡大解釈している。

ただし現代ラカン派の注釈に依拠はしている。

すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール、2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER

《話す身体 le corps parlant》(ラカン、1973)とは《欲動の現実界 le réel pulsionnel》(ラカン、1975)のことでもあるだろう。

ここでラカンの言説(社会的つながりlien social)理論における基本版の図を掲げておく。



Agentとは動作主(真理の代理人)であり、先に掲げた図の「見せかけ semblant」と等価である。そして、《見せかけ(仮象 Schein)でない言説はない D'un discours qui ne serait pas du semblant 》(ラカン、S19、4 Novembre 1971)

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

そもそも①の世界があるいは人間が「仮象=見せかけ」であるのは、ラカンやニーチェに依拠せずとも、すでにシェイクスピアが示している。

この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)。(シェイクスピア『お気に召すまま』1600年)

⑥の循環とは「漂流 dérive」のことである。

私は、欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20、08 Mai 1973)

⑤の剰余享楽とは「彷徨える過剰 L’excès errant」のことである。

彷徨える過剰は存在のリアルである。L’excès errant est le réel de l’être.(バディウ Cours d’Alain Badiou) [ 1987-1988 ]

享楽の漂流あるいは彷徨とは、死の漂流(彷徨)の相似形である。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の衝動(欲動 la pulsion de mort) …もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23 16 Mars 1976)


【融合と脱融合】

以下、フロイトの死の枕元にあったとされる『精神分析概説』草稿、死後出版1940年から抜き出す。わたくしの手許にこの論の邦訳はない。既存の訳がネット上で見出された箇所はそれを参照したが、基本的には私訳であり、主に英訳を参照している(独語にはとんと疎いが、いくらかの単語を付記している)。

エスの力能 (権力 Macht) は、個々の有機体的生の真の意図 Einzelwesens を表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすること、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。…
エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。
長いあいだの逡巡と揺れ動きの後、われわれは、ただ二つののみの基本欲動の存在を想定する決心をした。エロスと破壊欲動である。…

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせること Bindung」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「解体 aufzulösen」 すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。

破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestrieb とも呼ぶ。
生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力 Anziehung と斥力 Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

ーーまずフロイト最晩年の記述からも引力 Anziehung /斥力 Abstossung は、エロス/タナトスを示しているのがわかる。

さて今引用した後半箇所で、フロイトは「欲動融合(欲動混同・欲動混淆 Triebvermischung)」を語っているとしてよい。ここでその語が出現する『マゾヒズムの経済的問題』を引用しよう。

(多細胞)生物のなかでリビドーは、そこでは支配的なものである死の欲動あるいは破壊欲動 Todes- oder Destruktionstrieb に出会う trifft。この欲動は、細胞体を崩壊させ、個々一切の有機体を無機的安定状態 Zustand der anorganischen Stabilität(たとえそれが単に相対的なものであるとしても)へ移行させようとする。リビドーはこの破壊欲動を無害なものにするという課題を持ち、そのため、この欲動の大部分を、ある特殊な器官系すなわち筋肉を用いてすぐさま外部に導き、外界の諸対象へと向かわせる。

これが、破壊欲動 Destruktionstrieb ・征服欲動 Bemächtigungstrieb ・権力への意志 Wille zur Macht と呼ばれるものである。この欲動の一部が直接性愛機能 Sexualfunktion に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズム eigentliche Sadismus である。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性的興奮によってそこにリビドー的に拘束される libidinös gebunden(結び合わされる)。これが原初的な ursprünglichen、性愛的マゾヒズム Masochismus zu erkennenである。

このようなリビドーによる死の欲動の飼い馴らし Bändigung des Todestriebes durch die Libido がどのような道程を経て、どのような手段で遂行されるかを生理学的に理解することは、われわれには不可能である。精神分析学的思考圏内でわれわれが推定できるのは、両種の欲動がきわめて複雑な度合でまざりあい絡みあい、その結果われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえないのだということである。この欲動融合(欲動混淆 Triebvermischung) は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱融合 Entmischung) することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束(結び合わせ)による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に移され終わったのち、その残余として内部には本来の性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として自分自身を対象とする。

ゆえにこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化Legierung von Todestrieb und Eros が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうるのであって、このような方法で以前の状況へ退行する regrediert と聞かされても驚くには当たらない。これが起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年、既存訳を適宜変更、以下のフロイト文も同様)

「欲動融合(欲動混合・欲動混淆 Triebvermischung)」は、また Triebmischung という形でもフロイトの別の論文に出現する。"vermischung"と"mischung"はともに「融合(ミックス)」であり、フロイトの使用法においては、ほぼ等価であろう。

この「欲動融合Triebmischung」に対して「欲動解離(欲動分離・欲動脱融合Triebentmischung)」という語彙が現れる、上のマゾヒズム論の前年の論文(『自我とエス』)から抜き出す。

われわれは二種類の欲動が融合 Mischung するという考えを仮定したのであるが、もしそうであればーーしばしば完全にーーそれが分離 Entmischung するという可能性も避けられないことになる。性欲動のサディズム的成分のうちに、われわれは有効な欲動融合 Triebmischung の模範的な例をみるだろう。独立したサディズムは倒錯として、もちろん極限にまで達してはいないが、分離(脱融合 Entmischung)の典型である。

またこのようにして、まだこの視点からは観察されることがなかったひろい領域にわたる諸事実にたいする一つの眺望がひらけてくる。つまり破壊欲動はきまって放出の目的のためにエロスに奉仕していることを、われわれは知っている。また癲癇発作は欲動解離(欲動脱融合 Triebentmischung) の産物であり、その徴候であることを推測している。そして、たとえば、強迫神経症のような多くの重症な神経症の症状の中で、欲動解離 Triebentmischungと死の欲動 Todestriebes の発現が特別の評価に値することを理解することができた。

これらを性急に一般化してみると、リビドー退行 Libidoregression の本質、たとえば性器期からサディズム的肛門期への退行の本質は、欲動解離 Triebentmischung にあり、これに反して、初期の段階から決定的な性器期への進歩はエロス的成分 erotischen Komponenten が加わるという条件があることを推測することができよう。また神経症の構成的素質の中ではしばしば強化されている正規のアンビヴァレンツを、分解の結果として理解することができるかどうかという問題もここから生まれてくる。しかし、このアンビヴァレンツは非常に根源的なもので、むしろ、不完全な欲動融合 Triebmischung と考えねばならないだろう。(フロイト『自我とエス』1923年)

こうやってみてくると、「引力 Anziehung /斥力 Abstossung(エロス/タナトス)」とは、まずなによりも欲動の「融合 Mischung(ミックス) /脱融合 Entmischung (脱ミックス)」にかかわることがわかる。『精神分析概説』から再掲すれば、《エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせること Bindung(拘束)」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「解体 aufzulösen」 すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである》(フロイト、1940年)である。

かつまた「拘束化/非拘束化」のことでもある。この二つの語彙はまず『心理学草稿』1895年にあらわれ、その後、フロイトは終生使い続けている。

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動蠢き anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)

あるいは《拘束された gebundenen/拘束されない ungebundenen 興奮過程Erregungsvorgängen》(同、快原理、最終章)等。

「拘束 Bindung」とは、本来はやや誤解を招きやすい訳語なのかもしれない。この語の意味は、簡潔にいってしまえば現実界的なものを象徴界的なものに結びつけること、その典型が語表象Wortvorstellung (シニフィアン)に「結びつける」ことである(参照)。

そもそもラカンの言説理論自体、社会的「拘束 Bindung=結びつけ」理論ではなかろうか?

言説とは何か? それは、言語の存在によって生み出されうるものの配置のなかに、社会的紐帯(社会的つながり lien social)の機能を作り上げるものである。

Le discours c'est quoi? C'est ce qui, dans l'ordre ... dans l'ordonnance de ce qui peut se produire par l'existence du langage, fait fonction de lien social. (Lacan, ミラノ、1972)

すくなくとも「社会的つながり lien social」とは社会的拘束(結びつけ Bindung)のことである。

ここでフロイトのマゾヒズム論に《拘束(結び合わせ)による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung》という表現があったことを注意しておこう。

「飼い馴らす bändigen」とは 「野獣を調教する」という意味があるようだ。 とすれば《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》(フロイト、1937)の家畜化である。

フロイトが《原始時代(の) Urzeit wirklich》、あるいは「太古の archaischen」というときは、欲動にかかわるエスのことである。

「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただ エス Es のことを考えているのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

だが原始時代のドラゴンの家畜化は容易ではない。ゆえに(人によって)ときおりにか常にかは別にして、野獣は回帰する。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

この回帰とはフロイトが《残存現象 Resterscheinungen》と呼んだものにかかわる(参照:残存現象と固着)。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


【ニーチェにおけるエスと享楽】

さて次はニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」--いわゆる『ツァラトゥストラ』全体のグランフィナーレーーからである。

静かに! 静かに! いまさまざまのことが聞えてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいまーー
Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, –

ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、ああ、ああ、なんという吐息をもたらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

– nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

ーーおまえには聞えぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかいるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? おお、人間よ、心して聞け!

– hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu dir redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht!
おお、人間よ、心して聞け!
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、
深い夢からわたしは目ざめた。--
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
享楽 Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての享楽 Lust は永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!

Oh Mensch! Gieb Acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief –,
»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
»Die Welt ist tief,
»Und tiefer als der Tag gedacht.
»Tief ist ihr Weh –,
»Lust – tiefer noch als Herzeleid:
»Weh spricht: Vergeh!
»Doch alle Lust will Ewigkeit
»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«

ーー手塚富雄訳だが、「それ es」を「エス」、「悦び lust」を「享楽」に変更した。

ニーチェにおいて、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エス Es がいつも使われている。(フロイト『自我とエス』1923年)

ニーチェの「悦び(享楽 Lust)」とは、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)とほとんど等価である。

享楽が欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(同、酔歌)


【永遠回帰と反復強迫】

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

《常に回帰する immer wiederkommt》とは、フロイトにとっては《反復強迫 Wiederholungszwang》あるいは《運命強迫 Schicksalszwang 》のことである(参照)。

そしてラカンにとっては《享楽回帰 un retour de la jouissance》 のことである。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

最後にフロイトのマゾヒズム論に《破壊欲動 Destruktionstrieb ・征服欲動 Bemächtigungstrieb ・権力への意志 Wille zur Macht 》とあったことをもう一度想い起しておこう。

権力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance 以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

クロソウスキーにとって情動は、欲動(衝動)のことである。

権力への意志が原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

『ニーチェと悪の循環』の英訳者 Daniel W. Smith による序文の簡明な記述を抜き出しておこう。

Impulsion(衝動) は、仏語の pulsion(欲動) に関係している。pulsion はフロイト用語の Triebeを翻訳したものである。だがクロソフスキーは、滅多にこの pulsion を使用しない。ニーチェ自身は、クロソフスキーが衝動という語で要約するものについて多様な語彙を使用しているーー、Triebe 欲動、Begierden 欲望、Instinke 本能、Machte 力・力能・権力、Krafte 勢力、Reixe, Impulse 衝迫・衝動、Leidenschaften 情熱、Gefiilen 感情、Afekte 情動、Pathos パトス等々。クロソフスキーにとって本質的な点は、これらの用語は、絶え間ない波動としての、魂の強度intensité 的状態を示していることである。(PIERRE KLOSSOWSKI,Nietzsche and the Vicious Circle Translated by Daniel W. Smith)