2016年7月17日日曜日

カレ見てると「自分を祝福して、えらい人のように思う」わ

ふたたび、ゲーテのファウストの引用から始める(参照:「もし、美しいお嬢さん」)。

グレエトヘン(マルガレエテ)

今までは余所の娘が間違でもすると、
わたしもどんなにか元気好くけなしただろう。
余所の人のしたと云う罪咎を責めるには、
わたしもどんなにか詞数が多かっただろう。
人のした事が黒く見える。その黒さが
足りないので、一層黒く塗ろうとする。
そして自分を祝福して、えらい人のように思う

ーーゲーテ「ファウスト」森鴎外訳


古典的な心理的メカニズムとはいえ、グレエトヘンの口からきけるとは、思いの外だった(若いころ、ファウストに一度目を通したことがないではないが、完全な飛ばし読みであり、なんの印象も残っていない)。

さて、ここでフロイトとプルーストを並べて、マルガレエテの言葉と「ともに」読んでみよう。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))
……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」)

さらにニーチェをつけ加えてもよい。

およそあらゆる人間の運命のうち最も苛酷な不幸は、地上の権力者が同時に第一級の人物ではないことだ。そのとき一切は虚偽であり、ゆがんだもの、奇怪なものとなる。

さらに、権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」とーー(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第四部「王たちとの会話」手塚富雄訳)

この論理をいっそう展開させれば、民主主義のもとではーーその首長選択の選挙形態や国民性などにもよるがーー、我々は最下級の権力者を見出して自ら安堵するという傾向をもつ(場合がある)という見解さえも納得的に読むことができる。

アメリカ民主主義を特徴づける多元主義は、〈不能な他者〉への忠誠に基礎が置かれている。(コプチェク、Joan Copjec, Read My Desire. Lacan against the Historicists.1994)

これは主にロナルド・レーガンの事例を分析した叙述であり、コプチェクがここで言いたいのは、レーガンはまさに無能であるからこそ愛された〈王〉だったということだ。

ジジェクもレーガンやベルススコーニなどの例を挙げて、次のように記している。

(我々の時代において)直接的な野蛮性から「人間の顔をした」野蛮性への移行。ここで、「人間的、あまりに人間的な」指導者、ベルルスコーニという形象は決定的である。というのは、現在のイタリアは、我々の未来の実験工場だから。我々の政治的風景が、悲観的リベラルテクノクラシーと原理主義的ポピュリズムのあいだで分断されるなら、ベルルスコーニの「偉大な」成果は、この二つを統合したことである。彼は両方とも同時に捕えたのだ。

(…)古典的政治の尊厳は、市民社会における個別の利害の戯れを超えた「昇華」を基盤としている。すなわち、政治は、市民社会から「隔離されている」。政治は、中産階級を特徴づける私利私欲の相克とは対照的に「市民」の理想的地位として、自らを提示した。

ベルルスコーニは、この「隔離」を事実上廃棄した。現代イタリアにおいては、国家権力は、底に横たわる中産階級によって直接的に行使される。彼は、己れの経済的利益を保護するために、破廉恥で開けっぴろげに国家権力を食い物にする。そして、TV画面を眺める何百万の観衆の前で、下品な暴露ショーのスタイルにて、私的な結婚問題の汚れた下着を洗う。(……)

ロナルド・レーガン(そしてアルゼンチンのカルロス・メナム)は…「テフロン加工」の大統領であり、ポスト・エディプス的として特徴づけうる。すなわち、「ポストモダン」大統領は、もはや選挙の公約への一貫性にくそまじめになることさえ期待されない。したがって、批判に損なわれることはない(思い出そう、レーガンの人気は、ジャーナリストたちが彼の失策を列挙したことを受けて、公衆の前に現れるたびに、うなぎ上りになったことを)。

この新しい種類の大統領は、ナイーヴな高揚とほとんど無慈悲な不正操作を混淆させているように見える。

ベルルスコーニの下品な俗物性の賭金は、もちろん、彼が標準的なイタリア人の神話的イメージを具現化、あるいは上演する限りで、人びとが彼に同一化するだろうということだ。「私は、あなたたちのうちの一人だ。いささか堕落して、法律と面倒な関係にある。私は妻から転げ落ちた。というのは他の女にぞっこんになったからだ…」。(…)

たとえベルルスコーニが威厳のない道化だとしてもむやみにあざ笑わないことだ。たぶん彼を笑うことで、われわれはすでに術中に陥っている。ベルルスコーニの笑いはもっと不快で狂気じみた、バットマンやスーパーマン映画の敵役の笑いである。彼の支配の本質についての考察を得るには、『バットマン』に出てくるジョーカーが権力を持った場合を想像するべきだ。(ジジェク、ポストモダンの共産主義、2009、私訳ーー、一部、ネット上から拾えた箇所は、既存の訳を使用)

ーー《人びとが彼(ベルルスコーニ)に同一化する》とある。これは投影(投射)の考え方を主に言っている。

想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。

象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989)

もっともより精緻にーーラカン理論に依拠してーー言えば、次のような説明がなされる。

一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投影 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)

注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投影を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「形式」を提供すると(セミネールⅠ)。 ( (ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa 『主体性と他者性』Subjectivity and Otherness、2007)

ーーとはいえ、今はこの解釈に深入りすることはしない。 同一化には、取り込みと投影が混淆しているということをここでは示しておくだけにする。

さて、象徴的同一化の場合、その同一化の対象(人物)は、必ずしもすぐれた対象である必要はない。《そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような》対象であることが肝腎な場合が多い。

グレエトヘン(マルガレエテ)は、《余所の娘が間違でもすると、わたしもどんなにか元気好くけなしただろう》と言っていた。そして、《人のした事が黒く見える。その黒さが足りないので、一層黒く塗ろうとする。そして自分を祝福して、えらい人のように思う》ともあった。

ここにも《余所の娘》との象徴的同一化と類似したものがある、とわたくしは思う。それは一般に語られる同一化とはやや異なるが、いわば「憎むことを愛する」のと似たような機制が働いているはずだ。

フロイトの“無意識”とは、……まさに反射性のなかに刻みこまれる。例をあげよう。だれかこの私がヒッチコックの映画の悪党のような人物を“憎むことを愛する”。私は一見この悪役を憎むだけだ。にもかかわらず無意識的には私は(彼を愛しているわけではない、しかし)彼を憎むことを愛するのだ。すなわち、ここにある無意識とは、わたしは反射的に私の意識的な態度に関連させる方法なのだ。(あるいは逆のケースをあげよう。だれかこの私は“愛することを憎む”。フィルムノワールのヒーローは、悪魔的な宿命の女(ファムファタール)を愛さざるをえない、しかし彼女を愛することを彼自身は憎んでいる)。これがラカン曰くの人間の欲望はつねに欲望することを欲望することだの意味である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

フロイト起源の一般的な同一化のメカニズムは次の通り。

ーーここで先にフロイトは《同情は同一化から生まれる》(『集団心理学と自我の分析』)と瞠目することを言っているのを思い出しておこう。すなわち同情するから同一化するのではなく、同一化するから同情する。とすれば、「憎むことを愛する」のは、同一化から生まれるとさえいいうる。

例えば、われわれが同一化する人物は、文字“r”を発音する風変わりな仕方があり、そしてわれわれはそれを同じような仕方で発音し始める。それがすべてである。他の振舞いを試みること、すなわち、この人物のように服を着る、彼女がすることをするなどは、必要がない。フロイト自身、この類の同一化のいくつかの興味深い例を提供している。例えば、他の人物の特有な咳の仕方を模倣する。あるいは少女の寄宿舎の名高い例がある。少女たちの一人が彼女の秘密の恋人から手紙を受け取った。その手紙は彼女を動顛させ嫉妬心で満たした。それはヒステリーの発作の形を取った。引き続いて、同じ寄宿舎の何人かの別の少女たちは同じヒステリーの発作に襲われる。彼女らは彼女の密通を知っており、彼女の愛を羨んでいた。そして彼女のようになりたい、と。とはいえ、この彼女との同一化は、奇妙な形をとっており、すなわち、問題の少女において、彼女の密かな恋の危機の瞬間に現われた特徴に同一化する形である。(ジュパンチッチ、WhenSurplus Enjoyment Meets Surplus Value"(Alenka Zupancic)PDFーー享楽とシニフィアン

いずれにせよ、人は、ベルルスコーニやレーガンが醜悪さを曝すとき、一介の市民に過ぎない自分が彼らよりも《えらい人のように思》えて、心地よく感じたり安堵したりする場合があるのではないだろうか。そうして(ときに)親近感が生まれる。さらに俗物ーー「人間的、あまりに人間的な」ーーであるからこそ愛される指導者になる場合があるのではないだろうか。

そこからニーチェの言っていることへは半歩しかない、《権力をもつ者が最下級の者であり、人間であるよりは畜類である場合には、しだいに賤民の値が騰貴してくる。そしてついには賤民の徳がこう言うようになる。「見よ、われのみが徳だ」》と。

さらにはベルススコーニの「私は、あなたたちのうちの一人だ。いささか堕落して、法律と面倒な関係にある。私は妻から転げ落ちた。というのは他の女にぞっこんになったからだ…」という状況に遭遇すれば、一般市民たちは自らの否認された悪を彼に投影してスッキリし、残余の誠実な自分を《祝福して》、いっそう《えらい人のように思う》ことがあるのではないか。

これは次の心理的メカニズムの変奏である。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)

マスコミに集中砲火を浴び、苦境に立つ「被害者」ーーそれは脳軟化症的であったり、破廉恥な道化師であったりするだろうーーの厚顔無恥な弁明に同一化することにより、自らのはしたなさを束の間にしろ忘れることができる「幸せ」に浸りうるということはないだろうか。

あるいは自らのかかえる首長が、我々の仲間のうちのひとりにすぎないのなら、ある種の権力欲が満たされることはないだろうか。

差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。(中井久夫「いじめの政治学」)

ところでベルルスコーニは、《標準的なイタリア人の神話的イメージを具現化、あるいは上演》した人物とされているが、標準的な日本人の神話的イメージとはなんであろうか。

曖昧模糊とした春のようなイメージ、空気を読みつつ、「いつのまにかそう成る会社主義 corporatism」の国(柄谷行人)の、「おみこしの熱狂と無責任」な人物像(中井久夫)、「事を荒立てるかわりに、『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」共感の共同体の「土人」(浅田彰)等々か? それとも単純に「反知性主義者」と言ってしまえばよいのか。

安倍晋三さんはバカだ。しかもただのバカではなく病気である。…しかし、彼が首相の座にいるのは、私たち自身が病気だからである。(小出裕章 2014.0202)

 ーーカレ見てると、「自分を祝福して、えらい人のように思う」わ・・・

レーガンの場合と同じように、ポストエディプス的な首相は、《もはや選挙の公約への一貫性にくそまじめになることさえ期待されない》。これも我々は最近、消費増税の約束をあっさり反故にするさまを見た。

我が国の首相のあり方は、もちろん米国やイタリアとは異なる。こうやって単純に精神分析的観点を導入することをきらう人もいるだろう。だが、精神分析などとはいわず、古典的なーーマルガリエテ的なーー心理学のメカニズムと類似した現象はその多寡はあれ到るところで働いているには相違ない(そうでなかったら、なぜ内閣支持率が50%を超えたままであり続けるのか)。

(※もちろんシルバーデモクラシーのせい(彼らにとって当面の日常的安定を一見約束してくれそうな政権支持)とか、《こうなっているのは2つの大きな要因がありますね。/ひとつは自民党一強、野党不在の政治状況。/もうひとつはメディアが安倍政権を怖がって批判を控えていることです》(「これほど異常な民主政国家は見たことがない。」ーーニューヨーク・タイムズ東京支局長)等の議論を知らないわけではないが、ここでは、それを除外しての「心理学的な」記述である。)

しかも現在は、ゲーテの時代とは異なり、ポストエディプスの時代である。その時代にさらにつけ加わる政治的指導者の「標準的」特質とはなにか?

ジャック=アラン・ミレールが、ジャック・ラカンのエラスムス的調子、『痴愚神礼讃』の調子をもって言った「みな狂人だ、みな妄想的だ」(参照)。これは、みな精神病的であることを意味しない。そうではなく、このすべては、21世紀における我々の現代的調査、すなわち、精神病とは、我々にとって何を意味するのかの問いである。

それはちょうど、精神病のふつうの地位が、普遍的な拡がりを持っていることを意味しないのと同様に、我々は精神病的主体から引き出した教訓は、「父の機能」が消滅したわけではないことだ。父の機能は残っている。変形されてはいるが。

父はいる。よりふつうの位置の父が。ラカンはこの父を次のように呼んだ。まだ「ウケる(épater)」ことができる父、印象づけ驚かすことができる父、「オヤジ言葉」で演技する父と。彼は「例外」を構成する者だ。我々を驚かす能力がある者だ。ジャック=アラン・ミレールは、これを示す例を取り上げている。現代の政治家は、それが道化師の機能のようであってさえ、印象づけようと奮闘している、メディアやコミュニケーション産業に囚われつつ、印象づけようと努めている、と。もちろん、これは正しい仕方でなされなければならない。(エリック・ロラン,2012(ERIC LAURENT: PSYCHOSIS, OR RADICAL BELIEF IN THE SYMPTOM ーー「ふつうの妄想・ふつうの父の名・原抑圧の時代」)


もちろん、民主主義において、つねに「不能な他者」や「道化親父」ばかりを選ぶわけではないだろう。

たとえばマイノリティー出身(黒人、女性、移民等々)の首長を選べば、庶民的な正義感は満足させられるということがある。これも選択肢のうちのひとつである。

すなわち、その首長から見れば、〈私〉は《愛するに値するように見えるような》存在となることができる。反差別主義者としての誠実な〈私〉にうっとりしてしまう・・・

その〈私〉が、見せかけだけの反差別主義者だったらなおさらだ。

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面“pro-feminist” PC surfaceをちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

ここで唐突にーー飛躍するが長くなりすぎるのでーー、もう一度こう強調しておこう。

たとえベルルスコーニが威厳のない道化だとしてもむやみにあざ笑わないことだ。たぶん彼を笑うことで、われわれはすでに術中に陥っている

この数年反安倍で奮闘してきたはずのリベラルインテリ諸氏たちは、現在、なにかにハメられてしまった気はしていないのだろうか・・・

…………

さて、だが現在の民主主義において、さらにいっそう「根源的な」問いかけがある。

マルクスは、ヨーロッパの議会制民主主義の黎明期に、所見を述べた。この制度によって選ばれた政府は、たんにーー彼曰く--「資本の力に基づく」ものだ、と。しかしこれは、現在のほうがかつてより、はるかにいっそう真実だ! 民主主義が代表象 representationであるなら、何よりも先ず、全体的システムからの来る形式の代表象である。言い換えれば、選挙による民主主義は、資本主義ーー今日では「市場経済」と改名されている--の合意の上の代表象より以上の多くのものを代表象しない。これが底に横たわる腐敗である。(バディウ、Democracy and corruption: a philosophy of equality, by Alain Badiou、2014)

このバディウの文は、2014年に記されたもののようだが、彼は以前から似たようなことを言っているのだろう、ジジェクの『ポストモダンの共産主義』2009にもほぼ同じ内容のバディウの引用があり、 次のようなコメントを付している。

バディウは、民主主義における腐敗の二つのタイプ(むしろ、二つのレヴェル)のあいだの区別を提案している。すなわち、事実上の経験的腐敗、そして民主主義のまさに形式に付属する腐敗。後者は、政治を私的利益の交渉に格下げすることを伴っている。

このギャップは次の「稀な」事例において明瞭になる。すなわち、誠実な「民主主義的」政治家が、経験的腐敗に対して闘っていながら、それにもかかわらず、腐敗の形式的空間を支えているという事例だ。(ジジェク、2009)

ここで言っているのは、《要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。イデオロギーが我々の欲望にとっての囮として機能する仕方を強化する。ドゥルーズ&ガタリが言ったように、それは我々自身の圧制と奴隷へと導く》(Levi R. Bryant PDF)ということだ(参照:きみたちの「燻製ニシンの虚偽」)

こうして、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》(バディウ)という「挑発」につながってゆく(参照:民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である)。

現在の民主主義とは、バディウ=マルクス的にいえば、《政治を私的利益の交渉に格下げする》(ジジェク)という資本の論理の母胎の上で成り立っている。これはややわかりにくいかもしれない形で、「現代思想・文芸という「支配的思想=支配階級の思想」」で記したことでもある。

不思議なのは、われわれがそうと知りつつ、このゲームをつづけていることだ。あたかも選択の自由があるかのようにふるまいながら、(「言論の自由」を守るふりをして発せられる)隠された命令によって行動や思考を指図されることを黙って受け入れるばかりか、命令されることを要求すらしている。マルクスが大昔に指摘した通り、秘密は形式自体にある。(ジジェク、2009ーー人間の顔をした世界資本主義者たち