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2016年1月22日金曜日

「殺すな!」という定言命法とトマト・ジュース

標準的な批判によれば、カントの「定言命法 (Kategorischer Imperativ 」(人の義務を為すための無条件な命令)という普遍倫理の限界は、その形式的不確定性にあるとされる。すなわち、道徳法則は、私の義務が何か教えてくれない。たんに私は私の義務を果たすべきだと告げるだけだ。だから、空虚な主意説 empty voluntarism の余地が残されている(私が私の義務だと決めたことは何でも私の義務だ)。

しかしながら、限界であるどころか、まさにこの特徴が、カントの倫理的自律性の核心を我々に与えてくれる。すなわち、道徳法則自体から、人の特殊な状況に染みついている具体的責務を引き出すことは不可能である。これが意味するのは、主体自身が抽象的な命令を一連の具体的責務に翻訳する責任を負わなければならないということだ。このパラドックスを十全に引き受けることによって、我々は、言い訳としての義務へのどんな参照をも余儀なく拒絶せざるをえない。「私は知っている、これは骨が折れ痛みをともない得ると。しかし私にどうしろと言うんだ、これは私の義務だ…」

カントの倫理は、しばしばこのような姿勢を正当化するように取られる。何の不思議でもない、アドルフ・アイヒマン自身がカントに言い及んだのは。それは、ホロコーストを計画し実行する彼の役割を正当化しようとする時だった。つまり、彼は、ただ彼の義務を果たし、総統の命令に従っただけだと。しかしながら、カントの強調、ーー主体の全的道徳自律性と責任とへの強調の目標は、まさに、アイヒマンのようにして、大他者のある形象に責任を負わせるような、そのどんな策略をも防止することである。

私がベルナール=アンリ・レヴィと行った不幸な討論(パリのLe Nouvel Observateur のオフィス内での)にて、レヴィは物語った(たぶん、そうであったはずだ)、殺人に反対する説明のための個人的な経験を。1990年代初めのボスニア戦争のあいだの話だった。彼は包囲されたサラエヴォを訪れた。そこで、ボスニア政府の士官に前線の塹壕に連れていかれた。

ここからは、銃の照準器を通して、セルビア兵士が見える。近くの丘の上で、この兵士は、時おり、街の市民たちを銃撃している。引き金の上に指をおいて兵士を観察しつつ、レヴィは撃とうとした。しかし彼は抵抗したーー「殺すな!」という命令が、彼にとっては、無条件だ。

私には、このような反応は、最も純粋な道徳的偽善だった。レヴィは、この紛争においてボスニア側を全面的に支持していた(私もそうだった。だからそこには何の意見の相違もない)。しかし彼の銃撃の拒絶が意味するのは、彼は同じ立場にあるボスニア兵士には引き金を引くことを期待しつつ、レヴィ自身は手をきれいなままにしていたいということだ。そして不可欠な汚れ仕事は、他者に委ねようと。このようなジレンマに直面して、唯一のほんとうの普遍的態度は、自身の手を汚すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

さて、このジジェクの論理は、 カントの『人間愛から嘘をつく権利の虚妄』の論理と整合性があるだろうか。すなわち、 《友人を追ってきた刺客の質問に対して、自分は友人を匿っていないという嘘の返答をすることは許されるか》という問いだ。カントは、これに対して、 嘘をつくべきではないと答えている。

ジジェク組(ジュパンチッチ『リアルの倫理―カントとラカン』)の応答は、ここにまとめてある、→PDF:「ハンナ・アーレントが言わなかったこと」(伊藤正博)。アーレントによるアイヒマンの釈明への問いも記されている。

…………

 しかし彼が谷の向こうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見た時、私の心で動いたものがあった。

それはまず彼の顔の持つ一種の美に対する感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他我々の人種にはない要素から成立つ、平凡ではあるが否定することの出来ない美の一つの型であって、真珠湾以来私の殆ど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、その敵前にある兵士の衝動を中断したようである。

私は改めて彼の著しい若さに驚いた。彼の若さは最初私が彼を見た時既に認めていたが、今さらに数歩近づいて、その前進する兵士の姿勢を棄て、顔を上げて鉄兜に蔽われたその全貌を現した時、新しく私を打ったのである。彼は私が思ったよりさらに若く、多分まだ二十歳に達していないと思われた。

 彼の発した言葉を私は逸したが、その声はその顔にふさわしいテノールであり、言い終わって語尾を呑み込むように子供っぽく口角を動かした。そして頭を下げて谷の向こうの僚友の前方を斜めにうかがうように見た。(この時彼がうかがわねばならなかったのは、明らかに彼自身の前方であった)

人類愛から発して射たないと決意したことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。(大岡昇平“捉まるまで”―『俘虜記』)

ジジェクはユーゴスラビア戦争をかい潜って、あるいは残酷非道な映画を見過ぎて、自ずと「脱感作」の訓練をしているんじゃないか。

《言っておかなくてはならない最初のことは、哲学は私の最初の選択ではなかったことだ。クロード=レヴィ・ストロースの古いテーゼが断言しているのは、どの哲学者、どの理論家も、彼らが果たせなかった別の職業をもっているということだ。そしてその不首尾が彼らの全存在に徴づけられている。クロード=レヴィ・ストロースにとって、彼の最初の選択は、音楽家になることだった。これが、レヴィ・ストロースにあるような構成的なメランコリーの光沢をもたらす。私にとって、私の書き物から明らかなように、それはシネマだった。》(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)

デイヴ・グロスマンの『「人殺し」の心理学』……まあ、軍に雇われた心理学の報告ですから、文字通りに真に受けていいかどうかわかりませんが、とりあえずこの本を信じるとすると、南北戦争から太平洋戦争まで、敵と対峙したとき味方の兵士がどのくらいの確率で実際に敵に対して発砲するかどいう発砲率は10~15パーセントなんだそうです。つまり、いざ敵に向かうと、兵士はグロスマンの言う「インスタントな良心的兵役拒否者」になる。人間はその程度には良心的であって、もともと殺人に対して心理的抵抗がある、と。(……)

そういうことに軍が気づいたのは1946年だそうで、マーシャルという准将が、海軍の心理学者に、発砲率向上の心理学的テクニックを考案せよ、という命令を出した。これが非常に成功をおさめ、発砲率を、朝鮮戦争で55パーセント、ヴェトナム戦争で95パーセントまでもっていけたというんです。(……)

まず、心理学的な訓練に順応しやすい若い兵士、だいたい18歳くらいの兵士を使った。(……)そして三つのテクニックを使った。一番目は脱感作desensitization です。具体的なトレーニング方法としては、兵士の首を固定しておいて、残虐な戦闘シーンを延々と見せる。二番目は条件付け conditioning です。いままでのように同心円の的を撃たせていたのでは実践では全く役に立たないから、中をくり貫いてトマト・ジュースを入れたキャベツを、的にする人形の中に仕込んで、その人形を木立の中からチラチラ見え隠れするように動かす、それを撃つんです。命中すると、中身のトマト・ジュースが飛び散る。要するに、発砲と中身が飛び散ることとの条件付けをこの訓練でやった。脱感作をも含んでいると思いますがね。三番目は否認機制です。相手(「グック」=ヴェトナム人を中心とするアジア人)は人間ではないという意識を徹底させる訓練です。(……)ヴェトナム帰還兵の社会への不適応率の高さはこの訓練があれば全く怪しむに足りません。(『批評空間』2001Ⅲー1 「共同討議」トラウマと解離(斎藤環/中井久夫/浅田彰)ーー中井発言)


ジジェクには否認機制はなかったはずだーー。

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。 (ジジェク『快楽の転移』)

要するに、唐突に戦場を訪れた人間にとっては、ベルナール=アンリ・レヴィのような態度は、むしろ自然でありうる。それを「最も純粋な道徳的偽善」とするのはいささか酷ではないか。もっとも、これはカントの倫理解釈とは別の話である。

…………

発砲率95パーセントの兵士は社会復帰できません。ヴェトナム戦争のPTSDの特徴は、みんな加害体験によるものだ、という点です。被害体験はごくわずかだし、そのほうが軽症なんです。(同 中井久夫)
トラウマの歴史は、ベトナム帰還兵問題とともに始まる。一九七二年に終結したベトナム戦争からの帰還兵は米国社会において疎外され、社会問題を起こした。テレビ中継などで米国民は戦争の汚い現実を見た。この戦争における残虐性と不条理性(……)は、米軍は民主主義的軍隊だという国民的自己規定を粉砕した。しかも米軍史上最初の敗戦であった。米国民の誇りも倫理感覚も著しく傷ついた。ある意味では米国民全員が戦争神経症者となり、米国のエートスの一九七〇年代の大変化にはPTSDを考慮に入れる必要があるかもしれない。ベトナム戦争世代の米国PTSD研究者は一九九五年の阪神・淡路大震災を機に来日した時、帰還兵がいかに冷たく迎えられたかを強調し、「パレードも楽隊もなく/故郷に待つものは小石の上をさらさら流れる水ばかりだった」という詩を朗読した。ハーマンの著作にも、ベトナム戦争記念碑の建立がいかに精神的に救いだったかを記している。戦友会(ラップ・グループ、話そう会)の意義も語られた。この辺りは、第二次大戦におけるわが国の復員兵の迎え方、初期からの戦友会の存在、多数の戦争記念碑と異なる。これは、国民全体が敗北を受け入れたわが国と、軍だけが敗れたとする米国との差であろうか。あるいは、情報量が少なく、それもおおむね戦争美談に終始したわが国と、リアル・タイムの「テレヴァイズド・ウォー」だったベトナム戦争の差であろうか。リアルな戦争報道に懲りた米軍は一九九〇年の湾岸戦争においては報道陣の参入を厳しく制限し、その残酷さの隠蔽に成功した。しかし、この戦争参加者における身体的愁訴の多さは一部は化学戦によるもの、一部は敵の部隊をまるごと砂漠に埋めたといわれるごとき残虐不条理性によるPTSDの心気症的側面でなかろうか。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収 PP.89-90)

ここで中井久夫は何を言おうとしているのか、《第二次大戦におけるわが国の復員兵の迎え方、初期からの戦友会の存在、多数の戦争記念碑……》。

「靖国神社」の効用もあった(ある)、と言ってはいないか。