2017年7月8日土曜日

苦痛のなかの快

《性的マゾヒズムder erogene Masochismus, 苦痛のなかの快 die Schmerzlust》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)--これがわれわれの根である。

だがフロイトが紆余曲折の上にこんなことを言わなくても、人は実は昔から知っていたことである。

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)

そう、ニーチェにお出ましいただかなくてもソクラテスは知っていた。《おまえたち高人よ。享楽 Lust はおまえたちをあこがれ求めている、この飼い馴らされていないunbändige、至福な享楽 Lustは、ーーーできそこないの者たちよ、おまえたちの苦痛をあこがれもとめているのだ!Ihr höheren Menschen, nach euch sehnt sie sich, die Lust, die unbändige, selige, - nach eurem Weh, ihr Missrathenen! 》(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)

おそらく「高人」たちだけが長いあいだボケぶりをさらし続けていたのではなかろうか?

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽の原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)

「高人」とは「哲学者」でもあろうが、さらに一般的な「文明人」でもあろう。フロイトは『文化の中の居心地の悪さ』で次のように書いている。

自我によって、荒々しいwilden 飼い馴らされていない欲動の蠢きungebändigten Triebregung を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)

文化のなかの居心地の悪さとは、言ってしまえば「文明人とお付き合いする居心地の悪さ」である。

文明人ではないニーチェはよく分かっていた。

人間は快 Lust をもとめるのではなく、また不快 Unlust をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。

快と不快 Lust und Unlust とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。

この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 Willens zur Macht を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。

人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。

──不快は、《私たちの力の感情の低減 Verminderung unsres Machtgefühls》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志の《刺戟剤 stimulus》なのである。(ニーチェ『力への意志』第702番)

ようするに、なにもフロイトにもっともらしく次のようなことを言われなくても、ソクラテスやニーチェはすでに知っていたことなのである。きっと女たちはずっとまえから知っていたに違いない。

…この女性的マゾヒズムは、原初の、性的 erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924)

いやいや、この文は冒頭に記したのだった。どうも最近は脳軟化症気味で困る。それともひょっとしてこのところマゾヒズムに耽り過ぎのせいだろうか? 




いまさらながら、なぜフロイトは次のようなアタリマエのことを長い研究ののちにようやく言うようになったのか?

快および不快 Lust und Unlustの感覚は、拘束された gebundenen 興奮過程と、拘束されない ungebundenen 興奮過程と、二つの興奮過程からおなじように生み出されるのであろうか。それならば拘束されていない ungebundenen 一次過程 Primärvorgänge が、拘束されたgebundenen 二次過程 Sekundärvorganges よりも、はるかにはげしい快・不快の二方向の感覚を生むことは、疑いをいれる余地がないだろう。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)




罪責意識、処罰要求…これらは超自我に心的に拘束 gebundenされており、故にわれわれに知られるようになる部分にすぎない。この同じ力 Kraft のその他の部分は、どこか別の特定されない領域で、拘束された形式あるいは自由な形式 gebundener oder freier Form のいずれかの形で働いているのかも知れない。

このような現象として多くの人に認められる内的マゾヒズム immanenten Masochismusの現象…がある。こうしてわれわれは、心的過程が快の追求 Luststrebenによってのみ支配されるという信念をもはや放棄しなければならない。

これらの現象は、われわれがその目的にしたがって、攻撃欲動または破壊欲動と呼んでいるような、生命体に最初から存在している根源的な死の欲動 ursprünglichen Todestrieb の力能 Macht が、心的生活の中に存在しているという事実を示す指標なのである。…エロスと死の欲動という二つの原欲動 Urtriebeが結合したり対立したりして作用する Zusammen- und Gegeneinanderwirken という考え方だけが生命現象の多彩さBuntheit der Lebenserscheinungenを説明するものであり、けっしてそれらの一方だけをもってこれを説明しうるものではない。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

たぶんフロイトも文明人すぎたのではなかろうか? ラカンだってそうである。享楽はdéplaisir(unlust)だって? そんなことは1970年になってわざわざ言わなくてもよろしい。

…au déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)

蚊居肢子は最近になってようやくフロイトもラカンも凡人だったことがわかってきた。