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2016年7月18日月曜日

《みずからのトゲを抜こうとする努力》から、《むき出しの市場原理》への移行

柄谷行人)『資本論』で、マルクスは、ヘーゲルにしたがって、内部的な論理的発展として記述するんだけれども、ヘーゲルと違うのは、その都度の段階に、論理的には演繹できないような外部をその都度導入しているわけです。それがいわば歴史(出来事)ということですね。(……)

岩井克人)…それはマルクスのいちばん有効なヘーゲル批判だと思うんですね。歴史の出来事性というのは、じつは、資本の「論理」、ヘーゲル的な意味での「論理」ではない資本の「論理」があってはじめて可能になるんです。資本の「論理」の徹底的な形式性が同時に出来事性を生み出してしまうことになる。(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)

…………

現代思想・文芸という「支配的思想=支配階級の思想」」にて、柄谷行人の次の文を引用した。

「形式化」が、たんに形式/内容の逆転ではありえず、{(形式/内容)内容}という構図そのものの逆転であらざるをえないことが明らかになるだろう。そして、この逆転は、{(内容/形式)形式}に帰結するだろう。デリダのいう「自己再固有化の法則」とはこのことである。そして、彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』所収ーー実存主義→構造主義→ポスト構造主義→ポスト・ポスト構造主義の変遷をめぐって

そして、{(差異/同一性)同一性}→{(同一性/差異)差異}という記述を、ラカン理論であるならば、{(非全体/例外 )例外}→{(例外/非全体)非全体}、デリダ的なら、{(女/男)男}→{(男/女)女}となるだろう、とした。

ここではこの想定をもう少し詳しくみてみることにする。

…………

以下、冒頭の文と同じく、『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)より(岩井克人発言)。


【ふたつの資本主義】
じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。


【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】 
そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。


【資本の論理=差異性の論理】 
……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。

ーー柄谷行人の応答。《資本主義というものを「主義」ではないひとつの現実性として見、どんな「主義」も「イデオロギー」もそのなかに入ってしまうような「資本の論理」を解明しようとしたのは、マルクスですね。いわゆる「共産主義」というのは、国家資本主義的形態であって、世界資本主義の外部にあるのではない。つまりソ連圏というのは明らかに世界資本主義圏に属しているわけで、逆に言うと、ソ連圏を取ると、世界資本主義については充分には語りえないはずです。……》

※参照:ユートピアンとしての道具的理性instrumental reason主義者たち


以下、図式化してみることにする。

まず柄谷行人の言っていることはこうだった。



以下に岩井克人やラカン派の議論の図式化をするが、柄谷行人の次の叙述が全面的には当てはまりがたいところがある。ここでの図式化はとりあえずの試みである。

第二項は、「第一項/第二項」の対立に属すると同時に、第一項において不可避的に生じる「不両立関係」(パラドックス)を回避するために見出されるメタレベルであり、そしてこの上下(クラスとメンバー)の混同を禁止するところに、いわば「形而上学」がある。つまり、プラトン以来の哲学は、たんなる二分法によるのではなく、この対立がもつ自己言及的なパラドックスを“禁止”するところにあった。しかし、それはけっして“禁止”できない、というのは、それは形式的にコンシステントであろうとするかぎり、「決定不能性」におちいるからである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』)

さて、岩井克人の指摘する、1989年を境にした移行とは次のように図式化しうる。



資本の論理とは、別に資本の欲動、市場原理主義などと呼ばれるが、新自由主義、世界資本主義ともされ、非イデオロギー的イデオロギーとされる。

とすれば、次のように書き換えうる。




ラカンによって「主人の言説」から「資本家の言説」への移行と言われる内容を、例外の論理(男性の論理)と非全体pas-toutの論理(女性の論理)に置き換えて言えば、次のようになる。




ーーわたくしがこのように図式化するベースは次の記述による。

・女性の論理は、差異性、偶然性、単独性を強調する。

・男性的社会構造は、超越性と必然性のタームにて考え得る。主体にかんしての指導者やボス、父親、神、国等々の超越性と、これらの主体が如何に法と関わるかについてである。

・反対に女性的社会構造は、内在的かつ偶然的である。ここでの強調点は、断然に、絶えず流動的で変貌する関係性のネットワーク形式にある。これらのネットワークは、前世紀に大惨事を引き起こした集団的幻想と同じような怖るべき分岐形成物を生み出さない限りで、いっそう魅力的であるにもかかわらず、女性的ネットワークは、一連の他の問題を引き起こす。一方で、この社会的形式を基盤としたネットワークは、政治的闘争が決定的に難しい。というのは、敵がどこにいるのかはっきりしないからだ。(Levi R. Bryan,Surplus-jouissance, Desire, and Fantasy


ところでラカン主流派(ミレール派)では、「20世紀の神経症の時代から21世紀の精神病の時代へ」と言われる。これは臨床的デフォルトが、神経症から精神病へと移行したということである(あるいは抑圧から原抑圧への移行[参照])。

とすれば次のように図式化しうる。





人間の症状は、社会構造によって生まれる。超自我社会(父権制社会)の倫理(禁止と抑圧)によって神経症は生まれた。

その後、第一次世界大戦での西欧の父の危機、1968年の世界的な学生運動、1989年の冷戦の終わりを経て、現在のわれわれの社会がある。すなわち、《 自由、平等、所有そしてベンサム(Freiheit, Gleiheit,EigentumundBentham)》(マルクス『資本論』)の時代。ベンサム主義(経済の論理、効率の論理)とは非イデオロギー的イデオロギーの時代である。

この時代には抑圧はかつてのようなものではない。抑圧の斜陽の時代には「欲望のデフレ」が起こる。そのとき欲望の症状を裸にされた人間にあらわれるのは、原抑圧にかかわる「欲動」である。

同じように、1989年以降の資本の論理が母胎となった時代とは、資本の欲動の時代である。

資本の欲動という言葉は、ジジェクがひんぱんにくり返して口にしているが、ここではジジェクではなく柄谷行人から抜き出しておこう。

資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』ーー「欠如と穴(欲望と欲動)」)

この移行とは、若い世代、ようするに人格形成期を1989年以降に送った世代にとっては、気づきにくい。資本の論理という非イデオロギーだからことさらだ。「聡明な」思想家・批評家でさえも、この資本の論理がデフォルトになってしまっており、批判の言葉が出るのはまれなように感じる。それは、我々の時代の「所与の“環境”」となっているには相違ないが、彼らは、母胎に目を配るのではなく、母胎の上での活動をしているだけのように見える。

…もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983)

ここで、この移行を敏感に感じ取った旧世代の「精神科医」の感慨を掲げておこう。ここには、《みずからのトゲを抜こうとする努力》の時代から、《むき出しの市場原理》の時代への移行という表現がある。

ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(中井久夫「私の「今」」1996.8初出『アリアドネからの糸』所収)

とはいえ、むき出しの市場の原理という母胎(分母)の上で、人はなんらかの抵抗をしているだろう。だが、それは釈迦の掌の上の闘いであり、逆に分母を強化してしまう場合がある。

要するに、「善い」選択自体が、支配的イデオロギーを強化するように機能する。(Levi R. Bryant PDFきみたちの「燻製ニシンの虚偽」)

ではどうしたらよいのか。

個人の症状について、という限りでにおいてだが、後期ラカン理論によれば、むき出しの症状(原症状)に直面したとき、その症状と同一化しつつも距離をとりなければならない、ということが言われる。

……s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme(Lacan,S.24)

この処方箋は、社会の原症状(資本の欲動)についてもある程度当てはまるはずだ。それは、バディウやジジェクなら新しい主人のシニフィアンの設置(コミュニズム仮説等)といい、柄谷行人からは統整的理念(世界共和国)の提案がある。貨幣の観点からメスを入れた、ビットコインなどや世界中央銀行提案などもこの考え方の文脈のなかにあるのかもしれない。

結局、イデオロギー的父の名(支配の論理)を取り払っても、我々はなんらかの新しい支えが必要である。支えとは、ラカン派観点なら、クッションの綴じ目 point du capiton という。

ポワン・ド・キャピトン point du capiton の凡その意味は次の通り。袋状にしたカバーのなかに羽毛や綿を詰めたクッションは、そのままでは、不安定で非一貫的である(中身がすぐに偏ってしまう)。「クッションの綴じ目」は、この詰め物の偏りを防ぐためのものであり、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が抜けてしまわないようにボタンをつけたりする。このボタンが、主人のシニフィアン S1 である。むき出しの市場原理の時代に直面して、「言葉を探さなければならない」などと言われたりすることは、このヴァリエーションのはずだ。

(冒頭に掲げた岩井克人=マルクスの《資本の「論理」の徹底的な形式性が同時に出来事性を生み出してしまう》という文にある「出来事」についても、ひょっとしたら、バディウの 「空虚」から生まれる mise-en-un (「一」への形成)--ラカンの「無からの創造」としてのサントーム=「一」のシニフィアン≒主人のシニフィアン S1の変種と読みうるかもしれない。《un événement de corps = sinthome》 Lacan,,AE.569,1975)

S1は理論的には次のようなことが言われるが、容易には機能しがたいだろうことはすでに実験済みーー日本でも柄谷行人によってーーだとさえいえる。

〈主人のシニフィアン〉とは何だろう?社会的崩壊の混乱状況を想像してみよう。そこでは、 結合力のあるイデオロギーの力はその効果を失っている。そのような状況では、〈主人〉は 新しいシニフィアンを発明する人物だ。そのシニフィアンとは、名高い「縫合点」、すなわち、状況をふたたび安定化させ、判読可能にするものである。 (……)〈主人〉は新しいポジティヴな内容をつけ加えるわけではまったくない。――彼はたんにシニフィアンをつけ加えるだけだが、突如として無秩序は秩序、ランボーが言ったような「新しいハーモニー」に変ずるのだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

最後に岩井克人の文章を付記しておく。

わたしたちは後戻りすることはできない。共同体的社会も社会主義国も、多くはすでに遠い過去のものとなった。ひとは歴史のなかで、自由なるものを知ってしまったのである。そして、いかに危険に満ちていようとも、ひとが自由をもとめ続けるかぎり、グローバル市場経済は必然である。自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。資本主義を抑圧することは、そのまま自由を抑圧することなのである。そして、資本主義が抑圧されていないかぎり、それはそれまで市場化されていなかった地域を市場化し、それまで分断されていた市場と市場とを統合していく運動をやめることはない。

二十一世紀という世紀において、わたしたちは、純粋なるがゆえに危機に満ちたグローバル市場経済のなかで生きていかざるをえない。そして、この「宿命」を認識しないかぎり、二十一世紀の危機にたいする処方箋も、二十一世紀の繁栄にむけての設計図も書くことは不可能である。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』

…………

※付記

「みずからのトゲを抜こうとする努力」の時代の機制については、中井久夫とともに、次のジジェクの叙述が水際立っている。

私の興味をひいたのは、東側と西側が相互に「魅入られる」ということでした。これは「幻想」の構造です。ラカンにとって、究極の幻想的な対象とはあなたが見るものというより、「まなざし」自体なのです。西側を魅惑したのは、正統的な民主主義の勃発なのではなく、西側に向けられた東側の「まなざし」なのです。この考え方というのは、私たちの民主主義は腐敗しており、もはや民主主義への熱狂は持っていないのにもかかわらず、私たちの外部にはいまだ私たちに向けて視線をやり、私たちを讃美し、私たちのようになりたいと願う人びとがいる、ということです。すなわち私たちは私たち自身を信じていないにもかかわらず、私たちの外部にはまだ私たちを信じている人たちがいるということなのです。西側における政治的な階級にある人びと、あるいはより広く公衆においてさえ、究極的に魅惑されたことは、西に向けられた東の魅惑された「まなざし」だったのです。これが幻想の構造なのです、すなわち「まなざし」それ自体ということです。

そして東側に魅惑された西側だけではなく、西側に魅惑された東側もあったのです。だから私たちには二重の密接な関係があるのです。(Conversations with Žižek, with Glyn Daly、私訳)

…………

※追記

というわけではあるが、さて欧米的にはこういうことが言え、さらに日本でも資本の論理という面ではある程度は上に記したような移行はあるにしろ、文化的にはどうなのか。日本はもともと非イデオロギーの国ではなかったか・・・

ーーということについては、「見せかけの国 l'empire des semblants」と「ファルスの国 l'empire du phallus」 にいくらか記した。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。 イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎな い。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。ドストエフスキーの『悪霊』な んかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないん じゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていい たくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思うんです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけではなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間 が見えなくなったところからきている。しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつか れる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山真男、針生一郎との対談『丸山座 談5』)

言ってしまえば、日本という社会の構造は、基本的に非全体の論理が母胎にあり続けたのではないだろうか。すなわち上の図式化をくり返せば、次のような国だったのではないか。





もっとも明治維新以降、1945年までの「疑似一神教」の時代だけはいささか異なるという観点はあるだろう。だが、それは例外的な期間ではないだろうか。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(……)

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

柄谷行人は、かつて、コジューヴの日本文化論(日本的スノビズム)を語りつつ、《日本的な生活様式とは実際に江戸文化のこと》としている。

江戸文化とは、江戸幕府の基本政策によって醸成された。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」)

というわけで、近代日本社会とは《みずからのトゲを抜こうとする努力》をしたことがあったのだろうか、と問うてもよい。

日本は先進国である。ラカン派における21世紀の症状、「ふつうの精神病」(ミレール派)あるいは「ふつうの倒錯」(メルマン派)の、水際立った先進国である・・・




ということについても、柄谷行人がすでに1992年に指摘している(いささか精神分析用語の混乱はあるにしろ)。

……思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統御するような権力が成立したことがなかった。それは、明治以後のドイツ化においても実は成立しなかった。戦争期のファシズムにおいてさえ、実際は、ドイツのヒットラーはいうまでもなく、今日のフランスでもミッテラン大統領がもつほどの集権的な権力が成立しなかったし、実はその必要もなかったのである。それは、ここでは、国家と社会の区別が厳密に存在しないということである。逆にいえば、社会に対するものとしての国家も、国家に対するものとしての社会も存在しない。ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。

ところで、それは、もし「国家」を構築的なもの、「社会」を生成的なものとして区別するならば、この国では、構築と生成の区別が厳密に存在しないということを意味する。あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。国学者の本居宣長が、中国的な思考に対して、日本の原理としてとりだしたのは、そうした生成である。しかし、それはニーチェがいうような生成ではない。また、構築のないところで、生成を唱えることには大して意味はない。

日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。フーコーは、精神分析の「抑圧」という概念に反対した。その意味では、日本には「抑圧」とそれが生み出す「主体」はない。しかし、ラカン的にいえば、「排除」があるというべきだろう。すなわち、それは原抑圧の失敗であり、去勢の否認である。日本の言説空間は、外からの原理による去勢を排除してしまった分裂病的な空間であるといえるかもしれない。見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。しかし、そのことに批判的にこだわることは、逆にそれに閉じこめられうことに帰結する。フーコーは「日本」を愛さなかった。そして、私がフーコーに共感するのは、具体的に「生」の形態を変える「自由」を楽天(ゲイ)的に求めようとしたことにおいてである。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)