2017年7月9日日曜日

欲動 Trieb の「ミックス mischung/脱ミックス entmischung」

引力と斥力」にて、『自我とエス』(1923年)、『マゾヒズムの経済論的問題』(1924年)における Triebvermischung(あるいは Triebmischung)とその対の表現Triebentmischung のフロイトにおける使用法をいくらか眺めてみた。

簡略して記せば、

①Trieb-mischung とは、欲動 Trieb のミックス mischung(混淆・混同・融合)である( Trie-vermischung も同様)。

②Trieb-entmischung とは欲動 Trieb の脱ミックス entmischung(分離・解離・脱融合)である。

③ミックス/脱ミックスとは、二つの原欲動エロスとタナトスの「融合/脱融合」のことである。

ーーmischung/entmischung は、フロイト文脈における英訳では主に fusion/defusionとされている。

※①の mischung と vermischung の相違は、独語に疎いわたくしには判然としない。フロイトは同様なものとして扱っているように見える(参照:What is the difference between “mischen” and “vermischen”)


この二語「Trieb-mischung/Trieb-entmischung」は、1923年から1926年にかけてのフロイト代表論文に頻出する語彙である

以下の訳では「Triebmischung/Triebentmischung」を「 欲動融合/欲動解離」とした。

◆1923年『自我とエス』
われわれは二種類の欲動が融合 Mischung するという考えを仮定したのであるが、もしそうであればーーしばしば完全にーーそれが分離 Entmischung するという可能性も避けられないことになる。性欲動のサディズム的成分のうちに、われわれは有効な欲動融合 Triebmischung の模範的な例をみるだろう。独立したサディズムは倒錯として、もちろん極限にまで達してはいないが、分離(脱融合 Entmischung)の典型である。(……)

リビドー退行 Libidoregression の本質、たとえば性器期からサディズム的肛門期への退行の本質は、欲動解離 Triebentmischung にあ(る)。(フロイト『自我とエス』)

◆1924年『マゾヒズムの経済論的問題』
われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえない(……)。この欲動融合 Triebvermischung は、ある種の作用の下では、ふたたび分離 Entmischung することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』)

◆1926年『制止、症状、不安』
・退行のメタ心理学的説明にかんして、私は「欲動解離 Triebentmischung」すなわち、エロス的成分 erotischen Komponenten の分離 Absonderung において退行 Regression を見出そうとした。このエロス的成分は性器期のはじまりとともに、サディズム期の破壊的備給(カセクシスBesetzungen)に加わっていたものである。

・強迫神経症では、非常に厳格な超自我がつくられることは、事実として単純に納得できる。また、この病状の根本的特徴を、リビドーの退行 Libidoregression と考え、超自我の性質をそれとむすびつけることもできる。事実、超自我はエスに起源があり、そこに生ずる退行 Regression と欲動解離 Triebentmischung をまぬかれない。この際、超自我が正常な発達よりも、いっそう頑固でうるさく、無情だとしても、なにも驚くにはおよばない。(フロイト『制止、症状、不安』)

フロイトの最晩年の草稿(死の枕元にあったとされる)には、直接には「欲動融合 Triebmischung/欲動解離 Triebentmischung 」は現れないが、次の文における「拘束(結び合わせ) Bindung/解体 aufzulösen」とはこの対のヴァリエーションである。

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせ Bindung(拘束)」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「解体 aufzulösen」 すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

…………

ところで、フロイト著作集第三巻におさめられている『否定』1925年において、欲動分離・欲動解離・欲動脱融合(脱ミックス)と訳されるべき"Triebentmischung"が「欲動混同」と「反対の意味に」訳されている。

◆1925年『否定』(1969年邦訳)
何でもかんでも否定しようとする傾向、多くの精神病患者の拒絶癖は、おそらくリビドー成分の引上げによる欲動混同 Triebentmischung の現れと解すべきだろう。(フロイト『否定』1925年、人文書院版,1969年訳)

Die allgemeine Verneinungslust, der Negativismus mancher Psychotiker ist wahrscheinlich als Anzeichen der Triebentmischung durch Abzug der libidinösen Komponenten zu verstehen

人文書院のフロイト著作集は比較的初期のフロイト訳であり、誤訳・誤解釈はふんだんにあるだろう。たとえば小此木圭吾氏の「原抑圧」についてまったく逆のをしているとしか思えない「とんでも誤訳」(参照)。だが旧訳についてはいまさら問題視するつもりはない。

ところで岩波書店フロイト全集版にも同じ誤訳があるそうだ(参照:フロイト全集19から『否定』

◆1925年『否定』(2010年邦訳)
少なからざる精神病者に見られる全面的な否定欲 Verneinungslust や拒絶症 Negativismus は、おそらくリビドー成分 libidinösen Komponenten の撤退による欲動の混合 Triebentmischung の兆候と理解すべきだろう。(『否定』フロイト全集19、加藤敏 編集)

ーーくりかえせば「欲動の混合」(欲動ミックス Triebmischung)ではなく「欲動解離」(欲動脱ミックス Triebentmischung)が正しい。通常の人間は、基本二大欲動のエロスとタナトスがミックスされているのだが、それがリビドー退行によって脱ミックスして純粋なタナトスがあらわれるということである。それは1923年から1926年の代表論文に鮮明に書かれている。

この概念はドゥルーズの師でもあったイポリットが1954年(!)のラカンのセミネールで次のように指摘している。

ドイツ語でAbzug:défalcation, décompte, retenue, <ce qui est défalqué dans le plaisir à nier, ce sont les composantes libidinales>。この可能性はTrebentmischungに参照される。これは純粋状態への回帰 retour à l'état purの一種である、décantation des pulsions。仏語訳はTriebentmischungをとても平凡にdésintrication des pulsionsとしています。(フロイ卜のVerneinungに関するジャン・イポリッ卜の報告ヘの序と解答

かつまた欲動のミックス Triebmischung をめぐっての融合・混淆(mischung)は、ドゥルーズが"mélanges"という語で次のように記している。

死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混淆された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年

至高のフロイト読みのひとりドゥルーズのことはこの際どうでもよろしいが(つまり当時においてはあまりにも見事なフロイト概念把握なので彼を基準にしてそのあたりの凡庸な「学者」の誤謬に文句をいっても仕方がない)、『否定』論文岩波邦訳にあらわれている「誤訳」には呆れ返らざるをえない。

なによりもまず、『否定』(1925年)とは、わずか四ページの小論でありながら、フロイトの最重要論文のひとつとされ、一語一句なめるように読むべき論である。それにもかかわらず、1969年の人文書院版と同じ「誤訳」を繰り返しているというのは、ビックリ仰天である。1969年の人文書院版誤訳に誰も気づいていなかった筈はない。だが40年を経ての同じ誤訳の繰返しというのはどうして起こりうるのか。

なおかつ、1923年から1926年における「欲動融合 Triebmischung/欲動解離 Triebentmischung 」をまったく理解していない、いや1920年以降のフロイトの核心の問い「エロス/タナトス」、いやいや前期フロイトをふくめて全フロイトをまったく理解していずに訳されているとしか思えない。

そもそもフロイト終生の核心区分「拘束された gebundenen」/「拘束されないungebundenen」(結びつけられた/結びつけられない)とは「融合 mischung/脱融合entmischung」 の相似形である。後者は「自由な」という意味でもある。

心的装置の最初の、そしてもっとも重要な機能として、侵入する欲動蠢き anlangenden Triebregungen を「拘束 binden」すること、それを支配する一次過程 Primärvorgang を二次過程 Sekundärvorgang に置き換えること、その自由に流動する備給エネルギー frei bewegliche Besetzungsenergie をもっぱら静的な(強直性の)備給 ruhende (tonische) Besetzung に変化させることを我々は認めた。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)
快および不快 Lust und Unlustの感覚は、拘束された gebundenen 興奮過程と、拘束されない ungebundenen 興奮過程と、二つの興奮過程からおなじように生み出されるのであろうか。それならば拘束されていない ungebundenen 一次過程 Primärvorgänge が、拘束されたgebundenen 二次過程 Sekundärvorganges よりも、はるかにはげしい快・不快の二方向の感覚を生むことは、疑いをいれる余地がないだろう。(フロイト『快原理の彼岸』最終章、1920年)
罪責意識、処罰要求…これらは超自我に心的に拘束 gebundenされており、故にわれわれに知られるようになる部分にすぎない。この同じ力 Kraft のその他の部分は、どこか別の特定されない領域で、拘束された形式あるいは自由な形式 gebundener oder freier Form のいずれかの形で働いているのかも知れない。

このような現象として多くの人に認められる内的マゾヒズム immanenten Masochismusの現象…がある。こうしてわれわれは、心的過程が快の追求 Luststrebenによってのみ支配されるという信念をもはや放棄しなければならない。

これらの現象は、われわれがその目的にしたがって、攻撃欲動または破壊欲動と呼んでいるような、生命体に最初から存在している根源的な死の欲動 ursprünglichen Todestrieb の力能 Macht が、心的生活の中に存在しているという事実を示す指標なのである。…エロスと死の欲動という二つの原欲動 Urtriebeが結合したり対立したりして作用する Zusammen- und Gegeneinanderwirken という考え方だけが生命現象の多彩さBuntheit der Lebenserscheinungenを説明するものであり、けっしてそれらの一方だけをもってこれを説明しうるものではない。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

くり返せば、「ミックス mischung/脱ミックス entmischung」とは、初期のフロイト概念、「拘束された gebundenen/拘束されない ungebundene」(『心理学草稿』1895年)から、最晩年のフロイトの「拘束 Bindung/解体 aufzulösen」1940年に大いにかかわる語彙である。

もちろんポストフロイト研究者においてエロス/タナトスは忘れられつつあるとはいえーーようするにフロイトの骨抜きであるーー、かつまたどんな邦訳にも些細な誤謬はあるだろうが、フロイトの最も基本的概念につながる語彙の誤訳の繰返しは「絶句」ものである。

無知な連中はフロイト翻訳などしなかったらいいのに。

ーーそうすると21世紀の退行日本では誰も翻訳する人間がいなくなるんだろうか・・・

前回、フロイトとラカンの「凡人」(?)ぶりを示したところであるが(「苦痛のなかの快」)、ではフロイト翻訳の誤訳をはしたなくもくり返す日本退行フロイト学者はなんと呼べばよいのだろうか?

天上の神々を説き伏せられぬのなら、冥界を動かさん flectere si nequeo superos, acheronta movebo (ヴェルギリウス『アエネーイス』)

ーーフロイトの破廉恥な誤訳を反復して、地底を這いずりまわる蛆虫とならん

いやあこれでは「地底」や「蛆虫」にシツレイかもしれぬ。

桶の底をはいつくす
なめくじやむかでの踊り
わたしたちはすばやく狩りたてる
羽毛のない鳥やゴムの魚

ーー吉岡実「牧歌」より

羽毛のない研究者あるいはゴム学者とでも呼ぶべきであろうか・・・

いやあシツレイ! わたくしは、リビドーの退行による《欲動脱ミックス Triebentmischung》がはなはだしく、純粋なタナトスの顕現が頻出する類型、すなわち《リビドーによる死の欲動の飼い馴らし Bändigung des Todestriebes durch die Libido》がまったくうまくいっていないタイプなのである。

つまりフロイト曰くの《原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich》(フロイト、1937)は家畜化 bändigenがまったくなされていないのである。

とはいえ人は家畜化されすぎて羽毛がなくなってしまうのも困りものではなかろうか?