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2016年7月18日月曜日

「芸能人」と「政治家」が置かれる同一構造の場

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」1867年)

私は仕事のための場をふたつもっている。ひとつはパリに、そしてもうひとつはいなかに。二ヶ所に、共通の品物はひとつもない。何ひとつとして運んだことがないからだ。それにもかかわらず、これらふたつの場所は同一性をもっている。なぜか? 用具類(用紙、ペン、机、振子時計、灰皿)の配置が同じだからである。空間の同一性を成立させるのはその構造なのだ。この私的な現象を見ただけでも十分に、構造主義というものがはっきりわかるだろう。すなわち、体系は事物の存在より重要である、ということだ。(『彼自身によるロラン・バルト』)

諸関係、体系、--すなわち構造が、個人の「アイデンティティ」を作る。

たとえば、芸能人と政治家、場合によってはジャーナリストは同じ構造の場に置かれている。




三宅洋平 ‏@MIYAKE_YOHEI

昭恵さんは、その場で総理と俺を繋いでくれた。「立場は各々ながら、国を思い世界を憂う国士として同じ気持ちだと思っています。選挙では多少口を荒らしましたが、失礼します。」と伝え「大丈夫です、それが選挙ですから」と。



岡崎乾二郎 ‏@kenjirookazaki

@MIYAKE_YOHEI  君に会うことで寛容を誇示したのは安倍夫妻である。それを歓迎した君は自身の小人物、人間ラシサという欺瞞への弱さを示した。この欺瞞と闘ってきたはずの君は裏切られた者たちに代わって『あなたを人間として絶対信じることはできない』というべきだったのではないか?
情にほだされ、ナアナアに騙される芸術家多すぎる。人間味を感じさせない芸術家はつまらないが情を知りつつ、その情を毅然と断ち切るのが芸術のディグニティだろう。ならば、そこに何者にも流されず、自律的判断があるという信頼も確保されうる。芸術家自ら情に溺れることは結局は外部の排除を意味する

ーーとくにコメントはない・・・

さて話を元に戻せば、文学者や芸術家でさえ、出発点がかりに異なることが多いとはいえ、芸能人と同じ構造の場に置かれてしまうことがある。

芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光を当たられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。(中井久夫「創造と癒し序説」『アリアドネからの糸』所収)

《あきらかなことだが、われわれを連れ去ろうとする人たちは、はなばなしくもそうぞうしい外観の花火により、賞賛により、侮辱により、皮肉により、恥辱により、威嚇によって、われわれの注意をおびえさせ、疲れさせ、がっかりさせることからまずはじめる。》(アラン『プロポ』)

…………

何度もくりかえし引用しているが、もっともわかりやすい説明としてクンデラの叙述をふたたび掲げる(参照:「manque à être(存在欠如)」としての「承認欲望」の必然

クンデラは他者の眼差しの四つのカテゴリーを次ぎのように記している。

《誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)。

【第一のカテゴリー】

第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる

クンデラはこのように書き、そこでその小説の登場人物の例があげられている、《これはドイツの歌手、アメリカの女優、それにまた、大きなあごをした編集者のケースである.。彼は自分の読者に慣れており、ある日ロシア人が彼の週刊新聞を廃止したとき、百倍も薄い大気の中に残されたように感じた。何人〔なんびと〕も、知らない人びとの目という視線を彼におぎなってやることはできなかった。彼は息がつまるように思えた。するとある日のこと、たえず警察につけられ、電話が盗聴され、それどころか路上で密かに写真を撮られていることに気がついた。無名の目が突然いたるところで彼と共にあり、彼はふたたび息をふきかえすことができた。幸福になった! 壁に仕込まれたマイクに芝居のせりふのように話しかけた。警察の中に失われた大衆を見出したのである》、と。

もちろん、このカテゴリーには「政治家」も含まれる。

例えば政治家になる道を選ぶ人間は、その人間が大衆の好意を得るという、素朴でむき出しの信仰を持って、自らすすんで大衆を自分の判定者にする。

【第二のカテゴリー】

第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。

――そして、《この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す》、と。


【第三のカテゴリー】

次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。

――こう書かれ、そして彼の小説の主人公の二人の名があげられる、《この人たちの中にテレザとトマーシュが入る》と。


【第四のカテゴリー】

そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。

――ここでも小説の登場人物の名があげられる。

・《フランツ。彼はただサビナのためにのみカンボジア国境まで歩を運んでいる。バスはタイの道路をがたがたと走り、フランツは彼のことをじっと見ているサビナの長い視線を感ずるのである。》

・《トマーシュの息子。……憧れを抱く目はトマーシュの目である。署名運動にまき込まれた後、彼は大学からほうり出された。彼がつき合っていた娘は田舎の仔細の姪であった。彼女と結婚し、集団農場のトラクター運転手、カトリック信者、父親になった。そのあと誰かから、トマーシュも田舎に住んでいることをきき、喜んだ。運命が二人の人生をつり合のとらた道へと導いた! このことが、トマーシュへ手紙を書かせる勇気を与えた。返事は要求しなかった。ただトマーシュが視線を彼の人生にあてることだけを欲した。》

…………

以下、最も標準的だと思われるアイデンティティ論を付記(参照:「アイデンティティ」という語の濫用/復活

◆ポール・ヴェルハーゲ、2013の「アイデンティティ」レクチャア冒頭の私訳。

ーーPaul Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities”


【あなたは誰?】

私的な質問から始めさせて下さい、「あなたは誰?」と。これは昔からある問いです。そしてことさら現代では、答えるのにとても難しいものです。どうして難しいのかといえば、アイデンティティとはどのようなものかについて、全く間違った考え方が見出されるからです。数多くの歴史的理由で、私たちは考えています、私たちのアイデンティティとは、なにか実体的なもので、私たちのなかに深く根ざしたほとんど不変のエッセンスのようなもの、生得の、遺伝的、などなどの何かだと。私は最初から私自身であり、その後いささかの変化はあるにもかかわらず、私は、生涯、私自身のままだろう、と。

これは完全に間違っています。あなたはその考えから、出来るだけはやく逃れれば逃れるほどよいでしょう。これが間違っているのを明らかにする最も簡単な仕方は、養子について考えてみることです。インドのラジュスタンで生まれた女児で、スウェーデン人の親によってウプサラで育ったのなら、スウェーデンの女性になります。同じ子どもがフランス人の親の養子になりパリで育ったのなら、パリジェンヌになります。逆もまた真です。おそらくいっそう受け入れがたいでしょうが。もしあなたが、赤子として、スーダンのムスリムカップルによって養子にされてハルツームで育ったのなら、あなたはスーダンアイデンティティをもつようになります。つまり、あなたはまったく異なった誰かになります。

結論としては、アイデンティティとは構築 construction に帰着するのです。そこでは文化が決定的な役割を果たします。これは私たちに別の二つの問いをもたらします、どうやって構築されるのか、そしてこの構築の内容はなんなのだろう、と。この問いに答えるための十分な科学的根拠があります。そこには二つの過程が働いています。すなわち同一化 identification と分離 separation です。


【同一化】

同一化は今ではミラーリング mirroring(鏡に反映すること・鏡像化)と呼ばれます。そして、それは同一化を言い換えるとても相応しい仕方です。このミラーリングは私たちの生の最初の日から始まります。赤子はお腹がへったり寒かったりして泣き叫びます。そして魔法のように、ママが現れます。彼女は心地よい声を立て、赤ちゃんに話しかけます、彼女が考えるところの、なにが上手くいってないのかを乳児に向けて語り、彼女自身の顔でその感情を真似てみせます。このシンプルな相互作用、何百回とくり返される効果のなんと重要なことでしょう。私たちは、何を感じているのか、なぜこの感情をもつのか、そしてもっと一般的には、私たちは誰なのか、を他者が告げ私たちに示してくれるのです。空腹とオシメから先に進み、世話をやく人から子どもへのメッセージは、すぐに、よりいっそう入り組んだものになり、かつ幅広くなります。

幼児期以降、私たちは継続的に、なにを感じ、なぜそう感じ、これらの感じをどのように取り扱うか、取り扱うべきでないかを教えられています。私たちは聞くのです、良い子なのかいたずらっ子なのか、美しいのか醜いのか、おばあちゃんのように頑固なのか、パパのように賢いのか、と。同時に、自分のカラダや他人のカカラダで何ができて何ができないのかを聞かされます(すこしは大人しく座ってなさい! あなたの弟にかまいすぎないで! ダメよ、耳にピースなんてしたら!)。こういったことすべては、私たちは誰で、どうすべきで、どうすべきではないかを明らかにします。


【母の鏡に映るグラン・ナラティヴ】

どの心理学理論も認めています、これらの乳幼児と母のあいだの最初のやり取り、そして子どもと親たちのあいだのそれの重要性を。それはアイデンティティの構築のためのものなのです。とはいえ、この重要性はある片寄った観点を導き入れます。私たちは忘れがちになってしまうのです、両親はただ彼ら自身が受け取ったもののみを鏡に反映するということを。彼らのメッセージは無からは生まれません。私たちの家族は、自分の文化、ーー地方の、宗教の、国民の等々ーーの重要な考え方を鏡に反映させるのです。物語や考え方、それは、家族や私たちが所属する社会階級、わたしたちがその部分である文化によって、私たちに手渡されるのですがーー、こういったものすべての「鏡像」が、混じりあって、象徴的秩序、より大きな集団の偉大なる語り the Great Narrative を作り上げるのです。それが多かれ少なかれ共通のアイデンティティを生みます。より多くの語り(ナラティヴ)が共有されれば、よりいっそう私たちは似たもの同士になります。

この共有された語りの重要性は計り知れません。というのは、それは私たちの存在の関するexistential 問いに答えてくれるからです。「真の」男とはなに? あるいは「真の」女とは? 男女の関係はどうあるべきか? キャリアと親であることの場と意義とはなんだろう? 男にとってと、女にとっての違いは? 権威への態度はどうあるべきか? どうやって取り扱うべきか、性、病い、死を? 私たちは答えを探すなか、象徴秩序 symbolic order や偉大なる語りたち the great narratives に頼ります。それは複数形です。というのは、異なった語りがあり、異なった答えがあるからです。たとえばあなたがスウェーデンで育ったなら、デンマークで育った誰かとは異なります。鏡に反映されるものがやはりわずかにでも異なるのですから。より高いレベルでは、両者ともスカンジナビアンです。その意味は、南ヨーロッパ人とは異なるということです。さらに高いレベルでは、西ヨーロッパ人です。アメリカ人等々とは異なるということです。そして確かなことは、これは人種とはまったく関係ないことです。もう一度、養子について考えてみてください。

というわけで、私たちのアイデンティティの構成の最初の過程は同一化です。まだラテン語をご存知の方にとっては、アイデンティティと同一化は同じ語源を共有しているのがお分かりでしょう、“IDEM”の意味、それは、“同じ”、“相似”です。私たちは他者と同類になることによって己れのアイデンティティを築いてゆくのです。そしてこれはふつう気づかれていません、私たちは皆異なると思っているのです。(…)


【独立心という錯覚】

さて、「私はそうではない “I am not” 」と人が言うとき、私たち二番目の過程に導かれます。分離、それは相違を導入します。私たちは異なったようになります、というのは、初期の段階以降、私たちはある同一化のモデルを拒絶し、他のモデルを好むようになるからです。どの親も経験します、二歳のよちよち歩きの子どもがムズカシクなり、自分の意志を示すようになります。そのとき彼もしくは彼女が、同時に二つの新しい単語を発見するのは偶然ではありません。その単語とは、「イヤ no」と「自分 me」であり、とてもしばしば、その二語を組み合わせて使います。自立の要求がふたたびほとばしり出るのは思春期で、それはその時期のホルモン分泌の強度のなかでです。今度は独立心の錯覚を伴っています(ぼくが自分自身で決めるよ!)。ある範囲で、この独立心は錯覚なのです。というのは基本的には、分離は、ある同一化を拒絶し、他の代替を選ぶことに帰結するからです。その意味は別の鏡に反映させるということです。同一化と分離の組み合せが意味するのは、最初期から、私たちのアイデンティティは、類似と相違のあいだの天秤だということです。私たちは引き裂かれるのです、他者に溶け込む促しと、他者から距離をとる促しのあいだで。

最初の過程はいかにも逃れようがありません。二番目の過程はもっと自由があります。というのは自身で選択できるからです。注意しましょう、変化の可能性そのものが、まさに私たちのアイデンティティを構成する仕方なのです。変化は二つの方向からやって来ます。鏡が変わるかもしれないこと、あるいは私たち自身が異なった選択をすること。さてこれから以降の話は、現代の鏡に集中します。そしてその鏡が私たちのアイデンティティに齎すものについて。


【重要な他者と関係する私独自の仕方】

今度は、二番目の問いに関わります。私たちのアイデンティティの内容についてです。ここでふたたび、私は「私は誰なのか」についての直感的な考え方を訂正しなくてはなりません。個人主義のこの時代、私たちは数多くのパーソナリティーの特徴をもって、その質問に応答するでしょう。そして忽ち、それでは満足させてくれるものからほど遠いのを見出します。より格段に興味深く、かつ私たちのアイデンティティを表わすために訂正したほうがいいことは、数多くの鍵となる点における「私たちは誰なのか」――それを明らかにする基礎的な関係の見地です。

基本的に、「私が私である」のは、ある重要な他者と関係する私独自の仕方によります。もっと個別的に言うなら、私が他のジェンダーに関わる仕方、他の世代に、私の同僚に、そして最終的には、私自身に関わる仕方です。実に、幼児期以来受け取ってきたジェンダーのアイデンティティを鏡に映すことは、同時にジェンダーの関係を鏡に映すことでもあります。私の男性性は、いかに女性性に気づき学んできたかによって決定されます。もし私が女性をすべての悪の根源、私を罪に陥れるものと思い込んでいたなら、私は恐々とした、厳格な男ーー己れの煩悩に打ち勝つための闘争を女性に投影する男ーーになるでしょう。もし私が女性を優しく思いやりのある、けれども、支配的な存在だと感じていたなら、私はそこから永遠に逃れようと努める大きな息子 man-son になるでしょう。等々。これ等は、男と女の本質を定める努力の運命づけられた特質です。

ジェンダーの関係についての社会の信念は、二番目の重要な他者との係わりにそのすべてがあります。その他者と私たちは多かれ少なかれ継続的な関係を打ち立てます、その名は権威としての他者です。私たちの権威の形象 figure への態度は、私たちのアイデンティティの別の重要な部分を形作ります。批評的かつ反抗的? 服従的かつ支持的? 攻撃的かつ競争的? これもまた、私たちの同一化を通して獲得されたなにかです。私のアイデンティティの三番目の重要な内容は、私の同輩、はじめは兄妹、のちには同僚や隣人との関係にかかわります。嫉妬的? 支持的? 競争的? 私たちのほとんどは、同輩との関係の典型的な仕方を持っています、しばしば十分に、そして自らそれに気づかないままで。


【「私 me」を判定する「私 I」】

これらの三つの関係に、私たちのアイデンティティが構成される仕方を容易に認めることができます。でもまだ四番目があります。それは驚くかもしれませんが、私たち自身と持つ関係です。一見びっくりするように思えるかもしれませんが、それを描写するのはたいして難しくありません。毎朝、バスルームの鏡で、私たちは私たち自身と対話を交わすことから始め、それは終日続きます。私は私自身に怒っているかもしれません。喜んでいるかも、失望しているかも。というのは「私 me」を判定する「私 I」は、判定される「 私 me」とは異なった同一化を基盤にしているからです。「私たち自身 ourselves」への怒りや満足は、継続することもあり得ます。すると、それは自己嫌悪や自己愛 self-hatred or self-loveに導かれます。自己敬愛と自己尊重 self-esteem and self-respect の高い低い、等々。これらの語彙の接頭辞 ‘自己self' が生み出すのは、私たちのアイデンティティはある本質的な生得の個性を構成するという印象です。私たちは忘れています、そのような個性は、他者が私たちの振舞いを解釈し鏡に反映させる仕方によって決定されていることを。他者が決定するのです、私が私自身について考える仕方を。自己信頼、自己敬愛、自己尊重はよりよく理解されるでしょう、他者の信頼、他者の敬愛、他者の尊重というもともとの文脈で。すなわち、他者が私たちを信頼し、敬愛し、尊重した範囲が、私たちの自己信頼、自己敬愛、自己尊重に反映されるのです。


【地層にあるイデオロギーを基盤としたアイデンティティ】

こういうわけで、私たちのアイデンティティの内容は、重要な他者との継続的な関係というタームでもっともよく理解することができます。でも、これは、説明としては、いささか控え目すぎるようにきこえます。私はつけ加えなければなりません、なにかもっとリアルに響くような重要なことを。異性という他者、権威、同輩、そして最終的には私たち自身との関係は、けっして偏らないものではありません。権威の人物は、最初の段階で、私たちに告げます、私たちはなにができるのか、私たちの体や他者の体でなにができないのか、と。それは楽しみが犠牲にされたり、また犠牲にされなかったりします。こういったことすべては、していいこととしてはいけないことの議論へダイレクトに餌づけします。この意味で、規範や価値観は、私たちのアイデンティティの全面的なものなのです。そんなに昔のことではありません、こういった特徴が美徳という形で表現されたのは。たとえば、注意深さ、正義、自己コントロール、忍耐深さ。あるいは逆に基本的な悪として。たとえば、傲慢、強欲、好色、憤怒、等々。これは驚きをもって聞かれるかもしれない結論を引き起します。すなわち、私たちのアイデンティティは、個人の特徴の中立的な盛り合わせではけっしてないのです。そうではなく、私たちが同一化した(あるいは同一化しなかった)道徳的な、なにをするべきか、なにをすべきではないのかにすべてかかわるのです。

これが意味するのは、どのアイデンティティも地層にあるイデオロギーを基礎としているということです。そのイデオロギーという用語は、私がとても幅広く解釈する意味では、人間関係、そしてその関係を調節する異なった仕方についての考え方の集合体ということです。歴史は示してくれます、イデオロギーは他のイデオロギーに対抗して考案されることを。その結果、私たちのなかに他のイデオロギーに反対する思考態度を生み出します。異なった特色のある規範と価値観をともなう異なったイデオロギーは、異なったアイデンティティを決定づけます。考えてみてください、“本当の”社会主義者、“典型的な”カソリック、さらには“本当のフィンランド人”さえをも。言い換えれば、彼らのイデオロギーとそれに付随したアイデンティティは、重要な他者にむかっての、“標準的な”、あるいは“正しい”態度として見なされることの異なった解釈にあるのです。


【社会的動物としての人間】

さてここで、これまで説明してきたことを要約してみましょう。私たちのアイデンティティは構築物です。それは私たちの文化の支配的な語りを基礎としています。その語りとは、他の性、権威、私たちの同輩、私たち自身に向けて基本的な関係の立場を定めます。これはけっして中立的なものではなく、つねに倫理的に操られています。私は想像することができます、あなた方はこれらすべてにおいて遺伝学の場所について思いを巡らしているのを。答えはまったく単純です。遺伝子それ自体のレベルでは、私たちの心理学的なアイデンティティの内容が遺伝的に決定されているなんの証拠もないのです、けれども、この点に関して、格段に重要な別の遺伝的形質の形式があります。進化生物学は、私たちは社会的な動物であることを教えてくれます。その意味は、私たちは集団にて生きていくことになっていることです。もし私たちが独りだけになった社会種族を見出すのなら、可能な答えは二つしかありまでん。病気か、集団から追い払われたか。そしてふつうはその両方です。

霊長類の研究からの二番目の発見、なかんずくオランダの生物学者フランス・ドゥ・ヴァールFrans de Waal によれば、私たちは二つの異なった振舞いにあらかじめ配置されているのです。一方では、協調と連帯。他方では、競争的個人主義とエゴイズム。そして彼の調査から得られるさらにいっそう重要な結論があります。それは、どの振舞いが優位になるかを決定するのは環境だということです。

あなた方がこれらの二つの振舞いについて考えるのなら、アイデンティティの構築の二つの過程をその二つの振舞いに戻って見出すのはそんなに難しくはないでしょう。同一化は集団への傾向にかかわり、分離は個人主義の必要にかかわる、と。けれども、ーーふたたび強調しますがーー私たちはまずなによりも忘れるべきではありません、私たちが社会的動物であることを。フランス・ドゥ・ヴァールによる美しい実験があります、それは私たちの生得の公正への感情を明らかにしています。それは相互作用と感情移入のより大きな研究の部分です。あなた方は見るでしょう、それはすべてモラルについてなのです。すなわちアイデンティティについて、という意味です。