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2016年1月20日水曜日

「manque à être(存在欠如)」としての「承認欲望」の必然

「承認欲求」という概念が日本ではかねてより流通している。と記せば、何か文句をいいたいのか、と思われる方もイラッシャルかもしれないが、文句を言うつもりは毛筋ほどもない。

ただし、ラカンは「欲求 need(besoin)」「要求 demand(demande)」「欲望 desire」の概念を次ぎのように区分けしている。

ヒトの個人は、ある対象で満足させられる生物学的欲求を持つ特定の器官から出発する。言語の習得はこれらの欲求 besoin にどのような影響をおよぼすだろうか? 

すべての発話 parole は要求 demande である。なぜなら、発話はその発話の宛先となる大文字の他者と、組織立てられた表現=公式化 formulation のなかに運び込まれるその諸シニフィアンを事前に前提しているからである。同様にして、大文字の他者から来るものは、欲求の個別の満足のようにではなく、むしろ訴え appeal、贈り物 gift、愛のしるし token of love に対する返答として扱われる。欲求とそれを伝える要求のあいだに十全性 adequetion はない。実際、それら2つのあいだのギャップは、欲求のようにすぐに特定の欲望を構成するのと、要求のように絶対的に欲望を構成するのとの違いである。欲望(基本的に単独で)は、象徴的表現=はっきりいうこと articulation の持続的効果である。それは食欲のような何かを満たすための欲 appetite ではない。欲望は、本質的にエキセントリックであり、飽くこと、つまり満足することをしらない。ラカンが欲望を、欲望を満たすように見える対象ではなく、欲望を引き起こす対象と等置したのはこのためである。(アラン・シェリダン訳Ecritsの序文)

このラカン理論による定義であるならば、承認欲求であるよりは、「承認欲望」のほうが好ましい。

もし他人がわれわれの望みに応えてくれたとしたら、彼はそれによってわれわれにたいしてある一定の態度表明をしたことになる。したがって、ある物にたいするわれわれの要求の最終目標は、その物と結びついた欲求の満足ではなくて、われわれにたいする他者の態度を確かめることなのである。たとえば子どもにミルクをやるとき、ミルクは彼女の愛情の証になる。(ジジェク『斜めから見る』1991)

乳児は、空腹感のため、母乳が飲みたい(欲求)。そして泣き叫ぶ(要求)。母がやってきて乳を与える(欲求の満足)。この過程は、しかし要求の弁証法によって、母の愛情の証をもとめる欲望に変質していく、というわけだ。

「承認欲求」概念は、巷間では嘲弄のために使用されることがあるだろう、アイツは承認欲求の塊りみたいなヤツだ、などと。

だが「承認欲望」とすれば、ラカン理論的には、それは人間の最も根本的なものである。以下の文章をそれを説明している。

◆PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR A Qualitative Study From a Lacanian Perspective(Stijn Vanheule, PhD Ghent University Paul Verhaeghe, PhD Ghent, Belgium, and Ghent University、2005)より(PDF,私訳)。

ーー表題にあるように BURNOUT(燃え尽き症候群)をラカンの鏡像理論によって解釈する論だが、その前段箇所より。

ラカンの思考においての決定的な「かなめ」は、人びとは、オリジナルな、あるいは固有のアイデンティティを持っていない、ということだ。逆に、ラカンにとって、アイデンティティの臍は、内なる欠如あるいは空虚によって構成されている。人間の主体性は、 manque à être(存在欠如)によって、根本的に徴づけられているとラカンは言う(LA DIRECTION DE LA CURE ,1958)。これが意味するのは、非同一的かつ掴みえない(ラカン用語では「現実界」の)「欠如」が、人びと自身の持っているすべての表象をかき乱すということであり、結果として「分裂(分割)された」アイデンティティをもたらす。

※ラカン理論におけるアイデンティティ概念の詳細は、「「アイデンティティ」という語の濫用/復活」を参照のこと。

一方で、我々の存在の核に、この捻じ曲がりを生む空虚がある。その空虚は、すべて身体的な欲動にかかわる。他方で、我々は自己表象をもっている。それはラカンが「象徴秩序」と呼ぶものを基盤にしている(象徴秩序とは、すべての典型的な文化生産物から成り立っている。言語、慣習、社会構造などだ)。その「象徴秩序」を基盤とした表象は、「manque à être(存在欠如)」を決して充分には掴み取ったり覆ったりしえない。

ラカンは言う、「manque à être(存在欠如)」は実際は「want to be (ありたい)」として機能する、と(ラカンは、"manque-à-être" の英訳を "want-to-be"にするよう提案している。とすれば、邦訳の「存在欠如」とは、いかにも、こごしくこちたない:引用者)。
言い換えれば、内部の欠如は、主体の欲望を駆り立ててdrives、補完物を求めるよう促す。人間は、典型的には、他者のほうに向くことによって、この欠如に打ち勝とうと目指す。人は、他者に呼びかけ、それによって暗黙に想定するのだ、他者への弁証法的関係において、存在の贈物が達成されうると。「欲望は…「ありたい want-to-be」に光をもたらす。〈他者〉からの補完物を受け取るための呼びかけとともに」(Lacan, 1958)。

(この1958年当時、「欲望」にかかわる manque à être とともに、「要求」にかかわる manque à avoir という表現もあることを想起しておこう)

この考え方の線内部では、承認されたいという欲望 the desire to be recognized は最も根本的になものである。というのは、その承認欲望は、より大きな主体性達成を獲得するための手段として機能するから。間主体(間主観)的な承認が言い表しているのは、他者の欲望が主体のところにやって来て、主体を他者と結びつけ、そうして主体を社会関係の構造に組み入れるということである。他者の承認は、主体のアイデンティティ欠如を、部分的に埋め合わせる。この社会関係の手段によって、主体は少なくとも、他者との関係のなかで、私は誰なのかという思いを展開しうる。

…………

以上から読み取れるのは、われわれには承認欲望は欠かせないということだ(例外はあるだろう、一部の精神病質者など)。誰に承認されたいかという相違はあるが、誰かが必要である。「孤独」を気取るのは馬鹿げている。

作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。(中井久夫「創造と癒し序説」

クンデラは他者の眼差しの四つのカテゴリーを次ぎのように記している。

《誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。》(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』より(p.310~)。

これは承認欲望の四つのカテゴリーとして捉え得る。

ーーまなざしと言説とは関係ないよ、拡大解釈すぎるよ、とオッシャル方がイラッシャルかもしれないが、そうではない。もし、そういう印象をうけるのであれば、「言説」という訳語がわるいのであって、言説には言語が必要あるが、パロールなしにも言説は成り立つ。事実、ラカンが四つの言説理論をはじめて語るようになったセミネールⅩⅦのひとつまえのセミネールⅩⅥで、ラカンは、《un discours sans parole》と連発している。

人は、各々の言説構造の場に置かれれば、無言のままでもそれぞれの言説として機能する。言説とは社会的絆にかかわるものであり、それはクンデラのいう眼差しとほぼ等しい。


【第一のカテゴリー】
第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。

クンデラはこのように書き、そこでその小説の登場人物の例があげられている、《これはドイツの歌手、アメリカの女優、それにまた、大きなあごをした編集者のケースである.。彼は自分の読者に慣れており、ある日ロシア人が彼の週刊新聞を廃止したとき、百倍も薄い大気の中に残されたように感じた。何人〔なんびと〕も、知らない人びとの目という視線を彼におぎなってやることはできなかった。彼は息がつまるように思えた。するとある日のこと、たえず警察につけられ、電話が盗聴され、それどころか路上で密かに写真を撮られていることに気がついた。無名の目が突然いたるところで彼と共にあり、彼はふたたび息をふきかえすことができた。幸福になった! 壁に仕込まれたマイクに芝居のせりふのように話しかけた。警察の中に失われた大衆を見出したのである》、と。もちろん、このカテゴリーには「政治家」も含まれるだろう。


【第二のカテゴリー】
第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。

――そして、《この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す》、と。


【第三のカテゴリー】
次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。

――こう書かれ、そして彼の小説の主人公の二人の名があげられる、《この人たちの中にテレザとトマーシュが入る》と。


【第四のカテゴリー】
そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。

――ここでも小説の登場人物の名があげられる。

・《フランツ。彼はただサビナのためにのみカンボジア国境まで歩を運んでいる。バスはタイの道路をがたがたと走り、フランツは彼のことをじっと見ているサビナの長い視線を感ずるのである。》

・《トマーシュの息子。……憧れを抱く目はトマーシュの目である。署名運動にまき込まれた後、彼は大学からほうり出された。彼がつき合っていた娘は田舎の仔細の姪であった。彼女と結婚し、集団農場のトラクター運転手、カトリック信者、父親になった。そのあと誰かから、トマーシュも田舎に住んでいることをきき、喜んだ。運命が二人の人生をつり合のとらた道へと導いた! このことが、トマーシュへ手紙を書かせる勇気を与えた。返事は要求しなかった。ただトマーシュが視線を彼の人生にあてることだけを欲した。》


…………

このクンデラの四つの眼差しは、ラカンの四つの言説理論といくらか重なる部分さえある(参照:「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)。

たとえば、第一のカテゴリーはほぼS1→S2(主人の言説) 第四のカテゴリーは$→S1(ヒステリーの言説)とすることができる。

第二、第三のカテゴリーはラカンの四つの言説内に当てはめるのはやや困難かもしれない。第二のカテゴリーはおそらく、想像的ディスクール(参照)とでもいうべきものか(クンデラの叙述を拡大解釈すれば、という意味だが)。

想像的ディスクールとは想像的ファルスにかかわる。父の名の支えが弱いときには、ひとはそのディスクールに傾きがちだ。そしてそれは基本的に二項関係の言説である。

"I have/am the phallus more (or less) than that other" (competition).
"The other doesn't give me enough of the phallus" (revendication).
"Not I but that other has/ is the phallus" (jealousy).
"I don't have/ I'm not the phallus and will never have/ be it" (depression).
"I have/ am the phallus" (narcissism).

PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009

〈競争〉
・ボクは他の人よりももっと(or すこし)ファルスを持っているよ
・アタシは他の人よりももっと(or すこし)ファルスだわ

〈クレーム〉
・他の人は、ボク(アタシ)にじゅうぶんにファルスをくれない…

〈嫉妬 〉
・ボクじゃないんだ、他の人のほうがファルスを持ってるんだ
・アタシじゃないの、他の人がファルスなの

〈抑鬱〉
・僕はファルスを持っていないし、けっしてこれからも持たないな
・アタシはファルスじゃないし、けっしてこれからもそうじゃないわ

〈ナルシシズム〉
・ボクはファルスを持ってるさ
・アタシはファルスよ

ーーここでのファルスはほぼ「(他人の)欲望の対象」と置き換えてよいだろう。“objet du désir”であって、セミネールⅩ以降明確化された対象aの定義、“objet cause du désir”とは異なる。

あるいは次ぎの文とともに読めばよりわかりやすい。

男は十分に想像的ファルスを持っていないことを怖れる。女は十分に想像的ファルスでないことを怖れる。(ラカン、セミネールⅣ、摘要)

ーーラカンはこの時点では対象a概念が曖昧なままで、後に明確化されるその概念のうちのいくつかの定義のうちの一つにはほぼ等しい(参照:定義②)。

そして二項関係とは、「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちとの二項関係という意味である。

父なき時代(参照)には、このカテゴリーの人びとが増えてきたということはいえる。かつまた一神教ではない日本は父なき時代の先進国のひとつだという観点もあろう。父の名など昔から機能していなかったよ、と。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 )

そうとはいえ、父の機能がまったくないではない。

父の機能は、ユルんだにしろ、まだ生き残ってるさ。より普通の地位の父だがね…オヤジ言葉で印象づけたり驚かしたり父がいるじゃないか…ミレールが言ってるが、現代の政治家だって、道化ているが、印象づけようとしているぜ…これが「ふつうの父の名」さ。(エリック・ロラン Psychosis, or Radical Belief in the Symptom" 2012、超訳)

この「ふつうの父の名」をかかえた人たちが、世界的に増えてきているし(象徴的権威の崩壊による)、さらには日本はその先進国であるということはいえる。つまり日本では、欧米諸国とくらべて、より「想像的ディスクール」が活発なのはやむえない。しかも言語の構造が二項構造をもっている。時枝誠記が言った《日本語は本質的に「敬語的」》とは実は二項関係構造という意味でもある(参照)。

おそらく、この想像的ディスクールがかねてより蟠踞する国での、承認欲望猖獗はやむえない。アイツは承認欲求の塊りだよ、というたぐいの嘲弄でさえ、上の想像的ファルスの五様態の記述から判断するかぎり、承認欲望言説でありうる。

…………

かつては「後姿や背中でものを言う時代」、すくなくともその「ふり」をする時代があった。今は多くの人にレスポンスを貰うことを指向し、いろいろな仕組み作りを試みる時代だ。蓮實重彦曰くの「貧乏臭い」時代。

もちろん「背中の時代」でさえ、荷風の文章ように、《背が見えていたかと思うとくるりと顔がこちらへ向き直るという戦慄》(古井由吉『東京物語考』)はある。つまり、時に読者に面と向かって「想像的に」語りかける。それはしかし須臾の間だから尊いのであって、ふだん背中でものを言っていたおかげの戦慄である。

《私の批評は、見る人のことなどまったく考えず、もっぱら撮る人のことばかり考えて書かれたむなしい「恋文」のようなものだったのかも知れません》と言う蓮實重彦は、荷風と同様ーーいや、荷風は第四のカテゴリーかもしれないーー、第三のカテゴリーの人としてよいのだろうか。《愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリー》の人として。

すくなくともその「ふり」をした、そしてそれが可能であった時代の批評家だろう。