私は強調する、女というもの La femme は存在しない n'existe pas と。それは単なる「文字 la lettre」である。女というものが、大他者はない il n'y a pas d'Autre、すなわちS(Ⱥ)というシニフィアンである限りでの「文字」である。(ラカン、S18, 17 Mars 1971)
《ラカンにとって女とは何だろうか? …解剖学的観点からの女の問題ではない。そうではなく、シニフィアンとしての象徴的意味作用における女の問題である。難題は、我々はしばしばイマジネールな女の意味に囚われたままであることだ。結果として、具象的な女のイメージから逃れえず、論理内での場の観点における女を考えることができないでいる。
ラカンは性別化の式で女をLⱥ Femme と書いている。つまり女とはシニフィアンであり、中身はない。》(Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF)
私が今年取り組んでいるのは、フロイトが明らかに考慮に入れていないことである。
フロイト曰く « Was will das Weib ? »、つまり «女は何を欲するのか? Que veut la Femme ? »ーー フロイトは、男性的リビドーだけがある il n'y a de libido que masculine と主張した。それはどんな意味だというのだろう、明瞭に無視してよいわけではない領野が無視されているのでなかったら? すべての人間にとってのこの領野…言わば…あなたがたがそう想定するのがお好きなら…彼女の宿命…
…彼女を女 La femme と呼ぶのは適切でない。…女は非全体 pas tout なのだから、我々は 女 La femme とは書き得ない。唯一、斜線を引かれた « La » 、すなわち Lⱥ があるだけだ。
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。これだけで彼女は二重化される。彼女は« 非全体 pas toute »なのだ。というのは、彼女は大きなファルスgrand Φ とも関係があるのだから。…(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
※S(Ⱥ) についての詳細は、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を参照(前期ラカンと後期ラカンで意味内容の移行がある)。
ここではミレールによる簡潔な定義のみを掲げる。
S(Ⱥ)、すなわち《斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré》。これは、《ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne》である。(ミレール、Jacques Alain Miller, 6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN, pdf)
さらにいえば、 S(Ⱥ)は、フロイトの原抑圧のシニフィアンである。原抑圧とは原固着のことであり、ラカン概念のサントーム=身体の出来事のシニフィアンでもある(参照:サントームと固着)。
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。《サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps》 (miller, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)
したがって、以下のミレールの言明が「女性の享楽」をめぐるひとつの核心だろう。
さてラカンに戻る。
ーー通常は「大他者の享楽」と訳される"jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。
非男は女である(カントの否定判断)。だが非女とは男ではない。女性性内部の裂目、それが非女である(無限判断)。
⋯⋯⋯⋯
以下、Liora Goderの「ラカンにとって女とは何か、女性の享楽とは何か?What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan?」PDF)
ーーこの図の注釈は「ヒステリー的身体と女の身体」を見よ。
このLiora Goderの文は、女性の享楽とは、「女性」とは実は関係がないことが示されている。もっとも標準的には女性の享楽は、解剖学的な女性のほうにより多く現ると言われることが多い。
だが女性の享楽とは身体の享楽のことであり、自閉症的享楽なのである。
ようするに、非ファルス享楽ーーファルス享楽(言語内享楽)の非全体に外立する(外に立つ)享楽ーー、これが「女性の享楽」「身体の享楽」「他の享楽」と呼ばれるものである。
さて、「女性の享楽」が解剖学的男性にも現れることを示す Liora Goder によるすぐれて具体的な説明は以下の文にある。
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard
…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation
…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011)
さてラカンに戻る。
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972ーーヒステリー的身体と女の身体)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
ーー通常は「大他者の享楽」と訳される"jouissance de l'Autre"を「他の享楽」と訳した理由は、「ラカンの「大他者の享楽」」を見よ。
男でない全ては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は全てではない(非全体) pas « tout » なのだから、どうして女でない全てが男だというのか?
Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (S19, 10 Mai 1972)
非男は女である(カントの否定判断)。だが非女とは男ではない。女性性内部の裂目、それが非女である(無限判断)。
仮に私が魂について「魂は死なない」と言ったとすれば、私は否定判断によって少なくとも一つの誤謬を除去したことになるだろう。ところで「魂は不死である die Seele ist nichtsterblich」という命題による場合には、私は魂を不死の実体という無制限の外延中に定置することによって、論理の形式面からは事実肯定したことになる。(……)
[後者の命題が主張するのは]魂とは、死すものがことごとく除去されてもなお残るところの、無限に多くのものの一つである、ということに他ならない。(……)しかし、この[あらゆる可能なものの]空間はこのように死すものが除去されるにも関わらず、依然として無限であり、もっと多くの部分が取り去られても、そのために魂の概念が少しも増大したり肯定的に規定されるということはありえない。(カント『純粋理性批判』)
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以下、Liora Goderの「ラカンにとって女とは何か、女性の享楽とは何か?What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan?」PDF)
昼間、学校から家に戻って来た一人の少女。彼女は、母が用意してくれた温かい食事をとるために、台所のテーブルに座る。母はテーブルの向こう側に座っている。母は既に夫と一緒に食事をとったけれど、娘につき合って学校での様子について娘の話をきくことを望んでいる。
少女は美味しい食事を食べ始め、いくつかの母の質問に応える。けれども少女が食事のあいだにほんとうに望んでいるのは、学校の騒動から離れて家庭の静けさと落ち着きに戻って、自分自身と向き合うことだった。
二人はそんなふうに向かい合って座っている。すこしづつ沈黙が領しはじめる。少女は食事に集中してゆく。突然彼女は顔をあげ、目前にぞっとするような眼をふたつ見た。人間的なところは何もない空っぽで不動の両眼が、彼女を見つめている。まるで母は世界から消え去てしまったかのようで、母の場に置き残していったのは、少女を見ないままで見つめている怪物の眼。少女はこの眼差しの下に震えおののく。この光景を前にして目を伏せることができない。
この光景は幼年期に何度も繰り返された。彼女は、思春期をへて、妻になり、仕事をもつ。あの眼差しが戻って来る。そして何年も後の分析治療のあいだに、眼差しはふたたび現れる。常に次の問いを伴ってーー「母はどこにいったのだろう、私に固着した空っぽの眼差しを置き残したとき」。そして常に同じ答えをする、「母はアウシュヴィッツに戻ったんだわ。あんな怪物はアウシュヴィッツ以外の何ものでもありえない」。(Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF)
ーーこの図の注釈は「ヒステリー的身体と女の身体」を見よ。
このLiora Goderの文は、女性の享楽とは、「女性」とは実は関係がないことが示されている。もっとも標準的には女性の享楽は、解剖学的な女性のほうにより多く現ると言われることが多い。
だが女性の享楽とは身体の享楽のことであり、自閉症的享楽なのである。
身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
ようするに、非ファルス享楽ーーファルス享楽(言語内享楽)の非全体に外立する(外に立つ)享楽ーー、これが「女性の享楽」「身体の享楽」「他の享楽」と呼ばれるものである。
コレット・ソレールは次のような表現の仕方をしている。
女性の「他の享楽」、それは社会的つながりから排除されたものである。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
さて、「女性の享楽」が解剖学的男性にも現れることを示す Liora Goder によるすぐれて具体的な説明は以下の文にある。
話は理想的で満足感を与えてくれる母のイメージで始まる。けれども突然、この母のイメージはどこかに消え去せ、「女性の享楽」が完全な生身で現れる。母は絶対的な大他者となる。もはや母はいない。母は眼差しの奈落のなかへと消滅し、会話から完全な外部・あらゆる絆の彼方・すべてのコミュニケーションの彼岸へと向かって接触を断つ。
この小さな女の子の「女性の享楽」との出会いは、トラウマ的である。少女は後に、彼女を恐怖で竦ませ戦慄させたこの享楽への魅惑を練り上げるようになる。この光景は反復される。小さな女の子として、思春期の乙女として、若い女性として、彼女は常にこの光景に回帰する。この回帰は同じ問いを伴っている。母はどこに行ったのか? この問いはトラウマ的「女性の享楽」を意味に結びつける試みである。応答として「アウシュヴィッツ」を想像することは、どこでもない場所から彼女の母を取り戻し、母の歴史に再結合しようとする試みである。そうすることによって、母(あの刻限、主体を滅却させてしまった母)を主体として位置づけようとする。
何年も後の若い女性の分析において、何か別のものが現れる。アウシュヴィッツについての無意識的幻想のなかで、彼女の母はハンサムなナチ将校を欲望した。小さな女の子は、母が口にしたことのある「ハンサムなドイツ人」についての発言を元に、この性的幻想を構築した。この幻想は小さな女の子を、トラウマ的「女性の享楽」にファルス的意味合いを繋げることを可能にした。
少女の享楽との出会いは、非ファルス的享楽との出会いであったにもかかわらず、彼女は母を男たちを愛する性的女として位置づけることに成功した。男たちを欲望する母についてのこの幻想は、後年、パートナーの選択を彼女に指定したものとまさに同じ幻想である。しかしパートナー特定の選択を決定づけたものは厳密に、彼女の母の「女性の享楽」に関する少女の魅惑の点だった。
彼女をダンスに誘った若い男が、踊りの最中に己れのなかに没入して、彼自身の顔の上に「女性の享楽」の表出させ、彼女から自身を切り離して遠くに行ってしまったまさにその瞬間、彼女はたちまち恋に落ちた。
目を閉じた若い男の恍惚状態は、男を彼女の母の「女性の享楽」に繋げる特定の徴である。そしてその徴が彼女の愛を鼓舞した。明らかに彼女はそれに気づいていなかった。彼女は途方もなく素敵に踊るハンサムな男に恋に落ちた。彼女は知らなかった。数年の臨床分析を経て、彼女がこの男に魅了されたものは、母のなかに出会ったトラウマ的「女性の享楽」と直かに結びついているのに感づいた。
しかしながらこの享楽は、ファルス的衣装を着せられていた。言い換えれば、小さな女の子にとって非ファルス的享楽は、ファルス的享楽の対象a に変形された。愛の生活のエロス化と標準化を可能にするファルス関数は、享楽の堪え難いトラウマ的臍が、魅惑をもたらすエロス的・性的衣装のなかで、ファルス化された対象a へと変質するような仕方で作用した。
このファルス的衣装が、現実界的対象の恐怖をアマルガム化された対象への移行を可能にする。したがって「女性の享楽」は、彼女のパートナーのなかで既にこの変形を受けていた。少女の母のなかの硬直した・死のような享楽は、享楽で充溢した踊る身体とその童顔へと変形された。このメタモルフォーゼは、既にファルス的衣装ーー恐怖の対象からアマルガム化された対象に向けての移行を促すファルス的衣装ーーの効果をもっている。
この事例では二つの点が興味深い。
第一に、パートナーとして選ばれた男は「女性の享楽」へのアクセスを持つものとして同定された。したがって、性別化の式の女性側に印される。この例は、生物学的な解剖構造によって定義される男が、完全に女性側に己れを位置づけうるという観察を我々に許してくれる。そしてこれは彼をホモセクシャルにするわけではない。
第二に、そして結論として、対象a ーーファルス享楽の対象であり、それ自体、パートナーの魅力とエロス化され性化されたイメージによって衣装を着せられてなければならないーーは、この特徴ある事例では、「女性の享楽」を覆っていた。したがって我々はここで、二重の衣装化をみる。すなわちトラウマ的女性の享楽は対象a によって覆われファルス化される。そしてこの対象a 自体が、魅惑的ダンサーによって覆いを着せられていた。(Liora Goder, What is a Woman and What is Feminine Jouissance in Lacan? 、PDF)