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2018年3月23日金曜日

ブラックホールの映像作家ヒッチコック

ヒッチコックの染み(眼差し=対象a)は母なる超自我 maternal superego (S(Ⱥ))を物質化している。(ジジェク『斜めから見る』)



母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (ラカン, S5, 15 Janvier 1958)




母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における純粋で単純な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)




母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)

ーーS(Ⱥ) 、すなわち穴Ⱥのシニフィアンである。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)




ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。.(ラカン, « Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir »,Écrits, 1966)

ーー《あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。》(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)

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イマージュは対象aを隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)

ミレールがここで言っている対象aは見せかけ semblant としての対象aではなく、《対象aは、大他者自体の水準において示されるである。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel》 (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

他方、見せかけとしての対象aとはイマージュに近似する。

ジャック=アラン・ミレールによって提案された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

《対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。》(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016)

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ボクは高所恐怖症でね、

……外部(現実)の危険は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この文に註がついている。

※註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実の不安に幾分か欲動の不安がさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する欲動の要求は、自分自身にむけられた破壊欲動であるマゾヒスム的欲動であるかもしれない。おそらくこの添加物によって、不安反応が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺し、脱落する場合が説明されるだろう。高所恐怖症(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近いものである。(同『制止、症状、不安』)

《マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus 》(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)=ー享楽という原マゾヒズム)

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昨晩、ゴダールの『(複数の)映画史』を眺めていたんだけど、こんな映像に行き当たるだけで、10分ぐらいは足が震えて冷や汗が出てしまうタイプなんだ。だからヒッチコックの映像の隠された意味合いがよく分かるという「錯覚に閉じこもる」ことができるよ。




最も愛された子供は、いつの日か不可解にも母が落ちるにまかせる子供であるl'enfant le plus aimé, c'est justement celui qu'un jour elle a laissé inexplicablement tomber …あなたがたは知っているだろう、ギリシャ悲劇において…我々はジロドゥーの洞察を見逃し得ない…これが、クリテムネストラ Clytemnestra についてのエレクトラ Electra の最も深刻な不満である。ある日、クリテムネストラはその腕からエレクトクラを落ちるにまかせたのだ…(ラカン、S10「不安セミネール」, 23 Janvier l963)

ーーなおここでの記述は、「母の三界」と「女に貪り喰われる恐怖」を前提としている。

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※付記

ラカンがイマジネール(想像的)な審級について語ったとき、彼は見られ得るイマージュについて語った。鳩は空虚に関心はない Le pigeon ne s'intéresse pas au vide。イマージュの場処に空虚があるなら、鳩はそこでは成長しない 。昆虫は繁殖しない 。

しかし、次の事実がある。すなわち、いったん象徴界が導入されたときでも、ラカンは想像界について話すことを止めない。彼はまだ想像界について頻繁に語っている。だが想像界の定義はまったく変貌したのである。ポスト象徴的想像界 L'imaginaire postsymbolique は、象徴界の審級が導入される以前の、前象徴的想像界 l'imaginaire présymbolique とはひどく異なる。

象徴界が導入された後、いかにして想像界の概念は移行したのか?  厳密に言おう。想像界の最も重要な部分は、見られ得ないものである ce qui ne peut pas se voir。とくに、例としてセミネールIV「対象関係」で展開された臨床実践の核を取り出すとすれば、女性のファルス le phallus féminin、母なるファルス le phallus maternel がある。それが想像的ファルス le phallus imaginaire と呼ばれるのは、パラドクスである。というのは人はまさに想像的ファルスを見ることができないのだから。それはほとんど、想像力 imagination の問題であるかのようである。

ラカンの名高い鏡像段階 le stade du miroir における観察と理論化において、イマジネールな審級は本質的に知覚 perception と繋がっていた。ところが象徴界が導入されたとき、想像界と知覚とのあいだの分離がある。…これが意味するのは、想像界と象徴界の接合であり、したがって知覚からの分離という命題である。すなわち、イマージュは見られ得ないものをスクリーンする(隠蔽する)l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir。(ジャック=アラン・ミレール『享楽の監獄』1994年)