ーー前回記したように「欲動融合 Triebmischung」とは欲動混淆・欲動混同とも訳されうる語であるが、エロス欲動とタナトス欲動が融合・混淆・結ばれるという意味でもある。他方「欲動解離 Triebentmischung」とは、エロスとタナトスの融合が、脱融合(解離)するということである。
以下のドゥルーズ文における「生の欲動と混淆された mélanges avec des puIsions de vie」、「エロスと結ばれること La combinaison avec Eros 」・「快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir」・「純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur」等の表現に注意しながら読もう。
『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。
なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混淆された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれること La combinaison avec Eros は、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。
従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。無意識に「否 Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。
ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。
すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的 transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)
A:ドゥルーズは、純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur を「死の本能 l'instinct de mort」と呼んでいる。
B:エロス欲動と混淆されたもの mélanges avec des puIsions de vie を「死の欲動 les pulsions de mort」(死の諸欲動)をと呼んでいる。
ーーここでのドゥルーズの「死の欲動 les pulsions de mort/死の本能 l'instinct de mort」区分を人が受けいれるかどうかは別にして、この「分割」の仕方・その概念化はあまりにも見事である。
Aが欲動解離、Bが欲動融合にかかわるのは明らかである。
もちろん、これはドゥルーズのみの手柄ではなく、彼の師ジャン・イポリット Jean HyppoliteによるラカンのセミネールⅠ(1954年)での発言を思いださなければならない。ラカンの『エクリ』にもイポリットの発言として《欲動解離 Trebentmischung は純粋状態への回帰 retour à l'état purの一種》とある(《la Trebentmischung qui est une sorte de retour à l'état pur》(E886))。
さてフロイト自身の記述を抜き出そう。
われわれは二種類の欲動が融合 Mischung するという考えを仮定したのであるが、もしそうであればーーしばしば完全にーーそれが分離 Entmischung するという可能性も避けられないことになる。性欲動のサディズム的成分のうちに、われわれは有効な欲動融合 Triebmischung の模範的な例をみるだろう。独立したサディズムは倒錯として、もちろん極限にまで達してはいないが、分離(脱融合 Entmischung)の典型である。(……)
リビドー退行 Libidoregression の本質、たとえば性器期からサディズム的肛門期への退行の本質は、欲動解離 Triebentmischung にあ(る)。(フロイト『自我とエス』1923年)
当時のドゥルーズはフロイトの『快原理の彼岸』をはじめとして『自我とエス』、『マゾヒズムの経済論的問題』等を実に徹底的に読み込んでいる。
とりわけドゥルーズはマゾッホ論を書くことにより、フロイトのマゾヒズム論の次の核心的な文をおどろくべき豊かさで消化して概念化している。それは現在にいたるまでの(ほとんどの)フロイト学者などまったく及びもつかない見事さである。
純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえないのだということである。この欲動融合(欲動混淆 Triebvermischung) は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱融合 Entmischung) することもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
前後も含めて引用しよう。
(多細胞)生物のなかでリビドーは、そこでは支配的なものである死の欲動あるいは破壊欲動 Todes- oder Destruktionstrieb に出会う trifft。この欲動は、細胞体を崩壊させ、個々一切の有機体を無機的安定状態 Zustand der anorganischen Stabilität(たとえそれが単に相対的なものであるとしても)へ移行させようとする。リビドーはこの破壊欲動を無害なものにするという課題を持ち、そのため、この欲動の大部分を、ある特殊な器官系すなわち筋肉を用いてすぐさま外部に導き、外界の諸対象へと向かわせる。
これが、破壊欲動 Destruktionstrieb ・征服欲動 Bemächtigungstrieb ・権力への意志 Wille zur Macht と呼ばれるものである。この欲動の一部が直接性愛機能 Sexualfunktion に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズム eigentliche Sadismus である。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性的興奮によってそこにリビドー的に拘束される libidinös gebunden(結び合わされる)。これが原初的な ursprünglichen、性愛的マゾヒズム Masochismus zu erkennenである。
このようなリビドーによる死の欲動の飼い馴らし Bändigung des Todestriebes durch die Libido がどのような道程を経て、どのような手段で遂行されるかを生理学的に理解することは、われわれには不可能である。精神分析学的思考圏内でわれわれが推定できるのは、両種の欲動がきわめて複雑な度合でまざりあい絡みあい、その結果われわれはそもそも純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenというものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung がいつも問題にされざるをえないのだということである。この欲動融合(欲動混淆 Triebvermischung) は、ある種の作用の下では、ふたたび分離(脱融合 Entmischung) することもありうる。だが死の欲動 Todestriebe のうちどれほどの部分が、リビドーの付加物 libidinöse Zusätze への拘束(結び合わせ)による飼い馴らし Bändigung durch die Bindung を免れているかは、目下のところ推察できない。
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に移され終わったのち、その残余として内部には本来の性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として自分自身を対象とする。
ゆえにこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化Legierung von Todestrieb und Eros が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうるのであって、このような方法で以前の状況へ退行する regrediert と聞かされても驚くには当たらない。これが起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus 、1924年、既存訳を適宜変更)
こうしてドゥルーズのプルースト論における三区分の意味合いが瞭然とする。
①共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
②部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)
③強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)
②が欲動融合として現れる死の「欲動」であり、③が純粋状態のタナトスとしての死の「本能」である。①は概念的には純粋エロスとしてよいだろう。
だが実質上は、①の純粋エロス、③の純粋タナトスとはほとんどありえない。通常人はエロスとタナトスの混淆比が異なるだけの筈である。現在、一部のラカン派で言われている究極の自閉症者における中毒的享楽の反復症状とされるものが、ひょっとして③の純タナトスに近似するのかもしれないが、わたくしは「究極の自閉症」についてはまったく無知である。
さて上の三区分があらわれるドゥルーズのプルースト論の叙述を掲げよう。
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。
このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。
それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)
ここでドゥルーズは原抑圧としての純粋現前ということを言っているのを付記しておこう。これはもちろん純粋状態のタナトスにかかわる。現代主流ラカン派(ミレール派)もほぼ同様のことを言っている(「S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un」の末尾を見よ)。
エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
この『差異と反復』では三区分はない。 だが上のエロス/タナトスの二区分は、
・エロス:「共鳴の機械(エロス)+部分対象の機械(欲動)」
・タナトス:「強制された運動の機械(タナトス)」
として捉えるべきである。この考え方を敷衍すれば、超越論的原理としてのタナトス(死の本能)を基盤としてーー、《死の欲動 Todestriebe(=ドゥルーズの概念分割による「死の本能」)は本質的に唖であり、生命の騒乱はもっぱらエロス Eros から発するという印象は避けがたい。》(『自我とエス』1923年)ーー、人間はいわば「死の欲動スペクトラム」(エロスとタナトスの欲動融合の各混淆比)の生を送っているという考え方がもたらされるうる。すくなくともわたくしは次のフロイト文に依拠してそのように考える。
…………
生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為は、食物の取り入れ Einverleibung(エロス)という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすること(タナトス)である。性行為は、最も親密な結合 Vereinigung(エロス)という目的をもつ攻撃性 Aggression(タナトス)である。
この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという 二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力 Anziehung と斥力 Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)
…………
以上、『アンチエディプス』以降のドゥルーズにはラカン派からの批判ーーとくにその《欲望する機械 machine désirante》概念をめぐってーーがないではないが、この1970年以前のドゥルーズのフロイト読解はあまりにも水際立っている、とわたくしは思う。
最後にもう一度フロイト最晩年の草稿(フロイトの死の枕元にあったとされる論)から引用しておこう。もはや注釈は繰り返すまい(参照)。
ドゥルーズのエロスとタナトスの読解の見事さを証するするもうひとつの核心ーーわたくしが気づいた範囲でのーーは「引力と斥力」である。
《引力 attractionと斥力 répulsion》(ドゥルーズ『差異と反復』、1968年)
《引力 Anziehung と斥力 Abstossung 》(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)
とはいえ基本的には上に記したこと(融合/解離)の範囲内の話である(参照:「引力と斥力」)。
エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに「結び合わせ Bindung(拘束)」である。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を「解体 aufzulösen」 すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
ドゥルーズのエロスとタナトスの読解の見事さを証するするもうひとつの核心ーーわたくしが気づいた範囲でのーーは「引力と斥力」である。
《引力 attractionと斥力 répulsion》(ドゥルーズ『差異と反復』、1968年)
《引力 Anziehung と斥力 Abstossung 》(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)
とはいえ基本的には上に記したこと(融合/解離)の範囲内の話である(参照:「引力と斥力」)。